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2021年10月

2021年10月31日 (日)

時間には逆らえない

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「人生や運命には、ものの流れと勢いがあって、それにはいくら頑張っても、逆らえないものがあるような気がします。そんな時、じっと流れに身をまかせていたら、広い大洋に出ているかもしれません。」(瀬戸内寂聴)

人間だけでなく地球上で生きているものは、すべて前へ前へと進んでいます。立ち止まったり後ずさりなどできません。どんな悔しい経験をしても、どんな悲しい別れになっても人生の道は進むのみバック.オーライとはいきません。

やり直せない人生であるからこそ、短い人生に夢を託し希望を託し、未来を夢見て駆け足で走り抜くのだと思います。何十億年「時」を刻んだ地球の歩みを、人間如きが束になっても止められる訳でもなく、宇宙のチリに過ぎない人間などただ儚く消えるだけです。

川の流れに身を任す・・・川の流れを、思い出してみると・・・
くねくね曲がりくねった、大きな川・・・緩やかな斜面では、ゆっくりした流れです。急な斜面では、激しい流れです。右へ左へと曲がりくねった川に沿って、水も右へ左へと流れています。不自然なところは、1つもありません。自然の流れに従っている状態です。この様子は、人生でも同じです。

人生の流れに逆らっても、思うようにはいきません。流れに身を任せて、進んでいくことです。自然の流れには逆らわず、身を任せるのが一番です。流れに身を任せることで、自然の力が、人生の後押しになります。人は、自然にかないません。

2021年10月30日 (土)

環境保護は一人ひとり心がけ

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「きれいな町を子供たちに残すのは、一人ひとりの心がけ」

「環境美化の活動」
一般的に環境美化というと、ごみを拾うこと、ゴミの削減等不法投棄 の防止などが思い浮かぶことと思いますが環境美化活動は、「きれいな 町づくり、将来の世代へ引き継ぐ取組みであり大きく言えば地球の温暖化防止 や自然環境の保護」へと繋がります。

また美しい環境を保つことは、一人だけでは難しい・・・
ポイ捨て等、何より大切なのはひとり一人が関心、自覚を持つ事です。 また一方では高齢者の決められたごみだしの時間や曜日を守れない状況も現状です。歩行喫煙の禁止と車からポイ捨てを無くすことです。

また、美しい環境を保つことは、一人で清掃を行ったとしても、人が誰も見ていないから・・・車から・・・歩きながら・・・タバコの吸殻・空き缶・ペットボトルなど、平気で捨てていくことが現状です。

地域の環境に対して関心を持って行動することが重要です。また、地域外の人によるポイ捨て等によって、地域内での注意だけでは解決できない、マナーの悪さが課題です。
 
個人のモラル・環境教育・啓発活動
少数ではありますが、自分さえよければいい、市に税金を払っているからいいなど、地域の環境美化へ無関心な人もいます。地域でごみ出しのルールが守れない人へ・・・注意をしていく地道な取り組みが大切です。

少しずつ意識を変えていく工夫が必要です。教育・個人のモラルの意識の向上・啓発を高めることが大事と考えます。

2021年10月29日 (金)

思いやりについて

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「思いやり」は、人間が、生物として、そして集団として生き残るために、進化の過程で獲得した、遺伝的な性質であると同時に基本的文化の一つだと思います。

人類は、「思いやり」抜きでは集団の維持も、地上での繁栄もできなかったでしょうし、これからも生き残れないでしょう。
 
「世の中は弱肉強食。人が良いと、身を滅ぼす。」と考える向きもあるかもしれませんが、現実の世界では、信頼と助け合いに満ちた集団の方が生き残ります。人間ばかりでなく、集団を作りながら生活する生き物は皆そのはずです。
 
そもそも、「思いやり」とは何でしょうか。
辞書的に言えば、「相手の身になって、思いを巡らし、相手にとって良かれと思われる行動をとったり、発言をしたりする事。」でしょう。
 
まず「相手の立場になる」と言う事が、簡単ではありません。心に余裕がないと、自分の立場が先行してしまいます。
 
更に、相手の身になるには、相手の性格や置かれている状況、考えている事を理解していないと、相手の為と思って行った事が、的外れになり、相手からは、「押しつけ」とか「うっとうしい」と思われ、決して、心に届きません。心に届けば、たとえ、敵対していても、和解の糸口になる気がします。

「思いやり」は、心に届く強力なコミュニケーション・ツールにもなる・・・。健全な愛に包まれて育てば、自然に発達する心です。本来、「思いやり」は、誰でもできることです。

2021年10月28日 (木)

地域の原点は隣組

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「♪とんとん とかりんと 隣組」の歌は、ドリフターズの歌で知られいますが、終戦前後のラジオで覚えています。作詞者の岡本一平は、岡本太郎の父親です。

♪とんとん とんからりと 隣組 
格子(こうし)を開ければ 顔なじみ 
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり
 
とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
御飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり
      
とんとん とんからりと 隣組
地震やかみなり 火事どろぼう
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり
 
とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯
こころは一つの 屋根の月
纏(まと)められたり 纏めたり♪

この歌の詩は、本当に「人間の生きる原点」のような気がします。
現代では、通用しません?が、この精神は、「人は一人では生きられない、思いやり・助け合いがあって生きられる」人間社会を、思い出させています。

現代は、 社会保障制度で、高齢者、障害者、子どもなどの対象者ごとに、また、生活に必要な機能ごとに、公的支援制度の整備と公的支援の充実が図られ、人々の暮らしを支えています。しかし、高齢化や人口減少が進み、地域・家庭・職場という人々の生活領域における支え合いの基盤が弱まってきています。

