使命感を持つこと

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決断力とは、「何らかの問題や課題に対して、複数ある対応策のうち、意志を持って1つを選ぶ力」のことです。
「決断する」ということは、見方を変えれば、選択したもの以外は「切り捨てる」という意味になります。「選ぶ・選ばない」双方に何らかのリスクがあるため、伴うリスクが大きいほど、決断には大きな覚悟と責任が必要となります。
「選ぶ」だけでなく常にそこには「実行」「行動」が付随してきます。これは簡単なことではありません。なぜなら、決断を下すことにおける重要な要素の一つに「不確実性」があるからです。
人生は決断の連続
「この先何が起こるのか見通すことができない」「自分の行動、言葉によって何が起こるのか?」「この道を進んだらどこへ行き着くのか? もし別の道を進んだらどうなるのか?」──。
不確実性は、私たちを不安にします。
そして不安は焦燥感をもたらしたり、決断を下すことを妨げる障壁になったりします。また逆に、深く考えずに行動してしまうような心理的状態を引き起こすこともあります。
自分の人生は一度きりです。
誰かが考えて決めた道の上を歩くのは楽かもしれません。しかし、それは自分の人生なのでしょうか。自分の「今」の人生を精一杯生きることです。
周りの目を気にして、自分のやりたいことや自分が本来行うべきことを見過ごしていないか?他人が、どう思っているのかを気にすることは悪い訳ではありません。しかし、他人の考えに振り回されたり、周囲の目を気にし過ぎたり……それでは自分の「今」この瞬間を生きることは難しいです。
「今」この瞬間を精一杯生きるためには、時には常識を疑うことも大事。一般的に当たり前だと思われていることや、自分自身も常識だと思っていることが本当に当たり前のことなのか、自分の頭で考えることも必要な時があります。
「今」を生きており、充実した人生を送っている人たちが行なっていること、それは目の前のことに集中するということ。過去は今の自分で積み重ねで、未来は今の自分の連続・・・。
できることは今すぐに・・・「先延ばし」をやめて後悔のない、気持ち良い毎日を過ごすことです。仕事や家事において、いつかはやらなくてはならないと分かっていることを「先延ばし」にしてしないことです。
近年、侵入盗、ひったくり・詐欺・痴漢等の生活に身近な犯罪(生活犯罪)の急増・・・また、ゴミのポイ捨て、といった迷惑行為等の増加により「まちの安全と住民の安心」が大きく脅かされ、より不安を感じることが多くなっています。
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防犯や交通安全等の日常の安全・安心についても、子供の犯罪被害への不安を軽減するための、防犯に配慮やバリアフリー化による、高齢者や障害者等の移動の円滑化などの、安全・ 安心な生活環境の確保が課題となっています。
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「地域は私たち地域の住人で守る」
何から始めればいい?「地域安全活動に参加したい」「地域の力になりたい」と思ったとき・・・そのポイントは、「無理せず、できることから」です。
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例えば、町内でのあいさつ、声かけ運動、通学路の立番活動など、地域の中でのちょっとした、コミュニケーションや活動によっても、地域を見守る機会が増えることになり、不審者を寄せ付けにくくするといった効果があります。
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また、ウォーキング、ジョギング、買い物、犬の散歩などの、日常生活や事業活動の機会に、防犯の視点を持って見守りを行う「ながら見守り」という取組もあります。
