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2019年6月

2019年6月30日 (日)

タバコのこと

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タバコのポイ捨ては地球の破壊に繋がる

今、私は町にタバコの吸殻が落ちているのに、神経質ぐらいに気になっています。つい先ごろ大阪で開かれた、「G20]でも取り上げられたようですが、地球環境が大きな問題となっています。

タバコの吸殻一本ぐらい?が・・・問題と思っています。

捨てる人は、当たり前・無意識に捨ててる人が、ほとんどだからです。タバコの吸殻一本が、私たちの生きるための、おきな妨げになってしまうと思います。

私は、20歳から60歳まで、タバコを吸っていました。多いときには一日一箱すっていました。定年を機にスッパリ止めました。「煙草は百害あって一理なし」を実感したからです。

タバコの思い出

むかし(終戦当時1945年ごろ)オヤジが、たばこを町にたばこを買い求めに、奔走していたことを覚えています。

もちろん刻みたばこ 「みのり」・「ききょう」で、キセルで吸うのですが吸いきると、再び吸うときは、手のひらに落として、熱いので揺らしながら、新しくたばこをがん首に詰めて、その上に載せて急いで吸うと火がつき、煙を吸うという光景が、今でも忘れません。マッチの節約?

囲炉裏(ヒジロと言っていた)燃やした木の端でたばこ火をつけてた、顔がちょっと熱そうな感じが印象的に残っています。

終戦後は、たばこの入手が難しくなり、「モク拾い」と言って、長い棒の先に針をつけて、町に落ちている、葉たばこの吸殻を拾い集め、ほぐして、新たに紙で包む・・・ということで、紙で包むちょっとした道具があったのです。紙の端を舌で湿らせ包んだのです。なんだかそれを商売にしている人が、いたという、オフクロから聞いた覚えがあります。

町のタバコ屋に、紙たばこが売り出されても、オヤジはキセルで吸う刻みタバコを吸い続けました。野良に出かけるときの肩に鍬・腰にタバコの道具を差している光景を覚えています。なんか、むかしのサムライ姿?

流行歌に「タバコやの娘」は昭和20年代も歌われていました。

♪むこう横丁タバコやの

可愛い看板娘

年は十八番茶も出花

愛しいじゃないか♪

懐かしい思い出です。

子供たちの公園での遊び方で思う

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私は、ボランティアで、地域内のゴミ拾いを行なっています。

「これは酷い」公共の場公園の汚し方は・・・尋常ではないのです。ゴミは捨て放題で公園は、まるで「ゴミ畑の様」で・・・正直ビックリです。いつも思うのですが、公園は、お年寄りから小さいお子さんまで、市民のみんなが使う、いわゆる公共の場所です。

「公共のモラルの育成」

このままではいけない、危機感さえを覚えるのです。家庭の躾・教育のあり方・地域の見守り指導など、大きな問題と思います。昔から、子供は「家庭・学校・地域の目で育つ」といわれています。私も「何としなければ」と思っています。

モラルの低下の原因は?・・・以下2010年の文科省
社会全体のモラルの低下を問い直そう「新しい時代を拓く心を育てるために」-次世代を育てる心を失う危機-(中央教育審議会(中間報告))です。

子どもたちに豊かな人間性がはぐくまれるためには、大人社会全体のモラルの低下を問い直す必要がある。我々は、特に、次のような風潮が、子どもたちに大きな影響を及ぼしていると考える。

  1)社会全体や他人のことを考えず、専ら個人の利害得失を優先すること
 2)他者への責任転嫁など、責任感が欠如していること
 3)モノ・カネ等の物質的な価値や快楽を優先すること
 4)夢や目標の実現に向けた努力、特に社会をよりよくしていこうとする真摯な努力を軽視すること
 5)ゆとりの大切さを忘れ、専ら利便性や効率性を重視すること

このような大人社会全体のモラルの低下を背景に、新しい時代への夢を語り、未来を切り拓く大切さを伝えようとしない大人、子どもに伝えるべき価値に確信を持てない大人、しつけへの自信を喪失し、努力を避ける大人、子どもを育てることをわずらわしく感じる大人が増えている。

子どもの心を育てるべき大人社会が、こうした「次世代を育てる心を失う危機」に直面していることこそ、我が国の抱えている根本的な問題である。

今日、心の豊かさを求める機運が確実に広がってきている。今後、我々大人が率先してモラルの低下を是正し、よりよい社会を目指したひたむきな努力や勇気を大切にしていくことにより、この危機を乗り越えていこうではないか。

2019年6月29日 (土)

草木への想い

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我が家の小庭の草むしりをして、むかし親父が「百姓は、草との戦いだ」・・・と言っていたことを思い出しました。畑や庭の草は除草してもすぐに生えてくるから、困ったものだと嫌がられます。

梅雨はうっとおしい季節だと思う人もいるでしょうが、生き物にとっては恵みの雨、とりわけ草木にとっては成長する雨の季節です。

きれいな花は惜しまれて散っていく、草は嫌がられても生えてくる、たしかに美しい花はいつまでも咲き続けて欲しいと願い、けれどもこれらは人間の思いであって、草木は子孫繁栄のために花を咲かせ、草は芽を出すのです。

風媒花に人間は関心を示さないばかりか、花粉症の心配をする、けれども虫媒花は美しく咲く花が多いので人間の目にとまる、花を咲かせているのは昆虫や動物による受粉を期待しているからです。草がはびこるのを人間が嫌うというのは、人間の身勝手な解釈です。

人間の身勝手な目は、花の姿や咲き方で、ランクをつけて評価します。

草木が芽を出す、花を咲かせる、実をつける、いずれも子孫を残さんがためで、草木が生きているということは、種あるいは子孫を絶やさないという、この一言につきるでしょう。

草木は生(は)えるという、動物は生(う)まれるという、草木は死ぬとは言わずに枯れるという、動物は枯れると言わずに死ぬという、いずれも生命の生滅ということにおいては同じです。

今生きていることに感謝

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「今を生きている」ことに感謝「今を生かされている」ことに感謝することが肝要です。

一人ひとりの人間は、この世でたった一つの、真に奇跡的な存在なのです。

私は、今私たちが生きている、この命は、非常にありがたいものであり、何か見えざる「力」によって私が存在している、「生かされている」と思わずにはいられないのです。

そもそも、「ありがたい」とは、「有り難い」と書きます。なかなか起こり難いこと、奇跡のようなことに対して不思議と感謝の気持ちを感じるからこそ、「ありがたい」という言葉あるのです。