暮らしにおける人と人とのつながりが弱まる中、これを再構築することで、人生における様々な困難に直面した場合でも、誰もが役割を持ち、お互いが配慮し存在を認め合い、そして時に支え合うことで、孤立せずにその人らしい生活を送ることができるような社会としていくことが求められています。地域共生社会は、誰もが安心してその人らしく生きていける社会をつくることです。

2021年10月27日 (水)

地域のコミニティこと

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厚生労働省資料より・・・以下私はその通りと思います。
今の日本は、高齢化や人口減少が進み、地域・家庭・職場という人々の生活領域における支え合いの基盤が弱まってきています。

暮らしにおける人と人とのつながりが弱まる中、これを再構築することで、人生における様々な困難に直面した場合でも、誰もが役割を持ち、お互いが配慮し存在を認め合い、そして時に支え合うことで、孤立せずにその人らしい生活を送ることができるような社会としていくことが求められています。
 
また、人口減少の波は、多くの地域社会で社会経済の担い手の減少を招き、それを背景に、耕作放棄地や、空き家、商店街の空き店舗など、様々な課題が顕在化しています。地域社会の存続への危機感が生まれる中、人口減少を乗り越えていく上で、社会保障や産業などの領域を超えてつながり、地域社会全体を支えていくことが、これまでにも増して重要となっています。
 
さらに、対象者別・機能別に整備された公的支援についても、昨今、様々な分野の課題が絡み合って複雑化したり、個人や世帯単位で複数分野の課題を抱え、複合的な支援を必要とするといった状況がみられ、対応が困難なケースが浮き彫りとなっています。
 
「地域共生社会」とは、このような社会構造の変化や人々の暮らしの変化を踏まえ、制度・分野ごとの『縦割り』や「支え手」「受け手」という関係を超えて、地域住民や地域の多様な主体が参画し、人と人、人と資源が世代や分野を超えつながることで、住民一人ひとりの暮らしと生きがい、地域をともに創っていく社会を目指すものです。

2021年10月26日 (火)

自然と共生を考える

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自然と共生ということ
「生物多様性の保全から自然共生へ」
地球の上の生き物はみな、なんらかの形でまわりの生き物に迷惑をかけながら生きています。他の生き物を食べる肉食・草食の動物はもちろんのこと、太陽の光を受けて静かに暮らす植物の存在もまわりの植物が光を受けるじゃまになります。
 
そんな中で、まわりの生き物への迷惑度合いがもっとも大きい種は人間でしょう。陸上にほぼくまなく分布して他の生物に迷惑をかけています。採って食べるだけでなく、もともといた生き物を排除した土地に作物を植えたり、建物や道路を作ったりしてきました。
 
そんな人間が「自然共生社会」などと言っても、それがまわりの生き物に迷惑をかけずに仲よくという意味ならば、おおくの生き物にとっては「それは違う?」ことになりです。

とはいえ、人類社会を維持していこうと思うなら、まわりの生物に迷惑をかけつつ、生態系の働きを利用し、自然に依存して生きていくしかありません。自然共生とは、人が生き物と共倒れになることなく、じょうずに迷惑をかけていくことだと思います。

2021年10月25日 (月)

奉仕の精神

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「他人の役に立つ」奉仕の精神の根本にあることは、他の人々の役に立つことです。誰か身近な人が困っている時に手を貸してあげたとき、助けた人から「ありがとう」と言われ、そのとき人の役に立ったときの、なんともいえない幸福を感じるものです。

人からお礼を言われて嫌な気持ちになる人はいません。人の役に立つといっても、特別なことでなくても、身近で簡単なことでいいのです。例えば、歩いていて前を歩く人がハンカチを落としたとします、それを拾って落とした人に、拾ってあげるだけで、立派に人の役に立つということです。

そういった身近に起こる出来事でも、人の役に立ちたいと思っていれば、多く人の役に立つ機会に出会うことができるでしょう。それが大切なことです。人の役に立たないといけないのではなく、「人の役に立ちたいと思うこと」こう思えることが奉仕の精神につながるのです。

人の役に立ちたいと思えるには・・・多く人の役に立った経験を持つことが一番の道です。それは、人の役に立った数だけ「ありがとう」と言われた経験を持てるからです。お礼の数だけ幸福感が増していくのです。

私は、「本当の幸せ感を得るには、他の人を幸福にすることにある」と思うのです。人の役に立つことは決してその人の為だけではないということです。人の役に立つ自分自身も同時に、幸福感を得るということなのです。

2021年10月24日 (日)

高齢者の心の迷い

御殿峠より市内を望む
何かに集中できる時間を持つと、心持ちが変わると思います。
私たちは、多種多様な学びを得るために、この世界に生まれてきました。本を読む、風景を眺める、瞑想する、楽器を弾く、運動する……好きなことなら何でも結構です。1日10分でいいので、何かに没頭できる・・・一人の時間を作れるといいと思います。
 
この没頭という状態が重要・・・
禅の世界では「三昧」という言葉がありますが、これは雑念を消した状態です。つまり、妄念(不浄な心)が一切ない、澄みきった状況です。澄みきった心の状態で何かに集中する、これこそ「魂が喜ぶ時間」です。
 
孤独や嫉妬に悩まず、心身ともに健康に生きるには・・・
何かに集中できる時間は、日常で感じる寂しさや虚しさから解放してくれます。寂しさや虚しさは心が揺れ動く際に入り込んでくるもので、心がしっかり集中している時には入り込んではこないものです。寂しさや虚しさを完全に排除することは難しくても、寂しさや虚しさにとらわれる必要はありません。