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私は、ウォーキングしながら、町の美化活動(ゴミ拾い)をしています。そして担当エリア内での、懸案事項はについては、担当事業所・警察・国土交通省・市の福祉課などに、相談しています。
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多くの人が関心をよせ、問題提起をし、市・都・国の関係先にすることも、大事ですが、私たちで出来る、町づくりもあるのです。「地域のコミュニケーション」「一声運動」「地域住民の防犯パトロール」に参加することです。
新型コロナ感染拡大防止のため、行動が制限されている今だからこそ、人と人とのつながりが大切です。
町会は、ご近所のつながりで結成される「地縁」に基づく任意の団体で、防災・防犯活動や地域の催し等の親睦活動、交通安全運動など、より良い地域社会の実現に向けて活発に活動することが目的です。
コロナ禍で、例年の町会のイベントも無くなり、近所どうしのお付き合いを減ってしまい、極端な情報不足になっています。
家族葬で執り行う
地域での出来ごとの情報が、その都度耳に出来たのですが、コロナ禍で、情報が極端になくり親交のあった人でさえ亡くなったことの情報がなく、数日後、他人からの情報で知らされる?・・・と言ったことが不安・心配までになってきています。
お隣り、向こう三軒両隣りの精神
人間は一人では生きていけません。何らかの形で、他人に依存しています。ある時は助け、またある時は助けられる・・・この助け合い人の社会の基盤ともなっています。
「当たり前」・・・すごく無難な言葉ですが、これほど有難いと感じた言葉はないと思います。日が昇ると目が覚め、当たり前の日常だけどこれも奇跡・・・お腹すいたら当たり前のように ご飯を食べられる日常生活・・・。
どれもこれも日々の中では当たり前の日常・・・。でも、もしこの当た り前が少しでも崩れたら・・・。健康が害されたとき、いつもできていたことが出来なくなっ たとき、生活にすごく支障が出てそれだけで不安な時間を過ごす・・・。
まさに、このコロナのウイルスが変異株となり、不安な毎日とどこか重なるような気がします。出歩くにしてもマスクに 消毒薬、気が付けばすでに当たり前に用意されています。
よくよく振り返れば、どれもこれも、自分一人で出来る事ではな いことに気づかされます。それがいかに「感謝」しなければいけない事だと今更ながら気づか されます。
最近忘れがちな「当たり前」「感謝」は切っても切れない言葉だと思われる今だからこそ、 言葉に出して「ありがとう」と言いたいものです。
そして、心の中で感謝できるとまた一つ心が成長で きるような気もします。「当たり前がいかにありがたいか、感謝すべきか」を考えてみる のも、心の栄養になるかと思います。
「幸せに歳を重ねる」とは、「よい人生を送り天寿を全うすること」と思います。
長寿・高い生活の質・社会貢献となりますが、一方で幸福な老いのイメージは、他者の世話を受けることを前提とした「成熟した依存」関係の中で再評価していくことでもあります。
私は、単に病気がないというだけでなく、たとえ認知症や寝たきりの状況にあっても、その人が今持っている力を発揮し、今を輝かせながら健やかに生き、自分らしい最期を迎えることが、サクセスフル・エイジングに繋がるのではないかと考えます。
サクセスフル・エイジングを「健康や身体的機能の状況にかかわらず、ひとり一人が望む幸せな老後を過ごし、自分らしい最期を迎えること」と思います。
サクセスフル・エイジングとは、アメリカで生まれた言葉であり、「日本語で正確に言い表す和訳はない」とされています。サクセスフル・エイジングの持つ意味とは「良い人生を送り、天寿を全うすること」とされており、日本に元々ある言葉では「生きがい」や「幸福な老い」がその意味に最も近いものではないかと考えられています。
私は、サクセスフル・エイジングを「健康や身体的機能の状況にかかわらず、ひとり一人が望む幸せな老後を過ごし、自分らしい最期を迎えること」と思います。
悟りを開くために修行するのではなく、悟りの世界の中にいるから修行できるのです。「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だから修行できる…。それが道元の結論です。
