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「絆、温もり、思いやり、優しさ」は、今の時代に求められているキーワードだと思います。
私たちの町は、先人のたゆまぬ努力により、自然と調和する 町として発展してきました。そして今、少子高齢化の進 展や価値観の多様化により、人と人との関係が変化し、市 民相互の きずな がより大切になっています。
私たち一人一人が地域に関心を持ち、日頃から助け合い、身近な課題に取り組むことで、笑顔で暮 らせる安心・安全なまちをつくることができます。
家庭や地域で思いやりの心を育み、 ふれあいの家庭づくり 家族との 絆 きずな を深め、人を思いやる豊かな心を育み、ぬく もりのある「心ふれあう家庭」をつくることです。
ふれあいの地域づくり・・・ 地域に暮らし、働き、学ぶ中で、地域活動の輪を広げ、 みんなで支え合う「心ふれあう地域」をつくり、ふれあいのまちづくり 人とのつながりの輪を広げ、希望に満ちた、未来に輝く 「心ふれあうまち作り」が大切と思います。
人間は誰しもが、生まれた以上は、幸せになりたいと思っている存在だと言えます。
また、科学の発達はそのような人間の願いをかなえるための、歴史であったとも言うことができるように思われます。
ところで、私たちはどのような時に自分は「幸せだ」と感じるでしょうか。また、反対にどのような時に「不幸せだ」と歎くでしょうか。
考えてみると、同じ状態であっても、自分より幸せに暮らしている人を見ると、自身は不幸せであるように感じますし、自分より不幸せな暮らしをしている人を見ると、自身は幸せであるように思えたりもします。つまり、私たちの「幸せ」は、いつも他人との比較の中で考えられ、揺れ動いているのではないでしょうか。
「必要にして十分な人生」
私たちの人生には無駄なことなど一つもないということですが、それは嬉しいことや楽しいことだけではなく、辛いことや悲しいことも、その一つひとつが私の人生を、彩ってくれていることを教えている言葉です。
そして、そのような人生を生きることに目覚めた時、私たちは人生で出会うすべてのことに、感謝をしながら生きていくことが、出来るようになるのだと言えます。そして、ここに幸せだから感謝するのではなく、感謝できることが幸せであると思えるような、人生が展開していくのだと思います。
「一日の空過は、やがて一生の空過となる」
「空過」とは、「空(むな)しく過ぎる」「無駄に過ごす」というような意味です。
時をどのように有効に使うかは、その人によりますが、子どもころは、時はとても長く、流れも遅く感じたものでした。そして早く大きくなって、大人になりたいと思っていました。ところが、80歳代の高齢者となった今、時がとても短く、早く感じます。
今、老いて与えられた、時間をどう過ごすかは、大事なこととなってきました。生涯において、また、年をとってしなければならない事もあろう。しかし、いずれにしても大切なことは、今何をすべきかを知ることです。
今できる事が見つかった時、人は充実した日を送れる。
一日一日が大切であり、今日の一日を無駄に過ごすことは、生涯が空しく過ぎてしまう。長い人生、空虚な時を過ごしたことも、無駄な時間を過ごしたこともあったが、今はもう時間がない。ないからこそ、この言葉が胸に突き刺さるのです。
徳川家康の遺訓
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし・・・」があります。
私たちは、さまざまな出来事に突き当たり、苦しみ、思い悩み、時にはそこから逃れたくなることがあります。しかし、結局は、現実を受け入れた上で、自分自身がその対処方法や解決策を見出し、乗り越えなければなりません。
