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2019年5月

2019年5月31日 (金)

今なぜ「命の大切さ」なのか

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近年、子どもの命に関わる重大な事件が多発しています。その中に見られる突発的な攻撃性、反社会的行動等は心の問題ですが、とりわけ、事件を起こした大人や子どもたちが、命をどのように認識していたかが問われているのです。

少子化・都市化・情報化等の社会の急激な変化は、子どもたちに、さまざまな影響を与えています。かつては日常生活の中で、家での出産や親族の死等命にふれる、機会が多かったのですが、核家族化によって、そうした命に関わる大事な場面に、ふれる機会が少なくなってきています。

多くの子どもたちに、生や死のもつ意味について考える機会や、人の命の有限さや、かけがえのなさを理解する機会が失われ、命を実感としてとらえる場が、失われてきています。

また、都市化に伴う連帯感の希薄化や、地域の教育力の低下、子どもたちの遊びの形態の変化等を背景に、子どもたちの倫理観や社会性が不足していることが、指摘されるようになってきました。

人とのふれあいは、安心感ややすらぎを生む一方で、摩擦やわずらわしさの原因にもなりますが、そうした人間関係を忌避し、人とうまく関わることができない子どもたちが増えてきています。そして、情報化の進展は、創造的な活動の展開を容易にした一方で、人間関係の希薄化や直接体験の不足等深刻な問題も生み出しています。

特に、ゲーム機を中心とした遊びが増え、仮想現実の世界に容易に入り込むことができるようになり、虚構の世界の中で作り上げられた死に頻繁に接する中で、子どもたちの現実感覚が麻痺している側面があります。

この実感を伴わない死の感覚が、命の軽視につながっているのではないでしょうか。また、人間は死んでも生き返ると思っている子どもやリセットすれば、簡単にやり直しがきくと考えている子どもの存在等、子どもたちの命の重みに対する感受性が、弱まっているのではないでしょうか。

2019年5月30日 (木)

川崎の小学生を襲った事件で思う

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一昨日(5/28)川崎の小学生を襲った事件
まさか・・・信じられない悲惨な事件は、なぜ起きたのでしょうか・・・
「物事の事象は、起こるべきして起こる」ものです。
松下幸之助は『この世に起こることは全て必然で必要、そしてベストのタイミングで起こる。』と名言を残しています。

殺人犯をに「なんてひどい人なんだ」と憤るのは当然だが、そこで終わらずに、殺人に至った背景を見てみる必要があるでないでしょうか。
もちろん、ニュースや新聞報道の性質からして、一つの事件の背景をそこまで深く知るのは容易ではありません。しかし、私たちと犯罪者の境界線がもしも小さなものであり、些細なきっかけで踏み越えてしまう可能性があるならば、「自分への戒め」としても、知っておくべきと思います。

それこそが、誰も報われることのない凶悪殺人から、ただひとつ、社会や私たちが得られるものです。

「拡大自殺」
犯罪心理学が専門の筑波大学の原田隆之教授は、「岩崎容疑者がより深く突き刺せる包丁を4本も周到に用意していたことに驚いた。破壊的な衝動やうっぷんなどが一挙に爆発したのではないか」と分析しています。

社会学者で国学院大学教授の水無田気流さんは、次のように指摘しています。

「現代は、自分自身が労働市場や社会関係から排除される不安に加え、その中で孤立した人間が、自暴自棄になり危害を加えてくる不安がまん延している。そこに実際に無差別殺人者が現れたことにより、『不安』が『恐怖』に変化して、ネット空間での感情の『引火』が起き、ツイートがあふれていると思われます。ネットが普及した今は、そうした感情の爆発的な相乗効果が生まれやすい」(NHK NEWS WEB)

2019年5月29日 (水)

教育で心豊かな人に

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東京工科大学2

最近、「自己中心の自分さえよければ・・・」の人間が多くなったようになり、他人を思いやる人間が少なくなったように思います。

金が重要な世の中で、『お金』と崇めつつ、一方で金は汚いという認識も払拭できず、『人より勉強して良い学校に入りなさい』というあいまいな教育が浸透しました。

そう育てられたのが今の親で、受験戦争に勝ったんだか負けたんだか解らずあいまいに育ち、気づいたらそれなりの会社に入ったはいいが、世の中に流されっぱなしの人生を感じて、我が子に『この子に合った個性的な教育を』とかますます解らない育て方をしています。

他人を思いやる・・・生き方教育が大事です。

子供が悪い事をしたら“しっかり”と怒る、困っている人がいたら助ける、挨拶をする、笑顔を絶やさない、当り前のことを親ができないから子供もできなくて当然です。

自分自身の生き方、ポリシーもない大人が子供を育てきれないのだと思います。世の中が不安定だからといって、不安な気持ちを持ったまま子供に接すれば、子供らしくない子供になってしまうと思います。

それをできないことを『個性』と勘違いしている、親は非常に多いと思います。繰り返し繰り返し根気よく子育てをして欲しいと思います。

2019年5月28日 (火)

日本列島南北逆転の暑さ

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北海道で39度超える・・・

5月として記録的な暑さで、日本列島が南北逆転してしまったかのような暑さが続きました。

最高気温は、最も高くなったのは北海道の佐呂間で39度5分でした。年間を通しての北海道の史上最高気温を更新しました。東京都心は32度6分で、5月として観測開始の1876年以来、最も高くなりました。