人間という存在の奇跡を思うと、人間が生きていることに対して「ありがたい」という思いを感じずにはいられないし、人は「生かされている」と思うのです。

私自身、二人の子供を授かり、そして孫四人・・・先祖代々から受け継いだこの連鎖を切らすことなく、継承できたことに誇りを感じています。こうして奇跡的な細胞の組合せで私のもとに命を授けて頂いたことに、ご先祖さまや神仏すべてにありがたさを感じ、私の子供も、孫、そして私自身も、「生かされている」のだということを痛感するのです。

人が「生かされている」ことの「有り難さ」を真に受けとめることができれば、天から与えられた使命を持って生かされた以上、万物を調和し、より良い社会を作っていき、次の「有り難さ」を生むための連鎖のつなぎになろうと努力するのではないでしょうか。

感謝の心は行ないに現れます

いつでも、言葉ではなく行動がその人の本音です。今時分が生きていられることは多くの人のお陰です。感謝の心は、人のために無償の行ない、社会の奉仕活動で現れます。私は、「それが生きる」ということかと思うのです。

2019年6月28日 (金)

認知症を先送りし、どう生きるか

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「長生きしたい」・・・

長生きすれば「認知症のリスクが伴う」・・・朝日新聞デジタルニュース(2018・8・1)参照・・・

認知症になりやすくする要因は、運動不足や社会からの孤立など、いろいろとあります。しかし、最大のリスク要因は長生きをすることです。

アルツハイマー型認知症の原因としていまのところ有力なのが、脳に異常なたんぱく質がたまるなどして神経細胞が障害を受けるというものです。この異常たんぱく質は、早い人では40代からたまり始まるといわれています。

80代になると、認知機能が正常な人も含め9割以上にこのたんぱく質がみられるという研究もあるという。正常な人でも原因物質が、着々とたまっている可能性があり、だれが認知症になってもおかしくないのです。

予防とは「先送り」そしてどう生きるか

認知症のリスクを下げるのに有力とみられる運動、血圧や血糖値の改善は、全身の健康状態をよくして寿命を延ばす方向、つまり認知症のリスクを結果的に高める方向に働きます。

専門の医師の見解でも、長生きをする以上、認知症を避けることは実際には難しい。認知症の原因の3分の2は遺伝的要因といったもので、個人の努力ではどうしようもないものです。

長生きすればいつか認知症になることを含め、老いを受け入れることです。

認知症になっても、幸福感を抱いて楽しく過ごされている方もいます。「認知症イコール不幸」と決めつけるのは偏見です。日本人の寿命が延びたことを喜ぶのであれば、長寿と切り離せない認知症も受け入れていくべきです。

私の目標

○ ウォーキングなどの運動を続ける (目標一日5000歩以上の散歩)

○ 体と脳を同時に使うようにする(散歩しながら俳句作りをする)

○ 魚・野菜・果物・大豆を十分に食べる (意識的に摂る)

○ 多くの人とコミュニケーションをとる(人に会ったら誰とでも挨拶する)

正しさより誠実さ

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本来何をするのも自由だし、自分が本当に好きなことをすればいいのに、人の評価を気にすることによって、いつしか「~べき」「~はず」といった外野の、さまざまな価値観に惑わされて、私たちはどれだけ本当の気持ちを現すことに躊躇したことか。。。

他者の評価に依存して生き続けたとして、この世の万人に評価されることなど決してないはずなのです。世間の評価にあまり振り回されず、誰かに批判されようが、結果がどうであろうが、自分の本当の気持ちにしたがって生きることが、本当の幸せな生き方と思ます。

人付き合いのマナーを守り、他人を大切にすることは、人々に好感を持たれる行動とされ、他の人々の尊厳やそれぞれの違いに敬意を払っていることを示しています。成熟した人間としての技術を用いることで、人間関係は非常に大きく改善されることになります。また、人間として生きるための技術は、これを改善することで生活の個人的、社会的な側面の全てが強化されます。

この世に完璧に正しいものなど存在しせん。

そんな幻想の「正しさ」を追い求めるより、「誠実さ」を大切にすべきです。すぐに実行できることではないかもしれません、でも本気で生きるにはそれしか道はないように思う。

この世に完全なる正しいものや正解なんていうものはありません。時代が違えば正しさも変わるし、環境が違えば変わるものです。だから、この世に正しい答えというものは存在しないのです。

正しさは常に変化し続ける

自分自身で何が正しいのかを見極めて、自分が良いと思える方向へ進むことが、自分自身の中では正しい道でなないでしょうか。外部に答えや正しさを求めても見つかることはありません。それより幸せ追求するには、誠実さを持って、事に当たることで、他人からの信頼感が増し、幸せ感が得られると思います。



 


 


 

 

2019年6月27日 (木)

現実を受け入れる

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私は、歳をとって世の中の激しい変化に戸惑いを隠せません。また、身体・思考力の衰えを実感している今日この頃です。

素直に「現実を受け入れる」

年齢による自身の衰えを実感するのは誰にとってもつらいものですが、いつまでも若さや理想にこだわっていると、年を重ねるほど自分に対して否定的な気持ちが生まれてしまいます。

年齢と上手に折り合いをつけながら今の生活を楽しむことです。「人は生きていれば誰でも老いる」という現実を穏やかに受け止め、人生につきまとう、焦りや不安を和らげられると思います。

他者との関わりに深い価値を見つける

人生の終わりを意識すると、多くの人は生と死に関する観念が変わると言われています。今まで当たり前に過ごしていた、日常や季節の移ろいに心を動かされたり、家族・友人との絆に改めて感謝の念を抱いたりしながら、そこに幸福感を見出だします。

また、自己中心的な考え方から抜け出して、残りの人生を社会や他人のために役立てることに歓びを感じる高齢者が多いのも、こうした他者との関わりにこれまで以上の深い価値を見ているからかもしれません。

2019年6月26日 (水)

歳をとって幸せ感を味あう

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歳をとって実感すること

高齢になるほど体力は落ちますし、退職を迎える頃には収入が減ると同時に、社会との関わりそのものが薄れてしまったような心細い気持ちになることもあります。その一方、無理な人付き合いから解放されて気が楽になることがあります。

概して、他人と自分との能力差や境遇を比べてストレスを感じる必要もなく、自分の価値観に従ってマイペースに過ごすことができる毎日は、心に平穏な幸福感をもたらしてくれると言えます。

引退によって、社会的な居場所を一部が失われても、時間的・精神的余裕ができたことで、共通の趣味などを持った人々と新たな人間関係を築けるのも楽しみのひとつです。また、これまでの経験を活かし、別の形で社会貢献をしようと取り組む高齢者には、より自分らしい新たな居場所とやり甲斐が生まれます。

自分らしい『幸福論』見つける

経済面や健康面から考えれば、加齢の現実には厳しい部分もたくさんあることは否定できません。でも、若い頃から積み上げてきた経験、磨いて来た感性は、年を重ねてこそ生き方そのものに活かされます。肩の力を抜いて人生を楽しめるのは、まだまだこれから。。。そんなふうに考えながら、自分らしい幸せの在り方をこれからゆっくり探してみることです。