決して荷を降ろすことはできません。眼には見えないけれど、背負いきれないほどの重い人生の荷を背負って生きるほかないのです。
私たちが背負っている最も大きくて重い荷は、自分では思い通りにならない「生老病死」と いう問題ではないでしょうか。この荷は、決して他者に背負ってもらうことはできません。 たとえそれが血のつながった親子であったとしても、親が子どもの荷を代わりに背負って やることはできないのです。
雨の日には 雨の中を 風の日には 風の中 (相田 みつを)
雨の日には、雨を、そのまま全面的に受け入れて、雨の中を雨と共に生きる。風の日には、風の中を、風といっしょに生きてゆく。特別なことではない、ごくあたりまえの生き方のことです。
今、新たな道を歩まれようとされている皆さんの前途に、雨や風の日があったとしても、現実から目をそらさず、ありのままを受け入れ、前向きに、進んでいくだけなのです。
世の中に必要とされる「誠実な人」
常に向上心を持ち、相手のことを気遣ってコミュニケーションをとってくれる・・・そう、「誠実さ」のある人物です。「誠実な人」になるのに特別なスキルや学歴などは一切必要ありません。日々のちょっとした心がけで誰でも誠実な人になれるのです。
◎ 嘘をつかない
誠実な人はまず嘘をつきません。それは相手に対しても自分自身に対してもです。
◎ 私利私欲で物事を考えない
誠実な人は、自分目線からの思いやりや気遣いではなく、相手目線に立って、相手の気持ちを考えて行動出来る想像力の豊かな人でもあります。
◎ 常に向上心を持っている
誠実な人は、いつも自分に足りないスキルや知識を伸ばそうと努力を惜しみません。
◎ 上品さがある
そして、時間を守る・友人・仲間からの信頼も厚いので、孤立感とは無縁の安定した人間関係を築ける人です。
☆ 公平なコミュニケーションを心がける
誠実な人は、「この人にはこう、あの人にはこう」といったように相手によって態度をコロコロ変えたり、「人に優先順位をつける」ということをせず、誰に対しても平等にコミュニケーションを取ろうとします。公平なコミュニケーションを心がければ、誰かを傷つける自分本位な立ち居振る舞いから遠ざかることが出来ます。
人は欲に迷い、惑う生き物
人は、生きている間は欲に迷い、惑う・・・それは生き物の性です。それを何も考えずして、ほうっておくと際限なく財産や地位、名誉を欲しがり、快楽におぼれてしまい、滅びて行く、しかし、その中でたった一つだけ、滅びずに残るものは、“魂”です。
「利他の心」
利他の心とは、仏教でいう「他に善かれかし」という慈悲の心、キリスト教で言えば愛です。もっと言うと、「世のため、人のために尽くす」ということです。利他とは、相手、つまり周囲の人たちを思いやる小さな心がけです。
人とは、世のため、そして人のために・・・何かをしたいという“善”の気持ちを備えているものです。つまり人間が持つ自然に、心の思いを強くします。他人のために何かをする・・・尽くす事は他人の利だけでなく、めぐりめぐって自分も利する事です。
「他を幸せにしなければ、自らの幸せはない」
人生は利他行です。この利他の願いを持ち続ける限り、その人は優秀であり、価値のある人間です。生きものは逆境にさらされると強い、苦しい時こそ利他の生き方が生命力を活気づかせます。自分に満足できる生き方は利他行により可能になるでしょう。
「ベットタウン」とは、労働者世代が多くおり、昼間は会社などに出社してから、夜に帰宅して寝に帰るような地域? ウイキペディアには、 ベッドタウンとは都心へ通勤する者の住宅地を中心に発達した、大都市周辺の郊外化した衛星都市を指す言葉です。