誰にも、どこからも一切しばられず、自由に感じ、自由に行動でき、好きなだけ無邪気に追求を許される時間、これが集中することの意義です。周囲に不利益を与えたり、迷惑をかけない限り、好きなことに一人で集中することは、心身の元気の…“源(みなもと)”です。
 
もしも時間が許せば旅行・・・
旅行がには大きな意味があります。自分の居場所を変えることで、日常では味わえない刺激が得られるからです。自分が普段と違う場所にいると、人間は好奇心と警戒心がないまぜになった緊張感を適度に持ちます。この緊張感が大切で、適度の緊張感が心身の健康をもたらしてくれます。

2021年10月23日 (土)

我が道を行く

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人間は、この世に自分一人しか持っていない個性と資質に誇りを持ち、わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切・・・瀬戸内寂聴

我が道を行く
「我が道を行く」とは、自分の意思や考えを強く持ち、時代や世の中の流行、周囲の大多数の意見に流されず行動できる性格や、他人を気にせず自分が思った通りに行動するさまを表します。


他人の目を気にする暇はない
自分の人生として与えられている時間は有限です。「これをやって周りから変に思われたらどうしよう」と考えている時間がもったいないです。

我が道を行く人は、自分の将来の幸せを見据えて日々努力を重ねています。努力を積み重ねることで、他人に捉われない自分だけの幸せや人生の目標が見えてきます。
 
我が道を行く心構えの一つとして、意識的に他人の目を気にしないようにして、思い切って自分がやりたいと思っていることをやってみることです。自分の考えや思いを信じてやりたいことをはじめてみることで、だんだんと周りの目を気にすることがなくなり、他人を気にする生き方からも解放されていきます。

他人に迷惑をかけない
我が道を行くときは、他人に迷惑をかけないことを心に留めておくことです。たとえば、我が道を行こうとする人は、他人に自己主張する傾向がありますが、状況や周囲の気持ちを鑑みず主張し続けることは、迷惑以外の何ものでもありません。

我が道を行くことで本当の幸せが掴める
我が道を行くことは、自分を信じることからはじまります。自分が正しいと思ったことを信じ、堂々と行動・主張することを心がけることです。

2021年10月22日 (金)

地域の環境について

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将来へ自然環境を引き継ぐことは、現代人の使命です。
環境美化活動は、美しいまちを将来の世代へ引き継ぐための取り組みです。個人のモラルの問題が大きく関わるため、きれいにするための活動だけでなく、個人の意識や環境への関心を高めることも重要です。

《 個人のモラル・環境教育・啓発活動 》
○ 環境美化への啓発
少数ではありますが、自分さえよければいい、市に税金を払っているからいい等、地域の環境美化へ無関心な人もいます。歩行禁煙・ゴミ捨て禁止の看板があるところでも、タバコの吸殻・空き缶・ペットボトル・ゴミは、捨てられています。

〇 地域の自然環境は地域の人で守る
今世界は様々な土地で環境の変化が起こっています。気温や海水温の上昇、生態系の変化、海面の上昇、雨の酸性化など悪い方向に向かって進んでいます。これは私たち人間の生産活動が生み出した結果であり、環境や動植物がその影響を受けているのです。
 
このままいけば、いずれは私たちも住めないような環境になる可能性も否定できません。そうならないためにも、環境保全が今必要とされています。

〇 環境教育
地域住民がそれぞれ関心の持ち、環境美化への意識を高め、モラルの向上をめざして、子どもの頃から環境教育に、地域や学校と協力して取り組むことも重要です。

2021年10月21日 (木)

高齢となって気づくこと

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老いは克服すべき試練
年を重ねることへの不安は、「なるべく長く若さを保っていたい」という心の焦りを生むことがあります。心身の健康を気遣うことは確かに大切ですが、加齢を否定的に捉えるあまり憂鬱になってしまう人にとって、老化現象のすべては、克服すべき大きな試練のようです。
 
年を重ねることへのそうした不安は、「なるべく長く若さを保っていたい」という心の焦りを生むことがあります。

心身の健康を気遣うことは確かに大切ですが、加齢を否定的に捉えるあまり憂鬱になってしまう人にとって、老化現象のすべてはまるで克服すべき大きな試練のようです。
 
しかし、実際に高齢者と呼ばれる年齢の方々に今の生活に、決して不満の多い人ばかりではありません。むしろ、「若い頃より楽しい」と人も多いようです。

高齢になるほど幸福感が増すという人もいます。
若い頃より多くのものを失うはずの高齢者が、実は幸福感の低下どころか向上を感じている現象・・・客観的に見れば老いるほど減退するはずの幸福感が、当人にとっては逆に増しているという矛盾した状態「パドラック」をさします。(一般に正しいと思われていることに反することがらをいう)

高齢期に幸福感が向上する理由は?
人と比較される場面が減ることで心が平穏に・・・仕事を引退したり、それまで参加していたコミュニティから身を引く年齢になると、少し淋しさを感じる一方、無理な人付き合いから解放されて気が楽になることがあります。

他人と自分との能力差や境遇を比べてストレスを感じる必要もなく、自分の価値観に従ってマイペースに過ごすことができる毎日は、心に平穏な幸福感をもたらしてくれると言えます。
 
自分らしい新たな居場所を見つけられる
引退によって社会的な居場所を一部失ったとしても、時間的・精神的余裕ができたことで、共通の趣味などを持った人々と新たな人間関係を築けるのも楽しみのひとつです。また、これまでの経験を活かし、別の形で社会貢献をしようと取り組む高齢者には、より自分らしい新たな居場所とやり甲斐が生まれます。