2019年6月25日 (火)

恩は遠くから返せ

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「親父の小言」というのがある。・・・大聖寺 暁仙 (福島県大聖寺 昭和三年)・・・(2010年10月26日にブログで書いたもの)

いろいろなことが書いてあるが、その中で一番好きな一文が「恩は遠くから返せ」という一文で、人から受けた恩は、恩返しとわかるような返し方をするのではなく、さりげなく、しかしきちんと返すことだ。

私はこの言葉が重みがあり、奥が深い意味があると思う。その上、もっとも日本人らしい考え方、行動の仕方が心に響いている。生まれも育ちも、同じ地域に住んでいると、自分の生き方が子供の人生に大きく影響するのが良く分かる。

世の中に出て働き、結婚生活を始めると「昔おまえの親父に世話になったから、」という親父の行った行為の代償が思わぬところで受けるという、ありがたさが感じとれることがある。

また「おまえの兄貴の世話になったから」というのもある。親がきちんと生きていてくれたからこそ、その徳が子供である私に返ってきてくれているのだ。そうやって自分もしてもらった恩は、その人に、その人に返す機会がなければ、その人の子供や関係する人に返していかなければと思う。

自分がしっかり生きていくことは、後に生きていく子供達に生き方を見せ、教育するということだけではなく、子供達の為に世の中に恩を返しつづけて生きていくということではないかと思う。

人は直ぐ老いる

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「時の過ぎるのは早いものですねー」
今年も、もうすぐ半年を過ぎようとしています。歳をとると月日の経つのが早く感じられると言れますが、私も実感している今日この頃です。

「歳月人を待たず」

時間は人の都合とは関係なく、刻々と過ぎていくものであり、人を待ってくれることなどないという意味です。

これは、転じて「人はすぐに老いる」

だから、2度と戻らない時間を無駄にしないで、努力に励めよという戒めを、含んでいると思います。

この言葉を書いた陶淵明(とうえんめい)の詩は・・・
「若い時は2度とない、1日のうちで朝が2回くることがないように、 今を大切にし、やるべきことをしっかりやりなさい」というようなことが書かれているようです。

事実、誰でも今が一番若く、この瞬間から次々に年を取っていくということです。また、若くて楽しい時は、 2度とないから楽しめる時に楽しんでおきなさいという意味もあるようです。

「今」

大切なのは
かつてでもなく
これからでもない
一呼吸
一呼吸の
今である

「今を生きる」
咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる

坂村真民著『詩集・自分の道をまっすぐゆこう』

2019年6月24日 (月)

年老いて考える人生

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孔子の人生訓で、有名な論語、五十・六十ときて「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」で、70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外す事が無くなった・・・と。その先を生きるには?

年老いて、生きることの難しさ、虚しさが如実に現れる・・・「老いる」それは、取りも直さず生きることの意味を改めて考えさせられる時期でもあるのです。

年をとると言うことは、ある意味で残酷なことです。

何か新しいことをするためには、気力も体力も残されていない。同じ事を同じようにしようとすれば、若い人間には、太刀打ちできません。三十代・四十代の人間と同じ条件で七十代・八十代の人間が競わせようとするのは残虐な行為でしかありません。

年寄りには、生きてきた蓄積があります。

それは、人間としてかけがいのない財産です。現代社会で、老人をただ介護の対象としてしか見れないのは、その人の心が貧しすぎます。人は、ただ生きてきているわけではありません。生きようとして、生きる希望を持っているから、生きているのです。

生きると言うことは、生き生きと生きることです。世間の世話になり、邪魔者扱をさせられることではありません。年をとっても幸せになる権利はあるのです。

「誰の世話にもなりたくない」

そんなことを年寄りに言わせるような社会は、本当に豊かな社会なのでしょうか。人生の終局に、私は、何のために生きてきたのだろうなんて、年寄りが呟くような社会は貧しいと思います。

老齢期は、人生における集大成です。

失われていく力や記憶、技術や能力それに逆行しながら人間としての最後の修業、修道の期間こそが老齢期、晩年であると思います。自制心や抑制心が失われ、自らの規律が保てなくなってきた時、自らを支えるのは、それまで培ってきた、人間としての自信と誇りです。

安心して、終末期を生きることができる社会が大切と思います。

2019年6月23日 (日)

梅雨の想い

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雨傘を 持って散歩の 老夫婦

横断に 色とりどりの 傘の列

梅雨空に 姿を隠す 高尾山

不如帰 一声鳴いて 梅雨空へ

音もなく ガクアジサイに 露ひとつ

お年寄りの位置づけ

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1弁天様の境内にて

私は、高齢となっても、まだたくさんの先輩から教えられることが多いものと考えています。

しかし今の世の中では、お年寄りがこれまでの長い経験を生かすことができる機会がなくなり、子供や孫に教えるべきことがほとんどなくなってしまい、逆に教えてもらわねばならないことが山ほど出てきてしまったのです。

昔のようにお年よりの知恵は絶対ではなくなったのです。これは必然的にお年寄りの権威の低下につながります。子供などはある意味で残酷だから、「なんだ、おじいちゃんこんなことも知らないの」とお年寄りをバカにするようになっているのです。

お年寄りの位置づけ

お年寄りは一般的に社会的弱者と位置づけられることが多い。確かに現役世代に比べ身体能力や所得などで不利な立場にあるのは否めない。その意味では高齢者を弱者としていたわり、保護していく社会の仕組みは重要です。

ただ忘れたくないのは、お年寄りを大切にするのは彼らが弱者だからではなく、豊かな経験と知恵を培ってきた人生の先輩だからであるとの視点です。高齢者の中には、これまで家族を支え、日本の復興と成長にも貢献してきたと自負する人が少なくありません。

家族制度などを含めた社会構造の変化

現在の日本は核家族化が進み、単独世帯、夫婦のみの世帯、夫婦ともに65歳以上の世帯などが増加しているのが現状です。そのため、介護できる者がいない、「老々介護」の世帯が多くなっています。その結果、自宅における介護能力が、減少しているのです。

お年寄りが安心して暮らせる社会

① 健康維持・医療の安心 
② 福祉の安心
③ 地域とのつながり
④ 自分なりの生きがい

この4つのどれが欠けても本当の意味での安心を得ることはできません。「住み慣れた地域で暮らし続けたい」という気持ちは、皆が感じている共通の想いと思います。

2019年6月22日 (土)

感謝の気持ち忘れない

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「感謝の気持ちを忘れない」これは、(2009年10月 3日に書いたもの)