「ライフタウン」とは、職住接近、あるいは都市としての多機能の復活、または終の棲家のあるまちという意味です。従来の都市機能によってさえ満たされることのない、あるいは従来の都市機能ゆえに抑圧されている人間性の全面的な回復の願いがこめられています。
「ベットタウンからライフタウンへ」
このような標語的の言葉を生むところに、老化や機能不全といったレッテルを貼られながらも、どっこい生きている、気概をみせる現在のニュータウンの可能性があります。少子高齢化をはじめ、ニュータウンがかかえている諸問題はニュータウンだけの問題ではなく、社会全体の普遍的な問題です。
「知恵を出し合い、まちの活性化を」
この町で生まれ育った人は少ないけれど、好きで移り住んだこの町だから、自分で選んだ町だからこの町を愛している人は、多くいると思います。誰もが人生の中で蓄えてきた知識や知恵や技を活かす場所、活かされる場所があることで人は元気になり、地域も元気になります。
孤独でもなく、集団でもなく、自分らしく自然と人と共生していけるまち。障がいを持っているあの人は、障がいを持っていると知りません。『だって幸せだから。』障がいとは社会とのハードルの高さを言います。まちと福祉の融合は、全てのハードルを下げていくでしょう。
気象庁は、九州北部・関東甲信・北陸・東北南部、6月11日入梅の発表しました。うっとうしい季節になり、その上、新型コロナウイルスです。
今年は、新型・コロナウイルスで、世の中の生活のリズムが狂ってしまい、不安の毎日です。失業・世界中で、世界の経済・自然環境など大きな問題となってきています。
ローマ教皇フランシスコの警鐘
新型コロナウイルスの流行は生産と消費を減速させ、自然界について熟考するチャンスをもたらしたと指摘。オーストラリアを襲った山火事や、北極の氷の融解、世界各地で相次ぐ洪水被害などに触れ、「これが自然の報復なのかどうかは分からない。だが自然の反応であることは間違いない」と述べた。
「草枯れて 麦秋ごとき 梅雨の道」
私たちの地域に、国の一級河川の湯殿川が流れています。管理通路は、通勤・通学・買い物など、生活道路に使っています。例年ですと、毎年5月末までには除草(草刈り)をしていただいていますが、今年はまだです。担当の役所の方に伺ったところ、7月に入ってしまいそうとのことです。
「恩」とは、人から受ける、感謝すべき行為。恵み。情。」
今の私を育ててくれた縁(因果関係)は計り知れません。自分を育ててくれた父母、祖父母。子どもからも親として育てられています。今まで生きてきて、多くの出会った人・物、そしてこれらの命をまた育ててきたものと考えると、私の存在の背景には、気の遠くなるようないのちの連鎖がひろがっています。
これらの縁無くして私は成り立たないのですが、しかし、現代社会はこの恩というものを忘れた、あるいは恩ということを顧みない時代になっているように思います。
三度の食事に「いただきます」「ごちそうさまでした」自分のためにさまざまな、動物・魚・植物などの、生き物・命が犠牲になり、またここまで育て、調理、食べられるまでは、多くの人の苦労があってのことであることを知りなさい、というメッセージが込められているのです。
恩ということを忘れれば、人間は「自分がやっている」ということしか考えない、ということです。あたかも自分一人で、自分の力で生きているかのように思ってしまいます。
恩を忘れるところには、私が生きている事実を「ありがたい」こととして受け止めることもありません。その生き方は、自分を本当に大事にすることもできません。自分を成り立たせている周りのさまざまな命を、大事にするということも、考えないのではないでしょうか。
幸せとは何か?