2021年10月20日 (水)

後世に自然環境を引き継ぐ

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エコ(環境保全)とは、「環境への負荷」を減らすための活動のことを言います。
地球温暖化をはじめとする様々な環境問題が深刻化し、環境への負荷が増しています。社会全体を持続可能なものへと変えていくためには、一人一人が環境を大切にし、環境に配慮した生活や責任ある行動をとることが不可欠です。
 
また、空気や水、毎日の食べもの、豊かな自然が与えてくれる貴重な恵みに感謝し、将来までずっと自然の恵みを得られる環境を維持し、後世へ引き継がなくてはなりません。

「地球環境が大変です」「自然や生態系を守りましょう」「地球にやさしく」…地球環境の危機を伝える情報と、この問題への取り組みを呼びかける言葉が今、世の中にはあふれています。
 
ニュースでは毎日のように、何か環境にかかわる報道があり、インターネット上でも多くの情報が発信されています。学校でも子どもたちが授業で環境のことを習い、関心と知識とをたくわえる機会に恵まれています。
 
しかしなぜ、環境を保全しなくてはいけないのか、という理由を、誰かが納得のいく形で明確に示してくれることは、なかなかありません。なぜなら、その本当の理由は、一人ひとりの心の中にあるからです。

環境問題、それは私たち自身の問題
世界には、またもっと違った理由で、環境問題に取り組む人たちがいるでしょう。環境というものの捉え方や考え方もさまざまですし、時には全く相反する見解を持つ人たちもいるに違いありません。

私は、「後世に良い環境を引き継ぐこと」にあると考えます。
もし、あなたが、本当に何かの環境問題に危機感を感じたら、なぜそう感じたのか、なぜその問題を解決したいと願うのか、自分なりの理由を、探し続けてみてください。

2021年10月19日 (火)

人の命の尊さ

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今の世の中、人と人が殺し合い、戦争や、平気で人の命を奪う・・・事件そして、いじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見るたびに、“やるせない”気持ちいっぱいになります。

一体どれだけの人が、それらのニュースを真剣に向き合っているのでしょうか。
ある人の言葉の中に、「今の社会の殆どの問題で、悪に対して『自分には関係ない』という人が多くなっている。自分の身にふりかからない限り、見て見ぬふりをする。

それは実は、悪を応援することになる。私には関係ないと言うのは、楽かも知れないが、一番人間をダメにさせていく・・・。一人の人間らしさが、削られ、どんどん消えてしまう。それを自覚しないと悪を平気で許す無気力な人間になってしまう。」ということです。

本当にその通りと思います。どんな小さな悪に対しても、決して許してはいけないのです。それから悪が、エスカレートいくのです。

今の現実がそれです。命を軽く考えている人たちに、病気と闘っている人たちの姿を見てもらいたいものです。私たち人間は、いつどうなるか誰れにも分からないのです。だからこそ、一日一日がとても、大切なのです。

私は自分の使命を果たすため、亡くなったみんな分まで、精いっぱい生きていきます。今生きていることに感謝して、悔いのない人生を送りたいです。

2021年10月18日 (月)

集める人生から散らす人生

東京工科大学3
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集める人生とは、与えられた時間を自分の利益のために使い、財産、能力なども自分の欲望を満たすために使う生活態度です。すなわち自分中心で他人のことに配慮しない生活態度です。

それに対して、散らす人生とは、時間も自分の財産も、能力も、自分と周りの人のために使う生活態度です。他人と分かち合って共に生きる生活態度であると言えます。

どうして、集める人生より散らす人生が幸せな人生と言えるのでしょうか。
人は、基本的に他人と共に生きていきたいという欲求を持っています。人が、本当に幸せを実感できるのは、自分の周りのみんなも幸せである時です。人は、分かち合いの人生に、その心を満足させます。その分かち合いによって相互の連帯性を感じ、協調性を感じます。

散らす人生は、愛に満ちた人生です。愛ある人は、受けるより、与えていくことに本当の喜びを実感する人です。散らす人生は、愛を実践していく人生ですから、他人の苦しみ、悲しみを共有する感性に満ちています。

感性は、感じ、感動し、実践の三要素で構成されています。ですから、散らす人生観の人は、自分の持っているすべて、できることのすべてを出し尽くして、自分のやろうとする目的を実現していきます。

私たちは、自分の欲望を満足させるために、自分に与えられた特質を利用して集めるのではなく、周りの人々の幸せのために、自分の特質を利用し、集めたすべてのものを散らしていくための人生を歩みたいものです。

豊かに散らすためには、まず、豊かに集めるために一生懸命にならなければなりません。何もない者は、何も他人のために散らすものはないのです。集めることは、散らすためであることを忘れないことが重要です。

2021年10月17日 (日)

利他行で幸福度を高める

道了堂参道
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人間は本来社会的な動物であり、自分以外の他者と共同共存しながら生活をしていくことが根本にあります。

困っている仲間を助けたり、自分の気持ちを抑えて相手のことを思いやったりします。これらの行為は、動物としての人間の本来的な姿であるといえるのです。そのため、人間が社会的な動物として、他者とどう関わっていくかを考え、利他の精神をもって行動することは、人間の本来の姿にマッチしているといえます。
 
さらに、人間にとってプラスになる利他的な行為のなかでも、身近な、具体的な行為をするほうが自身の幸福度を高められます。「社会貢献をしよう」といった大きな目標の行動より、「あの人が体調悪そうで困っているから、仕事を手伝おう」などの具体的で、目の前のことに関する行動のほうが、より効果的なのです。

