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2021年7月17日 (土)

心の故郷を想う


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私は、心の故郷を想うとき、純粋な心を思い浮かびます。
純粋な心とは、「純粋で私心のない心」子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり、魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。
魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまり普遍的に魂や心はこの世で、何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず、教育によってやってはいけないことばかりを、仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが、観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。

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