私たちはついつい、これはいけないことだと知っていながら、でも……これぐらいのことはしてもいいだろう……と思ってしまいます。それは自分を甘やかしているのです。
「夢や望みがかなった時が幸せ」
食欲、睡眠欲、名誉欲、欲といわれるものすべてを手に入れたときに感じるのがこの達成感という幸福感になります。
達成感は、また新たな欲、煩悩を生む
達成感を得ても新たな欲が生まれてくると言うことです。人は欲によって生き、また向上心も生まれそれらをすべて否定するものではありませんが、食欲や、睡眠欲などは誰でも手に入れることができますが、すべての人が夢や望みが叶うわけではありません。欲に囚われて、人を殺したり、泥棒をしたり、人をだましたり罪を犯すこともあるのも事実です。
もう一つの存在感からくる幸福感があります。
己が今そこに居ることを他が認めること、知ってもらえた時に、得る幸福感と言うことです。何か偉大なことを成し遂げて有名になり自分の存在を知らしめると言うことも有りますが、もっと誰でも出来ることがあります。
たとえば挨拶もその一つです。朝、おはようと声をかけ、おはようと返ってくることもその一つです。何か他人に親切にしたり、他のために何かをしたりして、ありがとうと言われたり、感謝されたりした時に感じる幸福感が存在感という事です。
この存在感からくる幸福感は、達成感からこる幸福感より、とても小さいですが、誰でも簡単に得ることが出来る幸福感です。他のために、人のために何かすると言うことが、幸せになる、幸福感を得ることが出来ると言うことなのです。
格言で「情けは他人の為ならず」と言う言葉があります。他のためにすることはいずれ自分に返ってくると言う意味ですが、他の為にする行為すべてが、存在感を得ることであり、しあわせになる事そのものなのです。
達成感からくる幸せよりはとても小さいですが、誰でも得ることの出来る幸せがこの存在感と、言うことになります。欲や煩悩に囚われることなく存在感による幸せこそが本当の幸せと言うことになると思います。
他人(ひと)のために何かしてあげること、実践こそ人が幸せになるための方法であり、誰でも得られる存在感からくる、本当の幸せを得ることが出来るのではないでしょうか。
タバコのポイ捨てをする人間を頭に浮かべてみると、第一に「心に余裕のない人間」が浮かんできます。「ポイ捨て」は、社会に生きるすべての人が、使用できる公共の場所で、起きているのです。
不適切な形で吸殻を投棄する行為・・・ポイ捨てをする時点で「他者への配慮」が欠けていることは明確です。捨てる行為は・・・①自分とは関係ない場所だから~ ②誰かが掃除してくれるから~ ③車からのポイ捨ては他人に気付からないから~と思います。
また、これらは、当たり前の所作と思って、”たかがタバコの吸いがら一本”ぐらいで・・・と常習者・路上喫煙者は、ほぼポイ捨てを罪意識なく、長年の習慣でやっておられるようです。
小さなタバコの吸殻一本が、ペットボトル・空き缶・空き瓶・弁当の包装紙も、捨てられてしまっているのです。タバコの吸殻を捨てるのは、立派な大人の行為です。
中には路上喫煙禁止区域とわざわざ立て看板を設置してある路上や公園、あるいは喫煙を禁止しているところですら、ポイ捨てまでする輩までいます。市内の道路にタバコの吸い殻が日常的に捨てられている始末です。
私は、毎日ゴミ拾いをしていますが、まさにイタチごっこで、個人の取り組みには限度があります。ゴミのない、誰もが気持ち良く、きれいで住みやすい、私たちの町の環境の美化を心から願っています。
「生きがい」という言葉の使い方としては、「生きがいを感じる」というのが一般的であり、主観的な感情を表す用語であるともいえます。従って、何を生きがいと感じるかは人によって様々であり、一概に定義できるものではありません。
人によっては「生きていく上でのはりあい」というやや消極的なものから、「人生をどう生きていくか」というその人の人生の根源ともいえるような積極的なものまで、さまざまな捉え方があります。