「情けは人の為ならず」、古くから言い伝えられてきていることわざがあります。人間は「他人のため」に何かをすること自体を喜びとするものでし、「他人のため」に一生懸命努力している姿に感動するものです。

「他者に親切なものには、より親切に振る舞う」という「正の連鎖」は良いのですが、「他者に親切にしないものには親切にしない、もしくは罰を与える」という「負の連鎖」や「倍返し」は断ち切らなけれがいけません。

2021年10月16日 (土)

思いやりについて

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「思いやり 」とは、他者に対してその状況や置かれている立場、その時の心情などを推し量って理解し、共感するときに生じるものであり、 自己の微力ながらも何らかの役に立ちたいという、利害打算を越えた道徳的心情及び行動が他者に対して取られていくことです。

人と人とが「思いやり 」
の心をもち、相手の身になって考え、だれに対しても温かく接することは、よりよい人間関係をつくるため、また明るく潤いのある社会生活を営む上で 極めて大切なことです。

「思いやり Jの価値は、道徳的価値の中でも最も基本的な価値であり、関連する価値も多い・・・
「思いやり 」の心とは 「親切」・「信頼」・「友情」・「公正」・「公平」といった価値と関連させながら、「社会奉仕」という価値にまで広めることで、より確かな「思いやり 」の心が育つものと思います。 さらに 体験活動の場での実践と関連づけることにより、価値の主体的な自覚が図られるものです。

ボランティアと「小さな親切」に違い
思いやりの心は共通ですが、ボランティアには必ず実行行為が伴います。「小さな親切」は、心の中に思いやりの芽を持つことが第一歩です。そして、その心を各々の可能な範囲で実行できれば良いと考えます。

2021年10月15日 (金)

心の拠り所について

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「心の拠り所」とは、「支えてくれるもの、頼みとするところ」を意味します。「心の拠り所」を持っている人というのは、どんな時でもぶれずに自分を持っているように感じさせるものです。その理由はどこにあるのでしょうか。
 
心が折れるのを防いでくれる
毎日の生活のなかで、ときには悩んだり疲れてひと休みしたくなることもあって当然です。でも、誰かに心の内すべてを話して相談するというのは年齢が上がるごとに難しくなるものです。折れそうな心を支えてほしい、そんなときに大きな味方になってくれるのが「心の拠り所」です。
 
安心感を与えてくれる
「何があっても帰る場所がある」という確固たる思いがあると、人は強いです。心の拠り所とは、そんな、頼りにすべき対象でもあります。そして、心の拠り所にしているものを思い浮かべるだけでなんとなく安心感を得ることができます。その安心感は次につながる力をきっとくれるはずです。
 
生きがいになる
心の拠り所というのは、何かあった時に心を支えてくれるものであると同時に、慰めや癒し、気力を生み励みとなるもの、生きがいとなるものでもあります。
 
毎日をただやるべきことだけやって淡々と過ごすのではなく、少しの時間でも「これが私の生きがい」と思えるようなことに時間を使うことができれば、充実度が上がり、毎日を輝かせることができるでしょう

2021年10月14日 (木)

人を信じること

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「その人を信じようと思う」

と、いう言葉は日常けっこう使うと思いますが、「それがどういう意味なんだろう」と考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、「自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのか」と感じてしまっています。

だからこそ人は「裏切られた」とか、「期待していたのに」とか言うけれど、別にそれは「その人が裏切った」とかいう訳ではなくて、「その人の見えなかった部分が見えただけ」であって、その見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められます。

「信じる」とは、人間が獲得する能力ではなく、すべての人のなかに既に与えられていて、あることを契機に開花する、ある種の本能なのではないでしょうか。
 
そして、「信じる」という言葉は、思い込む…念じる…祈る…あるいは信念などの語と類似していて、「自分の意志の力で作り上げる心理作用」です。私たちの「信じる」には、どうしても自己の意思が混じります。

私たちの心は大変うつろいやすく、もろいものです。そして、その心から生み出される「信」も同様にもろく、残念ながら簡単に揺れ動いてしまいます。そう考えてみると、純粋に信じるという行為はなかなか難しいものです。

2021年10月13日 (水)

天網恢恢疎にして漏らさず

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世の中は不平等だと思うことってありませんか?
同じことをしていても、称賛される人がいればそうでない人もいます。悪事を働いても罰せられずのうのうと生きている人がいれば、何の罪も起こしていないくても自由や命を奪われる人もいます。

完全に不平等に思える世界ですが、かの有名な「老子」の言葉では少し異なった見方をしています。とは言え、いまの世の中を見ていると、私たちは納得いかないこがあります。

「天網恢恢疎にして漏らさず」
《「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。 悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。

しかし、今の世の中、悪事を働いても権力のある人間はほとんど罰せられることがありません。悪事とは・・・悪い行ない。法や道徳にそむいた行ないです。ゴミのポイ捨て、歩きタバコの吸殻のポイ捨ては当たり前の行為と勘違いしている人がいます。これらの罰は重大です。

環境破壊に繋がるのです。そして、取り返しの付かない地球温暖化・・・異常気象の天罰で、苦しみは深まっていることに気付いて欲しいのです。日常の行動を検め(正しいかどうか調べて確かめる)、清く慎ましく生きることです。

2021年10月12日 (火)

野の花の心

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人生は目的地が不明であり、幾多の障壁や困難が道を遮っていくものです。

信じた人にだまされ、愛した人から裏切られる…夫婦間でも、言葉で傷つけ、傷つけられる…病気、事故災難、経済的問題、自然災害、最近ならコロナ災禍などが襲い掛かることもあります。
 