私は何時も感謝する気持ち続けたい。悲しいことに出会っても、生きていられる幸せを感謝の気持忘れないようにする。このことは人間生きていくためには必要だと思う。

毎日、辛く悲しいことばかり、でも、朝目が覚め、自分が生きていることに感謝できることの積み重ねは、その人の人格を高めることだと思う。

京セラ創業者の稲盛和夫氏の言葉に・・・
必要なのは「何があっても感謝の念をもつ」のだと理性にインプットしてしまうこと・・・。

困難があれば、成長させてくれる機会を与えてくれてありがとうと感謝し、幸運に恵まれたなら、なおさらありがたい、もったいないと感謝する。感謝の心をもてれば、その人は満足感を味わうことができる。感謝をすることは、有力な幸せになる方法の一つだと思う。

心から感謝できれば、幸せな気もちになれる。感謝の気もちから生まれる言葉や行動は、幸せを生むことが多い。人生には、いいこともあれば、悪いこともある。

脚本家の山田太一氏の言葉に・・・
「いいこと」にはきっと、「悪いこと」がつきまとっているもの。今はいいことであることも、長い目で見ればマイナスになることがたくさんある。逆に今は悪いことのように思えても、きっとそれはいいことに転じることがある。

もしも今、悪いことに囲まれていたとしても、その経験は必ず自己形成のプラスになる。マイナスの経験があってこそ、人は我慢することを知り、他人に対して寛大になれる。

今がマイナスの状況であったとしても、それはいずれプラスに転じるのだと信じること。そう思わないと、人生はつらくヘトヘトになってしまう。「いいこと」があったときには、素直に喜んだほうがいい。「悪いこと」があったときには、まずは「こういうこともある」と現実として受け入れたほうがいい。

俳優の森繁久弥氏の言葉に・・・
「いいこと」「悪いこと」がかわりばんこ来るもんだ。だから、いいことがあっても有頂天にならない、そして悪いことがあっても落胆しない。これが生きる「コツ」だよ。

夏を告げる郭公

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片倉城跡公園を散歩して・・・

「郭公の 城址の森より 告げる夏」

(毎年この時期に鳴くが、今年はまだなようです。)

「古城には 松が似合う 夏の朝」

「石垣の 割れ目の奥に 夏を見る」

「匂いつつ 散りにし花が 偲ばれる 夏の緑の 繁りければ」

「湯殿川 わが心にも 水澄みて 変わらぬ流れに 昔を偲ばん」

信念を持つ強さ

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歳を積み重ね思うに・・・現代は複雑怪奇・行き先不透明な時代です。

物事を判断する際、ともすれば私たちは、「こうである」という客観的な事実よりも、「こうであって欲しい」という願望に引きずられがちです。しかしこうした“願望の偏り”、希望的観測は、真実を見る目を曇らせ、誤った判断を導いてしまうことが少なくありません。

信念を曲げない強さもつ

歳をとると頑固になるといいますが、信念と頑固の大きな違いは、物事の変化への態度です。

信念をもっている人は、あることが正しいと信じそれに向かって変化(新しいこと)や困難に対峙できるが、頑固な人はただ単に変化(新しいこと)に対して態度を硬直させてしまいます。

信念を曲げないで貫き通すって、時には周囲に対して対立するようなこともあるけど、しっかりと素直に話したりすれば、わりとなんとかなるものです。

自分が信念をもって生きることの大切さ・・・歳をとっても信念を持って生き抜こう。

信念を持つということは、どういうことかと言うと以下の⑦のことです。

① 心に余裕がある ② 芯が強い ③ 自信ある ④ 謙虚である ⑤ 一貫性がある ⑥ ひとりの時間を大切にする ⑦ ポジテブである

私は人生の下り坂だが、信念を貫く人生を送って生きたいと思います。

2019年6月21日 (金)

当たり前に生きていること

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私たちが当たり前に生きている

私たちの身の回りには、家庭や学校、地域や会社などの中に息づく「小さな伝統」をはじめとして、過去の多くの人々から受け継がれてきたものがたくさんあります。

考えてみますと、現代の生活に不可欠なライフラインやサービス、社会制度などは、元をたどれば長い年月をかけて整備されてきたものです。今、私たちが当たり前のものとして受けとめている暮らしは、過去に生きた数え切れない多くの先人たちの努力と苦労の積み重ねの上に成り立っているのです。

時代は、日進月歩移り変わり、そして人間の価値観も変わります。

人間の価値観は時代とともにも変わりますが、過去があって現在があるのです。過去から引きついた現在を、よりよくすること、そして未来に繋げる責任があるのです。

時代が変われば、価値観も変わっていきます。ちょっと昔の若者は、「今は苦しくとも十年先に楽になればいい」と、我慢をして仕事をしたものですが、今の若者は「今が楽しくなければ意味がない」といいます。

今生きる人間として最も大切なことは、自分が今生きていることに、感謝の心を持つことです。それは先祖の存在・今現在の多くの人のお陰で生きていられるのです。

生きていくということは、いろんな苦悩に見まわれ、対処に追われ、家庭、子育て、健康の悩み、また経済上、仕事上、人間関係の悩みなどなど・・・次から次とわき出てきて、死ぬまできりがありません。

こうしたことを考えていくと、「ありがたい」という言葉の重みが実感できます。有り難いーーそこには「そのようにあること自体がたいへん難しい」「めったにないことである」と感じられるからこそ、感謝せずにはいられないという気持ちが込められているのでしょう。

「当たり前」の中にある「有り難さ」に気づき、これに感謝する心を育んでいくことで、私たちの日常には、さらなる潤いと温かさが生まれてくるのではないでしょうか。

心の故郷を大切にしよう

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御殿峠より市内を望む

多くの人が集まって社会(町)となっています。その一人ひとりの原点は、どこにあるのでしょうか・・・

生まれ育った故郷です。

幼少期を過ごした故郷を思い出してください。学校で多くを学び、今では社会人として立派に働いています。家族を持ったり子供を持ったりする人もいるでしょう。生まれ育った故郷のおかげです。故郷が土台になり、あなたを陰で支えている存在です。

故郷こそ、あなたの原点なのです。

故郷とは、不思議な存在です。どれだけ大人になっても、ほっと落ち着ける場所です。どれだけ遠くに離れていても、心の奥で結ばれています。どれだけ時間が経っても、忘れられない存在です。

故郷を大切にする心を子供たちに、しっかりつなげてほしいのです。自分の生まれ育った故郷全体に対して、心の中で感謝してほしいのです。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。

これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなってしまいます。

人生にはあらゆる試練が待っています。辛いことも悲しいこともたくさんあります。どうもがいても駄目な時、優しく声をかけてくれる人、だまって温かく見守りながら寄り添ってくれる人、本気で叱ってくれる人が傍にいたら、どんなに救われるか知れません。