多くの人がその問いについて考えています。「これこそが幸せだ!」といった明確な答えはまだありませんが、幸せになりたいなら、自分が幸せだと感じる時間を増やすことが大切です。
健康のことやお金のことなど、悩みをゼロにすることはできませんが、幸せになれる価値観を手に入れて、自分の人生をもっと豊かなものにしていくことです。
◎ 当たり前のことは当たり前ではないことに気づく
今の自分の状況に感謝せずにはいられません。特別だとは感じない当たり前の暮らしが、実は無数の小さな幸せのある毎日だったのだ、ということに思い起こすことです。
◎ 今の状況を大切にする
今の状況は、自分の選択と行動の結果もたらされたものです。自分で感じたこと、考えたこと、見つけたことを材料に自分の意思で選び、決断した結果、今の場所にいます。
決してぼんやり生きてきたわけではなく、何らかの葛藤や戦いを経て今の場所にいるはずです。今の自分の状況は過去の自分の葛藤の積み重ねです。小さな幸せとは自分が今ここに存在していること、まさにその事実が奇跡のように素晴らしいことなのです。
◎ 他人に感謝されることをしてみる
大きなことでなくて良いのです。自分の行為に対して人が喜ぶ、笑顔になる、感謝される体験をしてみてください。ちょっとした親切や気配りが人を笑顔にし、さらに感謝してもらうことは、自分のことも幸せにします。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」という言葉もあるように、私たちの人生には、楽もあれば苦もあります。私たちは願わくは「楽」に生きたいと思っています。大抵の人は、悩みのない、楽しい生活が良い人生だと思っています。
だから、楽しい毎日であればそれがずっと続くことを願い、職場・地域や家庭内での人間関係で悩むことがあれば、気晴らしや気分転換をしてその状況から逃れようとしたり、考えないようにしてしまいます。
しかし、楽しみはずっと続くわけではありません。病気や何かの縁で状況が急変することもあります。また、悩みや苦しみも、いくら気晴らしをしたところで、その時は発散されても、現実が変わることはないのです。反対に、避けようとすればするほど、どうにもならに現実に苦しむことになっていないでしょうか。
今を大切にする
人生を真剣に生きている人は、「将来」「未来」という言葉をあまり使いません。それより、「今」「今日」という言葉をよく使います。「今」が人生に大きな影響を与えていることを肌で知っているからです。「今」が人生を作るのです。 全力で、今を生きることです。
早くも、梅雨入りを迎える季節となりました。これで雨が続くと、3蜜どうしたらさけられる?どうしたものかと、案ずる今日この頃です。
「何気なく 誘うように 咲き誇り あじさいの花 魅惑の色は」
「暮れなずむ 城址の外灯 木々の中 明かりも揺れて 涼を呼ぶなり」
「初夏となり 遠い昔を 偲びつつ 静かに暮れる 由井の里かな」
「湯殿川 コガモの姿 いじらしく 鳴いて親呼ぶ 夕暮れ時は」
「夏空に 白線を引く 飛行機の 航跡の標(しるし) 一服の涼」
「富士の山 遠くを見れば 影となり 入道雲に 夕日輝く」
「遠望に 丹沢の山 横たわり 積乱雲が 立ち上るなり」
「大杉の 蛸足ごとく 伸びた根は 夏草を飲み 石さえ砕く」
時の過ぎるのが早い
四季の実感も十分にないまま、流れるように一年は過ぎ、年を重ねるにつれて一日や一週間だけでなく、一年が飛ぶように過ぎていくような気がしてなりません。
同じ日は一日もない
一日一日、刻一刻と一所懸命生きていくしかありません。その一所懸命も人によって違います。その人なりの一所懸命があるわけです。
無駄な日は一日もありません。昨日があるから、今日の自分があるのです。少しの行動で、「繰り返し」と感じてしまう日々は未来のための「積み重ね」の日々と変わっていきます。