純粋な夢と希望を抱いて出発した人生が、傷心の日々の中で、不信と不満と猜疑(さいぎ)心で、心に汚れが付き、なえてくるのです。
 
会社や親族、町内の人間関係の煩雑さで、人からどう思われ、どう評価されるかを気にするようになり、自分らしさを見失い、心の美しさと強さを失っていきます。そのため、ひどく臆病な人生を歩むようになることがあります。
 
では、どうしたら、心が汚れず、美しさを保って、何事にも動じない強さを持って生きることができるのでしょうか。
 
そんな時は、道端でけなげに咲いている野の花を見ればいいのです。
花にも、人間の手を介在して咲く花と、自然のままで、一切人の世話を受けずに咲く花があります。花壇で咲く花、花屋さんに陳列される花、温室で手厚く育成される花は、人が丹精を込めて育てるので、暴風雨や日照りで、枯れ果て、なえる心配はありません。
 
野の花は・・・
「私の主人は、天の父母様、神様です。神様は、いつでも、私を愛してくださり、なんの不足も感じたことがありません、喉が渇けば雨を降らせ、運動したいと思えば、風を吹かせて揺らしてくださいます。私は、ひたむきに天の父母様を信じ委ねています。心配したことは一度もありません。」
 
人生は、人だけを見つめていると、一喜一憂、心配で、疲れるだけです。しかし、天の父母なる神様を信じて、委ねていけば、必ず道は開かれるのです。
 
純粋に、神様の愛を信じて疑わず、至誠感天、ひたむきに、神様の道を歩んでいく強さがあれば、全ての困難と障壁は消滅するのです。神様は、信じて求める人を決して失望させないからです。

2021年10月11日 (月)

良寛さんの生き方に学ぶ

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「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」
 
(自分の良いところも、悪いところも、隠さずにすっかり見せたから思い残すことはない)
 
「形見とて
    何か残さむ 春は花
       山ほととぎす 秋はもみじ葉」
 
(残そうとしても何かが残るという世界の仕組みではないし、残るべきものとしてあるものは、人の手を離れてすでに残って、ある)
 
辞世の句と言われています。
こんな良寛が多くの人々の心をとらえて離さなかったのはなぜなのでしょうか? 一見自由気ままに作られたようにみえる漢詩や和歌を深く読み解いていくと、その理由がわかってきます。
 
「透徹した自己への洞察」「すがすがしいまでの清貧さ」「人や自然への温かいまなざし」「老いや死に向き合う強さ」等々……良寛の漢詩や和歌からは、全てをことごとく言葉で書き尽くすことで人生全体を修行の場にしていこうという生き方が伝わってくるのです。その生き方こそが人々の心を揺り動かしてやまなかったのです。
 
厳しい競争社会、経済至上主義の風潮の中で、気がつけば、身も心も何かに追われ、自分自身を見失いがちな現代・・・良寛の漢詩や和歌を通して、「命」や「自然」、「老い」「死」といった普遍的なテーマをもう一度見つめ直し、人生をより豊かに味わう方法を学んでいきたいものです。

2021年10月10日 (日)

地域を愛し感謝する心

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人は自分一人では生きていけません。家族や地域の人たち、自分を取り巻く大自然の恵みに支えられ、そして人間社会・地域社会の一員として生きていられるのです。

地域社会とは、人間の営みとして当然、私たちは地域という社会の中で暮らしています。そこには何らかの隣人との関わりがあることは自明のことです。しかし現代社会、他者との関係も昔に比べ、希薄になっています。

自分たちが住み、自分たちを育んでくれる地域を愛し、感謝する心が大切
人に恵みをもたらすのは、大地です。人が、自分の“こと”ばかりにこだわって、自分を生かしてくれている天や地に感謝する心を失っては、元も子もなくなります。

自分が、生来ている地域を荒廃させ、退廃させることは、いかなる事があっても許されません。理念や観念を越えたところにある地域愛があるのです。

自分を育んでくれた、海、山や川に対する思い・・・
地域への愛があるから、私たちは、幸せになれるのです。郷土が与えてくれる恵みがあるから、人は生かされるのです。そして、今まで生きて来られたことに感謝すると共に、先代から引きついた地域の大自然を、後世に引き継ぐことが大切です。

2021年10月 9日 (土)

人間味のある人

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人間味とは、人として豊かな情緒があることであり、温かい人柄の人のことを「人間味がある人」というようにいいます。このように「人間味がある人」というのはポジティブな意味になりますが、「あの人は人間味に欠ける」と使うとネガティブな意味になります。
 
他人のために自分の時間と労力を使える
人間味のある人は、とても優しく、人のことを気遣うことができることが大きな特徴です。そのため、困っている人がいると放っておけません。人間味のある人は、たとえ、自分が忙しくても、体調が悪くしんどいときでも、自分のことを置いて人のために時間と労力を使うことができます。
 
そして、人間味のある人には、相手に対して「やってあげた」という気持ちはありません。誰かが困っているときや自分のことを必要と思ってくれているときに、手を差し伸べることは自分のためでもあると理解しています。
 
誰かのために使った自分の時間と労力は、自分の心を豊かにし、自分の内面を磨くことに繋がっていると確信しているのです。
 
感受性が豊か
人間味のある人は、とても感受性が豊かで、周りの人がどんなことを考えているのか、どんな気持ちでいるのかを敏感に察知することが得意です。人の感情に敏感なので、さりげない気遣いができ、たくさんの優しさを感じることができます。
 
そして、周りが楽しいときは一緒にめいいっぱい楽しみ、周りの人が悲しんでいれば一緒に悲しみます。人間味のある人は、表情がコロコロと変わり、喜怒哀楽が分かりやすいです。このような、表情豊かなところがとても人間らしく親しみやすいという印象を周囲の人に与えます。
 