故郷は、心の拠りどころです。

大人も子どもも心の拠り所とするものは、どんな時でも自分をしっかり受け止めてくれる人がいる、場所ではないでしょうか。愛と温もりに満ちた場所には、心の拠りどころとなるのです。それが故郷なのです。だから大事にしたいです。

2019年6月20日 (木)

感謝の心を行動で示す

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心の中では、ありがとう!感謝しています!と思っているのですが、その感謝の気持ちを、何らかの形で小さくても、行動で表すことが大切だと思います。

「ありがとう」感謝の気持ちを感じることはとても大切ですが、その気持ちを行動で示すことです。

それは、「感謝の言葉」を相手に伝えること・・・何かモノをプレゼントすること・・・相手が望むことをサポートすることかもしれません。

それよりも私は、黙って社会のために気持ちく、安心して住んで良かった町に、時間を使っていくことだと思っています。今、思いやり・人に優しく・相手の立場を理解する・・・などが言われていますが、なかなか想いだけでは相手には、伝わらないものです。

人に黙って行動すること

それは、わかりにくい事ですが、人の心をなぐさめ、安らぎを与えているのです。そのことは、今自分が「生かされている」ことに、純粋に感謝している心からです。

「感謝の気持ち」を行動で表すことに無理のない範囲で、少しでもこうしたことに、意識を向けると、感謝のエネルギーが周りにどんどん広がって、それに触れたみんなが癒されればと思います。

「まぁーいいか」人生もう少しゆるく

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このところ、パソコンのトラブルと、体のちょっとした不調の重なりで、心身ともに落ち込んでしまった。むかし「歳はとりたくないなぁー」親父の言っていたことを、思い出す今日この頃・・・

元来私は、あまり年を考えない方だが、80を過ぎて、心身の衰えを感じるようになり、悩むことが多くなり、一日がつらく、感じることが増えたきてしまった。

「まぁいいか・・・」もっとゆるく生きよう。

あまり悩んでも仕方がないことに、気づいたのです。小さなことに囚われて生きることを複雑にしてしまいます・・・過去をクヨクヨといつまでも引きずったり・・・まだ見ぬ不安に怯えてばかり・・・つい頑張りすぎて疲れ果ててしまいます。

ますます悩みが深くなってきたように思え・・・これではいけないと思ったのです。「人生1+1=2」でなくていい・・・もっとゆるく、少しぐらい許す気持ちを持って生きようと・・・

少しぐらい適当に生きたって悪いことにはない、もっとゆるく生き、人生を楽しんで生きる。「まあいいか」そうやって力を抜いたぐらいがちょうどいい。楽観的な生き方で、人生は案外なんとかなるものだ・・・と。

もっとゆるく、もう少しいい加減でもいい。もっとわがままに、生きてもいいんだと考えました。

2019年6月16日 (日)

梅雨の想い

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一昨日は真夏日かと思えば、昨日は梅雨らしく、雨が降り続き肌寒い一日でした。東京都心で17度ほど低く、厚手のシャツを着るほどでした。体調に気をつけないと・・・

「紫陽花は 濡れて色増し 楚々となる」

「大雨で 紫陽花の花 おじぎして」

「紫陽花は 時の速さを 知るばかり」

春と夏に挟まれた雨の季節、梅雨。どんよりとした天気に気が晴れない方もいるかもしれませんが、梅雨にしか味わえない風情もあります。雨の中で咲き誇る花の姿は、他の季節にはない美しさや味わいがあります。

2019年6月15日 (土)

人生の目的

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京セラ会長の稲盛和夫氏は、人生の目的は「魂を磨くこと」と言われます。

魂を磨くとは、「心を磨く」ことです。

心を磨くとは?

精神的な強さだけではなく、どんな状況下においても常に自分にとってプラスとなる発想力、感情を持ち続けることです。精神的にバランスが取れていれば、失敗をプラスに変えることができ、さらに人間性の向上も図ることができます。

人生は、苦労の連続・・・そして経験の連続です。色々な意味で苦労を重ね、知識を積み重ね・・・今の自分がある(育ってきた)のです。その成長、そして経験が今の自分を作っているのです。

心を磨くということは、色々な努力、苦労、経験を通じてこそ、磨けるものです。それは、いわば、誰でも出来る容易で、そして、その経験を積み重ねることによって、より大きな経験に出会うことが出来ます。

「魂は・・・焦らず、じっくり実力を磨こう」

人間は焦っては、磨けるチャンスがあるのにそれを投げ出してしまうこともあると思います。心を磨くとは、「努力」「苦労」、そして「耐える」ことも・・・「経験」を積み重ねるものです。

人間は、追い立てられると、ついつい焦ってしまいます。焦ると、しないでいい失敗を繰り返してきます。人生を有意義に生きていくためにも、「魂を磨くとは」ということをその時々に考えないといけないと思います。

2019年6月14日 (金)

環境美化は続けなければ・・・

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いろいろな環境問題が起きている現在、21世紀を生きる私たちは、未来の地球のために、どんなことをしなければならないのか、真剣に考えなければいけません。そのためには、今、自分が生活している地域の現状をしっかり知る必要があります。

私は長こと、ゴミ拾いをしていますが、今までこんな物まで「何にこれ~」と言うものまで捨てられています。例えば、犬・猫の死骸、川鵜の死骸、羽毛の布団、お米10キロ位の袋、タイヤのない自転車、冷蔵庫、コピー機、猫のトイレに使った砂などなど…常識では考えられないものです。そして、タバコの吸い殻のポイ捨てが相変わらず多いです。

地域社会が安心・安全で、住んで良かった町にするには、住民の一人ひとりの環境に対する心がけ、いわゆる規範意識の高揚が大事です。そして、すべての人が安心して暮らせる地域づくりを進めるためには、さまざまな人のさまざまな暮らし方があることを前提として、性別、年齢、障害、国籍などにかかわらず、みんなが地域社会の一員であることを認識していく必要があります。

そのためには、ふだんのふれあいの中で、気軽に助け合いができる「共に生きる」仕組みづくりを進めていくことが大切です。

今までは・・・人と人とのつながりにより地域社会が活性化していた頃は、「お互いさま」という精神が息づき、地域のあちらこちらで気軽な助け合いを目にすることができました。しかし現在では、その地域社会の力を感じさせる場面が少なくなってきています。

核家族化や少子高齢化の進展は、八王子市でも例外ではありません。また、日中、市外に通勤、通学している人が多いことも、人と人とのつながり、地域とのかかわりが希薄化している大きな要因であると考えられます。

大事なことは、子どもの公衆道徳の教育です。公園などの公共の場での遊びには、ルールがあります。ゴミ・空き缶・空き瓶・ペットボトルは、持ち帰りが基本です。お母さん躾け・学校の先生の教育、地域の大人(タバコの吸い殻ポイ捨てはもってのほかです)の指導が大事です。良い環境づくりを理解し、みんなで住みよい町づくりが大事だと思います。

上手に歳をとる・・・考える

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「人生100年時代」と言う言葉は今では定着してきてます。いま老後の生活に2000万円問題が話題になっています。

それはさておき、「上手に歳を取る・・・考える」

「歳を取ると時間が経つのが早く感じる」といわれますが、私も実感する今日この頃です。歳を取る、とますます時間は貴重なものになっていきます。貴重な日々だけど・・・ついダラダラと過ごしてしまっています。

本当に自分が、今やらなければいけないことはなんのか?