自分の心のありようをよく見つめて、その時々の感情に流されず、他人を変えることはできませんが、自分を心のありようを変えるのは、自分でしかありません。穏やかに日々の中に小さな幸せを感じ大切に過ごしたいものです。
日本では古くから、大抵は、親が年老いると子やその配偶者(=義理の子)は自宅などで親の介護をするような関係にあったわけですが、近年の日本では、子に介護される代わりに自分の意思で老人介護施設(老人ホーム)に入ったり、子が親を介護施設に預ける割合が増えています。
その結果、現代日本では、古くからあるような、老人となった親を中年の子が介護するケースばかりでなく、超高齢者となった親を すでに老人となった子(自身も既に足腰が弱っている人)が介護せざるを得ないような深刻なケース(老老介護)の割合が次第に高くなってきています。
~松下幸之助 人生後半を生きる~
『老いは等しく万人にやってくるわけですからね。まあ、若いうちは老人を養い、年老いたら子どもや国に養ってもらうのだという考えも、お互いに順ぐりに年をとっていくわけですから、それは決して誤っているとは思いません。
けれども、親はいつまでたっても子どもの幸せを願っている。そのためには年をとっても子どものやっかいにならないよう、若いときから親としての用意をしていく。
つまり親は死ぬ瞬間まで、子どもに何ものかを与えつづけていく。物があれば物を、それがなければ言葉を、年老いて子どもをダッコする力はなくなっても、その精神はたえず子どもを抱きつづける。そういう気持ちがなくてはならんと思うのですよ。
そうすれば、子どもは子どもなりに親を認め、尊敬もするでしょうし、働きがなくなったり、万一、身体が悪くなっても、自然のうちに面倒をみる。おのずとそういう姿になってきますわな。そういう循環というか風習が常識になるような姿が、好ましい社会ではないかと思うのです。』
「幸せ感は心持ちいだい」
今、日本には100歳以上の長寿の方は、7万人弱いると言われています。長寿の方は、ポジティブ思考の人が多く、貧困や死別、災害や戦争といった負の出来事を“生きるエネルギー”に変えられるたくましさも持ち合わせているようです。
悲しい、辛い、苦しいなどの経験をすると、気分が落ち込んだり病気になったりするといわれますが、前向きな生き方が、不健康な状況を遠ざけ、長寿を保つことができた秘訣かもしれません。他者への親切心が幸福感とも深く関係すると思います。まずは、身近な人に感謝の言葉を掛けるように心がけることです。
毎日新しい気持ちで朝を迎える
ポジティブな感情が回復力を構築することにより、生活の満足度を高めます。昨日の失敗で頭がいっぱいでは、今日の楽しいことは入ってこないです。楽しさや幸福感を感じやすくするために、きちんと頭の中をリセットすることは大切なようです。
三度の食事をきちっと摂る
高齢者は、さまざまな臓器の機能が低下するフレイル(虚弱状態)にもなります。栄養素のバランスがとれた食事を、腹八分目を心がけ1日3食取り入れることです。1日3食食べることは活動に必要なエネルギーや栄養素を補うだけでなく、生活リズムを整える点でも重要です。
散歩・適度の運動
散歩することで、他人にあって挨拶・会話する・・・気分転換やストレスの発散となり、精神的な安定を促すこともできます。適度の運動は、腰痛や膝痛などの運動器のトラブルの改善も期待でき、心肺機能を高める運動によって風邪などの感染症にかかるリスクも低くすることが可能です。また、運動を行うことで体力や体型に自信が持てることによって自己効力感が高まり、生活の質の向上にも役立ちます。
最近は、「ルールを守らない人」や、「マナー違反をする人」が、多くなったと言われています。特に子どもたちのモラルの低さにも、しばしば話題に上ります。
私たちの地域でも、たばこやごみのポイ捨てなどが多いのです。実際、私たち地域のごみ拾いをしますと、子どもが散らしたと思われるごみより、たばこの吸い殻の方が圧倒的に多いのです。
そもそも、ルールや、マナーや、モラルって、なんなのでしょうか?