そして、人間味のある人は、失敗や間違いをした人が1番、つらくて落ち込んでいることもわかっているのでフォローも忘れません。人間味のある人のこのような接し方は、相手に見守られているという安心感を与えます。
 
だから、怒られたり叱られたとしても自分を否定されたと感じることはなく、素直に反省することができ、失敗を次に繋げることができるのです。

2021年10月 8日 (金)

高齢者の理想郷

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ありあまる余暇時間を突き付けられ、喪失感の中で無為に、その日を生きるようなことが解消されれば、高齢化社会が抱える課題も緩和されるのではないでしょうか。

CCRCとは、「Continuing Care Retirement Community(継続介護付きリタイアメント・コミュニティ)」の略称で、アメリカで1970年代に登場しました。健康なうちに特定の施設へ移住し、介護状態になっても転居することなく継続的にケアが受けられるコミュニティを意味しています。現在アメリカ全体に約2000カ所のCCRCがあり、居住者数は推定75万人に上るという。
 
「日本版CCRC構想」は、首都圏の高齢者施設不足を解決するとともに、人口減少が進む地方へ高齢者が移住することにより、地域の活性化を促すのが狙いのようです。

子や孫の手を極力借りずに、健康寿命をより長く生きる事が出来る
環境で、高齢者の理想郷とも言えるのではない

でしょうか。現在米国で普及しているCCRCでは、コミュニティあたりの、入居者は一定以上の資産を持つ層に限られています。

老後を健康的に、かつ生きがいを持って過ごしたいという誰もが抱く願望を、対価を支払って満たすサービスという構造で、だれでも利用できるものではありません。

しかし、この発想と取り組み自体は一般の社会にも学び入れるべき点は多いのではないでしょうか。この変化に着目すれば、高齢者向けの社会作りは非常に取り組みやすいのではないでしょうか。

2021年10月 7日 (木)

真っ直ぐに生きる

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もしあの時、○○をしていたら・・・もしあの時、○○をしていれば・・・
世間一般に言うところの「たられば」で・・・していたら、していればと過去を後悔する・・・しかし、時すでに遅しです。
 
人は、生きていくうえで自分がしてきた言動を省みて、改め直し反省するの時が必要です。一端立ち止まり反省し悔い改め一歩踏み出すことは、人生にとって必要なことです。
 
しかし、だからといって、過度に過ぎ去ったことを後悔し続けることもあまり良くありません。なぜなら、過去は事実として受け入れなくてはなりませんし、その事実を消すこともできませせん。いつまでもそのことだけにとらわれていれば、決して前には進めないからです。
 
一方、○○になりたい。。。○○もしたい。。。と、目標を立てて進むことは大切なことです。しかし、目標に向かっていても、不意に災難、事故、病気などに遭遇することもあします。未来はだれにもわかりません。その未来を過度に見つめていけばいくほど、不安な気持ちだけが浮かんできます。

真っ直ぐ生きる
人生に「たられば」はないのです。懺悔や反省の後は、過去にも未來にもとらわれず、正しくまっすぐ前向きに生きること、今を見つめて、ただ一生懸命に歩んでいくことだと思います。

2021年10月 6日 (水)

高齢者の幸せ感

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高齢者が「健康」でいられることが、最も「幸せ」を感じます。
健康を損なってしまうと、家族と楽しい時間を過ごすことも、趣味に夢中になることも、好きな場所に行くこともままならなくなります。

時には家族や周りの人の手を借りて生活せざるをえなくなります。そういったことから、やはり自分自身が健康な状態であることこそが、「幸せだ」という人が多いでしょう。

また「配偶者も子供も健康」・・・
「家族が皆健康で、経済的にも苦労しない状況で、幸せに暮らせている。そして、「家族関係が良好で幸せを感じている・・・といった、配偶者・家族との関係性の良さも、幸せと感じることでしょう。

「幸せはお金では買えない」
〇 関係の深い人とのあたたかな関わり
〇 「ありがとう」と言われること
〇 介護予防に取り組み、前向きに努力すること
〇 おいしく食べること
などが、自分らしく生きることが、幸せにつながる・・・と思います。

そして、最期まで「自分らしく」生きることで、人は幸せを感じられるのです。「自分らしく」のカタチは、人の数だけありますが、共通項がひとつあります。

それは、だれかに押しつけられたり、強制されるものではないことです。このほうが身体にいいからといっても、本人の思いに反した押しつけになってしまっては、高齢者は幸せを感じることはできません。

2021年10月 5日 (火)

これからの共生社会を考える

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「共生社会」とは、年齢や障がいの有無等にかかわりなく、安全で、安心して暮らせる社会です。かつては地域の相互扶助や家族同士の助け合いなど、地域・家庭・職場といった人々の生活の様々な場面において、支え合いの機能が存在していました。

社会保障制度は、高齢者、障害者、子どもなどの対象者ごとに、また、生活に必要な機能ごとに、公的支援制度の整備と公的支援の充実が図られ、人々の暮らしを支えています。しかし、高齢化や人口減少が進み、地域・家庭・職場という人々の生活領域における支え合いの基盤が弱まってきています。

暮らしにおける人と人とのつながりが弱まる中、これを再構築することで、人生における様々な困難に直面した場合でも、誰もが役割を持ち、お互いが配慮し存在を認め合い、そして時に支え合うことで、孤立せずにその人らしい生活を送ることができるような社会としていくことが求められています。