年をとっても努力によって若者に負けない体力や知力を磨き続ける人もいますが、多くの人はある程度の時点で「年相応」という現実に上手に対応しているようです。

今の自分にふさわしい目標を立て、焦らずじっくりと歩んでいく楽しみを見つけた高齢者は、例え結果が思ったように出なくても自己否定することなく、挑戦することそのものに幸福を感じると思います。

現実を受け入れることで、人生への焦りや不安を無くす

年齢と上手に折り合いをつけながら今の生活を楽しめている高齢者は、「人は生きていれば誰でも老いる」という現実を穏やかに受け止め、人生につきまとう焦りや不安からも解放されていると思います。

他者との関わりに深い価値を見つける

人生の終わりを意識すると、多くの人は生と死に関する観念が変わると言われています。今まで当たり前に過ごしていた日常や季節の移ろいに心を動かされたり、家族・友人との絆に改めて感謝の念を抱いたりしながら、そこに幸福感を見出だすことが出来るのではないでしょうか。

また、自己中心的な考え方から抜け出して、残りの人生を社会や他人のために役立てることに歓びを感じる高齢者が多いのも、こうした他者との関わりにこれまで以上の深い価値を見ているからかもしれません。

2019年6月13日 (木)

真っ直ぐに生きる

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「真っ直ぐに生きる」

真っ直ぐに生きるということは、本心・良心に則って生きることであり、原則中心の生き方をすることです。

人間だもの、過ちは誰でもあり、間違えることもあります。失敗も・・・知らずに人を傷付けていることも・・・でも、それに気が付いたならその時点で素直に謝って、同じ過ちなどはしないように努力しようとする心を持つことす。

もちろんそれでも再度、繰り返してしまうかも知れません。でも、「自分の心に嘘を付いてはいけない」「自分の気持ちを誤魔化してはい」ということです。

自分の思う通り、自分が正しいと信じる通り、その通りに生きていくことです。それが、真っ直ぐに生きるということです。

とても難しいことですが・・・他人を羨ましいと思う心・・・人より先に行きたいと思う心・・・人より良い生活をしたいと思う心・・・など色々とあります・・・でもそれを全て捨てて・・・生きていくことです。

過ちを恐れてはいけません。繰り返さないことが大切なことなのです。真っ直ぐに生きている人は、人の痛みがよくわかります。

みんな人として生まれてきたのです。みんな優しさとか、思いやりとか、元々持ってるはずです。

思い出そう・・・真っ直ぐに大切な人を一途に想う素敵さを・・・夢が叶うと信じて真っ直ぐに生きる美しさを・・・真っ直ぐに愛し愛される嬉しさを・・・そしたらきっと、世界は素敵で溢れる気がします。

2019年6月12日 (水)

今日一日を一生懸命生きる

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5年先の状況などわかるわけがありません。

予想もつかない未来を案ずるよりまず、今年一年をしっかりとやろう・・・今月をしっかりとやろう・・・そして、今日一日の積み重ねが明日をつくり、未来をつくるということです。

つまり、ここ、この時間を大切に生きることが将来につながるということです。長期の計画を立てることは大切です・・・事業を長期の視点でみることになるからです。しかし、5年計画を立てても、5年先の状況などわかるわけがないからです。

生かされていることに感謝して、生きて行けばいい・・・人生は長いようで短いものです。一日の終わりには、今日も生きた・・・生きたと自分を誉めてあげよう。

そして、みんなが気付かないような片隅で、社会を照らしているような・・・「一隅を照らす」一日に・・・その意識を持ち続けたいものです。

2019年6月11日 (火)

老後の地域での居場所づくり

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地域に居場所がない老後はつらい?

現役世代から、仕事だけでなく、働く傍ら地域コミュニケーション活動を行う習慣を身につけ、地域との関わり作りに、取り組んでおい方が、定年後の地域との関係を、スムースにできると思います。

普通のサラリーマンは、定年後の暮し方で、務めを辞めれば、地域社会との関係は、好むと好まざるに関係なく増えてきます。

定年までサラリーマンに専念した人は、その後地域のコミュニティに、なじめないという人がいるのではないでしょうか?

特に昨今は、定年延長等により65歳まで働く人も増えているため、ますますそのハードルが上がりつつあるように思われます。

ですから、老後の時間を有効活用するためにも、現役世代のうちから町内会等の活動に参加し、少しずつ地域のコミュニティに溶け込んでおくことです。

平日に忙しい人が、道路の清掃等で休日に動くのは億劫に感じるかもしれません。しかし、今からコツコツとボランティアや人脈を「貯金」をためておくことが、時間を有効活用した幸せなセカンドライフには必要です。

2019年6月10日 (月)

人の道・道徳

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高杉晋作の言葉に・・・

『「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない。」という事こそが人の道である。人としての努力をすることもなく、ただ死に向かうのは人の道ではない。』・・・があります。

武士道・茶道・華道・など日本人は、人間性を表現する際に、日本人は「道」という言葉をよく使います。

日本人は、人生を一本の道にたとえ、人を、その一本の道を旅する旅人に・・・なぞらえてきました。人生という旅の中で、どのような徳を積むのか・・・それを示したのが道徳です。

ところが今は、どうもこの道徳という言葉が、神道や忠勇愛国的な思想、信条と同一視して、何でもかんでも一把一絡げにして否定してしまう?