私は最近、体力・気力の衰えを感じることが多くなってきていますが、「生きがいを持つ」「そして続けある」ことが、長生きの秘訣?と思っています。
〇 軽度な運動
毎朝、散歩などを習慣にしています。人に会ったら、「おはようございます」・「おはよう」・「行ってらしゃい」と、誰にでも挨拶をすることです。小学生から、お年寄りまで行うことです。
〇 日記を書く
日記は意外と頭を使います。朝から晩まで何をしたかを覚えていないといけないですし、毎日の生活の中で「日記に書く…出来事」散歩していて、人に会ってを意識して探さないといけません。
イギリスの歴史家・評論家
トーマス・カーライルの名言に「その思想が、たとえ高潔なものであっても、人間の最終目標は、行動である」・・・があります。
王陽明の『知行合一』を考えても・・・知っているだけで行動に移さないのであれば、知らないのと同じ・・・そう考えると、トーマス・カーライルの言う言葉の意味にグッと近づくことに・・・。
「人生は学びと行動の連続」
生きていると実感できるのは、何かに心動かされたり、自ら動いて事をなしたりするときです。食事をしたり、服を着替えたり、トイレに行くという、当たり前のことが自分で出来ることほど、幸せなことはありません。
病気になって動けなくなったとき、普段できている筈の事ができなくなって、ようやくそのことに気づく・・・。大病を患った人が口を揃えて言うのも、大抵の当たり前のありがたさではないでしょうか・・・
だとしたら、生きるとは、自ら動くことであり、動いた結果から学びとることではないかと思います。たとえそれが失敗の連続であろうと、次につながるヒントは潜んでいます。そして、善い人生の満足感は、行動と学びの連続の中にあると思います。
家事や子育ての毎日にうんざりする人もいれば、そんな生活に憧れる人もいます。仕事ばかりの忙しい日々に嫌気がさしている人もいれば、それをうらやましく思う人も…いつもと違った角度から自分を客観的に見る事で、小さな幸せが見えてきます。
老いて初めて分かることがあります。
「高齢期の輝き」は青年や壮年のように輝くことはあり得ないですが、歳を重ね、体力、気力の衰えを受け入れ、その上で自分の高齢期の生き方を、求め続ける姿こそが「高齢期の輝き」です。
自分の高齢期を大切にしたい
肉体的衰えは気力を萎えさせるし、「高齢期の輝き」は、そうした生物としての必然をありのままに受け入れ、その上で自分の置かれた境遇の中で、自分としての高齢期の生き方を、求め続ける姿なのだというのがわかってきます。
「善い人間」とは…善い行いをする人のことです。「善い行い」とは具体的にどのようなことなのでしょうか?
何が善くて、何が悪いのかの「判断基準」があります。なぜなら「善と悪」は相反するものであり、「善悪どちらでもない」ということになれば混乱してしまうからです。善悪の判断ができないと何もできなくなってしまいます。この「善と悪の判断基準」は本来であれば、親や学校が子供に教えなければならないものです。
では、何を基準にして「善と悪」を判断すればいいのか、正しい「善悪の判断基準」とはどういうことなのか?
①善の判断基準とは、自分にして欲しいことを人にしてあげること。(利他的、自己犠牲的な動機)
②悪の判断基準とは、自分がされたら嫌なことを人にすること。(利己的、自己中心的な動機)
どうしたら善い(良い)人間になれるのか・・・「善いこと」「悪いこと」を行うと必ず因果律(原因と結果の法則)により相応の結果が返ってきますので、実際に体験することで納得することができます。
何度もくりかえし体験することで、しだいに確信を持てるようになってきます。そうなれば習慣となって価値観もだんだん変わってくるでしょう。そして悪い行いをせず善い行いだけするようになれば、原因と結果の法則によって苦しみや悲しみから開放される時が来るでしょう。
多くの人が「もっと幸せになりたい!」と、考えながら必死に生きています。いったい、『幸せ』はどこにあるのでしょうか?
『幸せの道は前ではなくて、後ろにできるの。「幸せだ、幸せだ」って歩いてきた道が幸せの道になるの。』・・・斉藤一人