ルールというのは「決まり」であり、守らないとさまざまな形で罰を受ける可能性の高いものです。赤信号のときに横断歩道を渡れば車に衝突することがある、というように・・・また、マナーというのは、いわゆる「お行儀」だと言えます。違反したからといって、具体的な形で罰せられるということはありませんが、周囲の人を嫌な気持ちにさせてしまいます。
モラルは「道徳」です。
誰かが見ているかどうかにはかかわりなく、ルールやマナーを守ること、あるいは守ろうと思う気持ちです。自分の中で自分自身をどのように位置付けたいかによって、その範囲は変わってきます。
「多くの人にとって、ルールは守るべきもの、マナーは人とのかかわりの上で大事なものです。」もちろん子どもたちにとっても・・・
ではどうして、それが身に付かない子どもたちがいるのでしょうか?何が邪魔しているのでしょう?「一体、何が・・・」大人の日常の行動を見ていくことで、そのヒントがつかめるかもしれません。
少なくとも、タバコの吸い殻は、立派な大人の仕業です。子供は大人の行為を見ています。子供の手本になるように、大人は「ルール・モラル・マナー」守って欲しいものです。
人の記憶というものは、常に新しい体験によって置き変えられて行く・・・
ふり返った過去の 記憶、そこにある光と影は瞬時に過ぎ去ってしまう。記憶の主流は最近の体験となり、現在 とわずかにさかのぼった、過去が人の意識をとらえてしまう。
年を重ねることは、経験を積み重ねること、良い経験も、辛い経験も、経験を積めば積むほど、人は強く優しくなれる気がします。そして、「老いていくこと」をネガティブに捉えるか、ポジティブに捉えるかで、生きる楽しさが大きく変わってくると思います。
そこには確かに 堆積した過去があり、過去と同じ未来の時間を考えた時、その時間は膨大に見える。そして、 未来もまた確かに存在し、絶え間ない時間の流れの中で、速やかに確実に過去となります。
一年一年を、否一日一日を目的を持って生き、肉体的な老いが精神的老いとなることのな いよう、歳を重ねていく・・・といった感覚で、人生でありたいと 願いたいものです。
人生の峠道
美しき下山というか、実り多き下山といいますか、そういう人生の峠道にたたずみ、今度はゆっくり成熟した豊かな下降をどう人間的に充実してやっていけるか、というのがいまのテーマではないでしょうか。
素直とは、ありのままの状態であること。転じて考え方や態度がまっすぐで飾っていない様子を指します。また、相手への思いやりを持ちつつも自分の考えを持つことです。
自分の気持ちに正直になるのが素直になるには重要ですが、相手の気持ちも尊重せずに自分の気持ちだけを押し付けるのは、素直になるのではなくただの我がまになってしまうでしょう。
わがままではなく、相手の意見もしっかり聞いて思いやりを持ち、かつ自分の気持ちにも嘘をつかないのが、素直に生きることに繋がります。
行動に出てしまうほど、気持ちに素直になろう
行動力のある人は、自分の気持ちに素直な人です。「やりたい」と思ったら、気持ちを抑えきれず動きます。自分の気持ちに素直になれない人ほど、色々と考えてしまい、結局、動けなくなってしまうのです。
素直になるというのは、自分の気持ちを正直に出すこと。ところが、元々自分の感情を人に伝えたり、さらけ出したりするのが苦手な人にとっては、「ありのままの自分をみらっるのがとても恥ずかしい」ことと感じてしまうのです。
恥ずかしさから自分の気持ちに正直になるのが難しいため、なかなか素直になれない原因になってしまうこともあるのです。勇気を出し行動を起こすことです。そして続けることで、その行動・行為が、なんの抵抗がなくできるのです。
心の豊かさといっても、それがなんであるかという定義はなく、人によって認識はそれぞれ異なるでしょう。物の豊かさより心の豊かさをというけれど、そのいずれをも望む人もいます。
物の豊かさが満たされれば自ずと心も豊かになるという人もいれば、心が豊かであれば物がなくても生きていけるという人もいるでしょう。多くは求めないが生きていくに足りる物があり、健康で長寿であれば自ずと心が豊かになるという人もいます。
今、私たちは「物質的豊かさ」を得た裏側で、その負の遺産として、地球温暖化を始め、人類の生存にも関わる様々な環境問題に直面しています。このことは大変大きな問題として、すべての人が 考えなければならない問 題です。
「物質的豊かさ」は状況によって、わずかなことで幸せを感じることができますが、限りない質と量への欲求につながっていきます。また、豊かさとは、お金さえあれば、何でもできると思う人もいるでしょう。しかし普通のまじめな人は、仕事せずに趣味三昧の生活に幸せを、真の豊かさを感じることができるでしょうか。
決して経済的に豊かでなくとも、家族が健康で、楽しく思える生活が送れることに、幸せを感じる人も多いでしょう。このような心の幸せを感じる人は、同時に心に「豊かさ」を感じて生活していると思います。
心の豊かさとはなんであるかということを明らかにして、自分自身が心の豊かさを求め続けているかぎり、その人は心豊かに生きることができると思います。