事の正否善悪に、新旧老若の別はありません。しかし、現代人は、古いものを嫌う傾向があります。日本人は、本来、教育を道として捉え、修養、修行という要素から大切にしてきたのです。逆に、新しい物好きで、新しいものは何でもかんでも無条件で受け入れてしまう。

「○○道」という言葉が示すように、日本人は、本来、教育を道として捉え、修養、修行という要素から大切にしてきました。日本人は、人生を一本の道にたとえ、人を、その一本の道を旅する旅人に・・・

人生という旅の中で、どのような徳を積むのか。それを示したのが道徳です。ところが、どうもこの道徳という言葉が、封建的で古くさいと勝手に、決めつけているようなところもあるようです。

2019年6月 9日 (日)

季節の移ろいで思う

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いま、関東地方は梅雨です。

日本には日本独特の四季があり、その中で独自のものの考え方や感じ方を育んではきました。春夏秋冬それぞれの季節の特色が、人々の暮らしと心を豊かにし、生活の中に、日本人は季節の感覚を取り入れています。

初夏には衣替えが行なわれ、同時に住まいの装いも夏向きに変えられます。今日の大都会は味気ないものとなりましたが、その中においても移り変わる四季の気配と美しさを見出すのが日本人です。四季それぞれの自然を観賞し、溶け込み、楽しむ心があります。

「梅雨」

雨の日が続くのはできれば勘弁してほしいと思う人は多いでしょう。しかし、雨が降らなければ困るという人たちも世の中には多くいます。農業に従事している人たちは雨が降らなければ死活問題です。

農作物の成長には水は欠かせません。かといって降りすぎると洪水等で大きな被害にもなります。人それぞれに梅雨への思いがあるのだと思います。

「時すぎて やまの緑は 増すばかり」

「草の道 早朝散歩で 靴が濡れ」

「静けさや 新緑の葉に 玉しずく」

「入梅りや 紫陽花の花  色を増し」

2019年6月 8日 (土)

年をとって足るを知る

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道了堂参道

私もそうですが、長生きをしたいと言っている人は、今の元気な状態のまま長生きしたいと言います。

満足している高齢者というのは、老荘思想に「足るを知る」という言葉があるように現実を受け入れている人です。欲望を持ち、何かをしたいともがく人ほど苦しみます。

欲望は、死ぬまで持つことはよいことですが、想いを実現するための「資源はすでに自分が持っている」のです。

何かを求めたいのであれば、無いものねだりではなく、まずは自分がすでに持っているもの(才能や身の回りのものや環境)に目を向け、自分の望みを叶えるための資源はすべて自分が持っている事に気付く・・・それこそが「足るを知る」の本質・・・と思うのです。

幸せの定義は自分の心がつくるものです。

社会や行政、医療に求めるのは無理があります。どんなことにも良い面と悪い面がある。長生きも同じです。片方にばかり着目せず、その良い面と悪い面をしっかりと考えることが大切です。

2019年6月 7日 (金)

入梅と田植え

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「入梅や 降りだす雨に ほっとする」

「水無月の 紫陽花の花 雨を呼ぶ」

気象庁は今日(6月7日)関東地方に入梅の宣言をしました。

私が散歩するいつものコース(小比企町)で田植えをの光景を見ました(機械植えですが)。

昔の田植えの光景を、想い・・・時代の変わり方に改めて感じ、またノルスタジックさえ覚えました。と言うのも私の町(片倉町には随分前に田んぼは全くなくなったからです)

辺りの山の栗の花が咲き、田んぼの畦道があり、燕が飛び、遠くに富士山が望み・・・なんだか涙がでそうな気分になりました。

本当の幸せとは・・・

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自分のことしか考えず、お金のためなら何でもするような事件が続発しています。

自分さえよければという思いが重大な事件を次々と引き起こし、そして多くの人々がお金さえあれば何でも出来ると、お金至上主義が蔓延しています。

混迷を深める現代社会にあって「本当の幸せとは何か」を考えなくてはなりません。お金やものでは本当の幸せは得られません。

「よく死ぬことは よく生きることだ」

命が有限なものであることを深く認識すれば、世間的な成功とか、物質的な裕福さとか、ばか騒ぎなどが、どんなに意味のないものであるかが、おのずからはっきりしてきます。

自分は何をするために生きているのか、残された時間に何をすべきなのかを考えて生きることです。

人は誰でも幸せを求めて生きています。

本当の幸せとはどんな境涯にあっても、今生きていることに喜びを見出す事であり、人生に希望を持つことです。私たちは何が起こるか判らないはかない命を生きています。

「諸行無常」

この先どうなることか分かりません。この世は、はかない、何時どんなことでこの命がどうなるかは分からないものです。だから希望を持って生きると同時に、何があっても動じない覚悟を持っておかねばなりません。

今、この命ある間に家族や縁ある人たちに感謝と、思い遣りを持って生きていかねばと思います。

2019年6月 6日 (木)

環境の大切さを子どもにも

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昨日、ゴミを拾いながら、ある公園まで来たのですが、子どもたちが遊んだ後だと思われる・・・飲み物(ペットボトル・ジュースの空き缶)・お菓子の袋・遊びの水風船の袋が散乱していました。

汚れは酷い状態でした。気になるのがタバコの吸いがらが落ちていたことです。大きな袋にいっぱいになり、近くの市民センターで処理しました。

考えてみますと、昔は、子供が悪遊びをすると、地域の大人に注意されてものです。公共の場を守っていくには、器具などを大切に使う・公園を後の人が使うの考えて使う、いわゆる公共のマナーは絶対必要です。

子どもの躾け方・学校の教育・地域の目が、昔と違ってきていることを、考えさせられました。

あいさつは、コミュニケーションの基本です。子供は、家庭・学校・地域で育つと言われています。もちろん、子どもにとって家庭は、自分の素が出せる第一の場所です。

「子供を注意するより親を注意しろ」・「見てみぬふりをする大人」どこかで聞いたように思います。大人が公園でタバコのすいがらをポイ捨てていては、子供はゴミを捨てるのは当たり前と思うでしょう。

いま、地球規模で環境が深刻な問題となってきています。「地球が危ない」をすべての人が認識し、環境に優しい心が大事と思います。

2019年6月 5日 (水)

人間性とボランティア精神

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八王子市内を望む2

人は、他の動物にはない人間性を持っています。

そもそも、「人間性とは」・・・私は、その人が持つ本質的なものと解釈しています。

辞書では、「人間性とは」他人に対して、思いやりの心を持つことや、自分ではない誰かへの愛情、損得勘定ではないボランティアな心を指す言葉として記されています。

ボランティア精神とは

「ボランティアとは、「慈愛の心で奉仕を行なう活動であって、決して結果や報酬を求めてはいけない。また、活動そのものを他言せず、ある意味、自己満足で行うもの」です。

まさに、今こそ慈愛の心で奉仕しなければいけないと思います。人は不合理、非論理、利己的です。

そしてやり続けることが大事です。人に中傷も気にすることなく、し続けることです。自分の信念と正直さと誠実さを貫き通すことで、自分自身の心が充実したものになります。

町の清掃活動・・・

口だけではなく、実際に自分の目で酷い環境を見たとき、黙って行動を起すのです。こんな時代、こんな男、一人くらい居たっていいでしょう。

2019年6月 4日 (火)

グッドマナーの実践

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生きていくことは・・・人が生きることの出来る環境を、後世に引き継ぐことでもあると思います。