つながりを再構築することで、人生における様々な困難に直面した場合でも、誰もが役割を持ち、お互いが配慮し存在を認め合い、そして時に支え合うことで、孤立せずにその人らしい生活を送ることができるような社会としていくことが求められています。
 
また、人口減少の波は、多くの地域で社会経済の担い手の減少を招き、それを背景に、空き家やシャッター商店街、耕作放棄地など、様々な課題が顕在化しています。
 
人口減少、地域経済の衰退、そしてコミュニティ存続への危機感。これを乗り越えるためには、民間・公共問わず、さまざまなセクターが領域を超えてつながり、地域社会全体を支えていくことが、これまでにも増して重要となっています。

2021年10月 4日 (月)

セロトニン不足を解消して元気で・・・

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毎日過ごしていると、良い事もあれば悪い事も起こります。
人の心は、そもそも放っておけばネガティブになるようにできているので、いつもコンスタントに元気な人の方が珍しいかもしれません。

10月に入りました、高い山では木々が色づき、季節は日照量が減りどんどん寒くなりますので、心まで冷え切ってしまうことも・・・ちょっとしんどいなぁ…心が折れそうだなぁ…疲れたなぁ…を解消するために・・・

日照時間が短くなる秋「セロトニン不足を解消する運動」
「秋」・・・運動を楽しむのにちょうど良い季節になりました。秋晴れの空の下で体を動かすと、心まで晴れやかになります。セロトニン神経は日光を浴びることと適度な運動を行うことで活性化されるいわれています。私はウオーキングを毎日するように心がけています。

健康とセロトニン
セロトニンは脳幹にあるセロトニン神経から分泌されます。 ノルアドレナリン(意欲)、ドーパミン(快感)と並び、心の安定を保つために必要な神経伝達物質です。セロトニンは主に幸福感や満足感を与えるホルモンといわれています。

2021年10月 3日 (日)

年を取ったなーと感じるとき

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「年を取ったな――」
人が年を取ったと感じようになるには身体的な理由と社会的な理由の2つがあります。身体的な面で、床屋で大きな鏡で自分の顔をしっかり見た時に”しわ”の多さ・・・歩いていた時に、ちょっと小さな石につまづきそうになる・・・階段が一気に登れなくなるなどです。

そして、しばらく会っていない人の名前を思い出せない・・・簡単な計算が頭の中で出来ない…などです。
身のこなしが速くて、ぜい肉が少なかった過去の自分と比べることで、年を取ったと感じるように、間接的なきっかけもあります。
 
大事なのは人の価値観や生き方
精神病になっても自分に自信を持って、生き生きと生活している人もいれば、精神的な病気はないけれど、なぜか自分に自信が持てずしょんぼりと生きている人もいます。前者は、“心は病気でも身体は健康”、後者は、“身体は病気でないけれど心は不健康”だと言える――心の健康が大事と思います。

年を取ったと思うことは悪いことではない・・・いいますが実に複雑です。年齢にかかわらず、気持ちが若い人は、年を取ったと感じている人より長生きする傾向にあるといわれます。

2021年10月 2日 (土)

自分の居場所のこと

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生きていれば、「居場所がない」そう感じる瞬間は、誰にでもあるものです。しかし、「居場所がない」というのは、完全に一人というような孤独で寂しい状態とは違います。
 
集団の中での自分の役割がわからず、とるべき行動が思いつかない状態に陥ったときに「居場所がない」ということが発生するのです。

たとえ、自分でその場所を選んだのだとしても、予想に反して「たまたま」つらい場所だったということはよくあります。それならば、別の場所を探してもいいし、もうしばらくその場所に居続けると決めてもいい…そこにいるか、いないかは、自分自身で選べます。本当につらいのは、その選択の余地がないときです。
 
「自分の居場所がどこにもない」と言う人がいますが、居場所がなくて当たり前なのです。すべては「仮の宿」であり、一時的な場所ですから・・・そこに行けば一生安心と言える居場所など、この世にはありえません。
 
「いや、今いる場所で咲こうとするくらいの根性がなければダメ…」
と言うのは、「今いる場所」や「自分」が絶対的な存在だと勘違いしているだけです。「誰か」の価値基準を無条件に受け入れて、そこで咲けるよう努力しろ!というのは、おかしな話なのです。
 
置かれた場所で咲かなくてもかまわない。ただ、やり方によっては咲くこともあります。その程度のスタンスで「置かれたところ」にいれば十分だと思います。

2021年10月 1日 (金)

人を助けて、人に助けられて

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「助けることで助けられている」
私たちは、この世に自分の意志で時代や場所を選択して生まれてきたわけではありません。

「第一の誕生」は受け身であり、与えられたいのちは、親や周囲の援助がなければ、そのまま失ってしまうような危うい存在なのです。そんな危うい誕生をした私たちが、何十年も生きられるのはなぜでしょう。

それは、あまり意識していないかもしれませんが、自らが持って生まれた「いのちの力」と家族や周囲のさまざまな人々の「お世話(支援)」があったからでは ないでしょうか。「迷惑をかけた」のではなく、「お世話」になってきたのです。
 
こうして「お世話」になりながら育ってくるなかで、私たちの心には、「できることで、誰かを助けたい」「誰かのために役に立ちたい」といった気持ち が、育っていくのではないでしょうか。

人と人がつながって生きるという双方向の人間関係の土台には、このようにお世話になったり、お世話をしたりすること を通して育つ人間への基本的信頼感があるのです。


真心を持って人を助ければ、必ず自分も人から助けられる・・・
常日頃、見返りを求めることなく人と接していれば、もし自分が困った時には誰かに助けてもらえることでしょう。心より人を助ければ必ず自分も助けられます。人のつながりを大切にしたいものです。

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