私たちのまち(八王子市片倉町)は、豊かな自然環境と生活文化に恵まれ、その中で市民のまちへの愛着や他者への思いやり、助け合いの心が育てられてきました。

しかし、近年、一部の人の心ない行為やマナーの欠如が、多くの人々の心を傷つけ、いままで良かった、地域社会関係を乱すことになっています。

「グッドマナーとは・・・」

○タバコのマナー ○ゴミのマナー ○ペットのマナー ○交通のマナー ○あいさつのマナーがあります。それと、ちょっとした気づかいです。

人々がお互いに仲良く、気持ちよく暮らしていくためには、ひとり一人が公共のルールを守り、他者や環境に優しい心配りをすることが必要です。これが人間社会存立の条件であり基本です。

このため、まちと市民の暮らしが楽しく、明るく、生き生きとなるよう、また、私たち(片倉町)を訪れる方々を温かく迎えるためにも、すべての市民がグッドマナーの実践が、課題となっていると思います。

2019年6月 3日 (月)

生きていられることの幸せ

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毎日は当たり前のように過ぎていきます。

まるでそれがずっと続くかのように・・・しかし人生は儚く、貴重で、予想できないものです。毎日を生きることは、与えられた権利ではなく贈り物なのです。

私たちは日ごろ、些細なことから大きな問題まで、さまざまなことに物事の善し悪しを判断する目を向けています。それは「好きか嫌いか」といった感情に基づいていることもあるかもしれません。

いま生きていることに感謝すること

私たちは恵まれた日々を過ごしています。沢山の人に助けられ、支えられながら生きています。だけど、人は慣れる生き物です。どれだけ楽しい時間も当たり前になってきます。「あって当然、やってもらって当然。」・・・ありがたみに鈍感になり満足感が得られなくなってきます。

だからこそ、意識的に感謝の心を持つことが大切なのです。些細な幸せに感謝できれば毎日が素晴らしいものになり、 何気ない日常に感謝できれば、他人にも自分に優しくなれるのです。

「当たり前」にこそ感謝する。。。「ありがとう」と言葉にして伝えてみる。。。感謝することで今ある幸せに気がつくことができるのです。

自然体で生きる

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自然体生きるということは、自分の心に素直に生きることです。

「自分らしく・・・生きる」

そもそも「自分らしく」とは何なのでしょう。探せば見つかるものなのでしょうか?

「自分らしくは、いつか見つかる」と信じて自分探しをしているかぎり見つからないものです。なぜなら、もともと「どこにも存在しない」からです。『なりたい自分を演じ続ける』ことで自ら磨き上げていくものだからです。

ただし、自然で無理のない心の状態をつくることが大切・・・なりたい自分を演じるうえで「過剰な演技・演出は駄目」です。

着飾らない「素の自分」を見せるのは勇気がいることで、自分の弱さをみせるのは怖いことです。認めたくない部分にも目を向けなければいけなくなります。

どんな人にも欠点はあります。非の打ちどころない、完璧な人間なんていません。

「強くあろうとしなくていい。」「要領よく生きようとしなくていい。」偽らず自分の心に素直になることです。

そのままのでいい・・・飾り気のない普段通りでいい・・・肩肘を張ったり、見栄を張ったり、カッコつけたりしなくてもよい。。。自然体でいることの大事なところは、今の自分が不自然ではなく、自然な状態でいられることなんです。

2019年6月 2日 (日)

小さな事でもやり続けること

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「小さいことからコツコツと」何かをやる、ということは、何か大きな目的があるかないかによらず、毎日漫然と生きていくよりは、はるかに有意義なことである。。。と日々実感しながら毎日を生きています。

なぜならば「塵も積もれば山となる」ということわざと同じく、一つひとつは少しのアクションであっても、それを10回、100回と繰り返していくうちに、何もやらないでいるときの数倍の、効果や変化の可能性を生み出すことができると思うからです。

言葉にせよ行動にせよ、小さくても実際に「アウトプットする」ということは、世の中に対して確実に変化をもたらすと思っています。

「 小さなこと 」 であってもそれを当たり前のように続けることが、他の人やできない人からは 大きいことだし、自分もやろうという気持ちになります。当たり前な人からは、 「 小さいこと 」 だが、できない人からは大きいことです。

「 小さなこと 」 でも他人は、いい気分になり、自分のためになると考えて行動することが大切だと思います。 そして、その 「 小さなこと 」 を積み重ねていけば、やがて大きくて大切なことも、当たり前にできるようになると思います。

「 小さなこと 」 だと思っていても、その行動をすることで、自分もしなければと思う人がいるはずだから、続けてくれる人がいれば、他のことにつながっていくと思うし、結局は大きなことにつながるからです。

「 小さなこと 」 でも続けると大きなことになったり、 「 小さなこと 」でも他の人から見たら大きな ことかもしれないから、自信 を持っていいと思います。

2019年6月 1日 (土)

人間らしく生きる

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昭和から令和時代になりました。令和の時代も平和であってほしいと、誰でも思うことでしょう。私も勿論、「令和」という時代が「平和」であってほしいと強く願っています。

しかし、それと同時に、「平和」」「平和」というけれど、先ず、自分の心が平和にならないと平和にはなり得ないということも、強く思います。

現代社会は、みんな核家族で近所づき合いも少ない、だから「人のことに、口出しはしない」「隣は隣、どうなってもウチとは関わりはない」と、自分勝手に生活することもできるのです。

でもそうではなく、「困っている人がいるなら助けてあげよう」という考えで接する・・・「いかがですか?お元気ですか?」と声を掛け合う。もし老人がひとりで住んでる家があるならば、よく行って面倒を見て様子を聞いてあげる・・・そんな風に、少し人のために何かすることで、人間性が少しあがります。

お節介の人もいても世の中いいのです。人にたくさんのお節介をすることで、 人から感謝・信頼され、協力させてもらうこともあるのです。

昨今では、陰湿な事件、見て見ぬ振り、自分さえ良ければよいという人、他人への無関心、社会へのあきらめ、心と心が通じていない表面の付き合いは、未来への不安と、世の中の陰惨な事件の多くは、お節介の心があれば救えたこともあると思います。

人は幸せでありたい。そして幸せのために必要なのは、「人との繋がりが確保されること」「安心感のもとに暮らせること」ではないでしょうか。

生産高率化が優先される現代社会では、人間関係が築きにくく、心を許せる相手に飢えています。

人に迷惑をかけないように、人から後ろ指をさされないようにと気遣いながら暮らす中で、日本では、結局人と人との交流の垣根が高くなり、肩の力を抜いて心を開ける人間関係が希薄になってしまいました。

同じ水を飲み、同じ風を受け、同じ光を浴びる人間どうしです。フレンドリーな関係を作れないはずがありません。日だまりの縁がわのように暖かで居心地がよい場所で、同じ急須から注いだお茶を飲むようなよい関係を繋ぐことができれば嬉しいです。

 


 

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