「熱中症を気を付けましょう。」

最近、テレビの天気予報でも、「水分補給」・「適宜な休息」などを呼びかけています。

ごく最近のことですが、街中を走る救急車のサイレンの音が多くなったように思いますが、熱中症の人もいるのではないのではでしょうか・・・

近年の猛暑により、熱中症を直接死因としなくても、持病の悪化、体力や食欲低下から体調を崩し、場合によっては感染症を併発して死亡に至る例が増えていると考えられます。

また、脳卒中や致死的な心疾患で倒れて動けなくなり、結果として熱中症(体温上昇)に陥った症例も相当数含まれている可能性が高いと考えられます。夏の異状死体は、死後の体温が高いという状況から判断して、熱中症が死因となってしまうのです。

2019年5月27日 (月)

初夏の候となり

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このところ連日の猛暑は驚きで、体調も崩してしまそうです。
北海道では、きのうは、朝から気温が上昇。道内で5月に35度を超えるのは観測史上初めてだそうです。

北海道佐呂間町で26日午後2時7分に39・5度を記録し、5月の全国の最高気温を更新したという。ゆっくり季節の移り変りを楽しみ味わいたいものですね。

「若葉風 心爽やか 木立かな」 

「草を刈る 遠くに聞こえて 初夏の風」

「葉に隠れ 梅のみ二つ 寄り添うて」

2019年5月26日 (日)

利己心と利他心のバランス

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自分自身のこと(特に利益や得にになること)を中心に考える心を【利己心】と言います。いわゆる自己中心的な心です。反対に周りの人たちのことを中心に考える心を【利他心】と言います。

どちらも大切で、どちらかが欠けても、人生や人間関係のバランスが取れなくなって道を外れてしまいます。それはなぜか?自分自身の心ばかりになると、他人の気持ちが理解しにくくなり、人を通して「客観的に」見える自分の気持ちが見えなくなってしまいます。

一方、他人の心ばかりになると、肝心の自己の気持ちがおろそかになって、他人のことを、気遣う余裕が失われてしまいます。

利己心と利他心のバランスを崩すとどうなるか・・・自他共に、人の心(自分自身の心も含め)がわからなくなり、理解しにくくなります。そのために、自分自身の望まないことに向かってしまい、他人が望まない方にも進んでしまう、その結果、仕事も人間関係も、人生も、思い通りにならなくなってしまうのです。

ですから、自分自身の心を大切にすることも、他人の心を大切にすることも、両方欠かすことができないのです。

2019年5月25日 (土)

善いところを見ていくこと

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「物事の善し悪しの判断」の基準

①善の判断基準・・・自分にして欲しいことを人にしてあげること。(利他的、自己犠牲的な動機)
②悪の判断基準・・・自分がされたら嫌なことを人にすること。(利己的、自己中心的な動機)

私たちは日ごろ、些細なことから大きな問題まで、さまざまなことに物事の善し悪しを判断する目を向けています。それは「好きか嫌いか」といった感情に基づいていることもありますが、そうした目は、自分自身に対しても向けられる場合があります。

自分の中には誇れる長所もあるでしょうが、できれば他人の目には触れないように隠しておきたい短所もあるでしょう。短所や欠点が気にかかっているとき、私たちの心は暗く沈んでいきます。するとそのマイナス面に、ますますとらわれてしまうのではないでしょうか。

周囲の人たちへ向ける目にも、同じことがいえます。

中には「困った人だな」「なんとなく苦手だな」と思う相手もいることでしょう。そんなマイナス面にとらわれていては、相手を心から受け入れることはできず、人間関係がギスギスしてきます。

私たちの物事を見る目は、一面的になりやすいようです。

その点を自覚したら、とらわれから抜け出すためにも、積極的に人や物事の「いいところ」に目を向けるように努めたいものです。

もちろん、自分自身に対しても・・・そうすることで、私たちの心は明るく穏やかになり、自分や相手の持ち味をよりよく伸ばして、円満な人間関係を広げていく手がかりが得られるのではないでしょうか。

2019年5月24日 (金)

自然環境は危機感を

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私はいま、このままでは、人間の生存すら危ういと思っています。

地球上の全ての生き物はそれぞれに役目を持ち、次世代へと命を育んできました。その中で人類は、化石燃料や天然資源を使い人類が暮らすための利便性を高めてきました。その結果もたらされたものが、自然環境破壊や環境汚染によるさまざまな地球環境問題です。

「地球環境が大変です」「自然や生態系を守りましょう」「地球にやさしく」…地球環境の危機を伝える情報と、この問題への取り組みを呼びかける言葉が今、世の中にはあふれています。

ニュースでは毎日のように、何か環境にかかわる報道があり、インターネット上でも多くの情報が発信されています。学校でも子どもたちが授業で環境のことを習い、関心と知識とをたくわえる機会に恵まれています。

そして、いまプラスチックのゴミの問題が世界でも、クローズアップしてきています。

しかしながらなぜ、環境を保全しなくてはいけないのか、という理由を、誰かが納得のいく形で明確に示してくれることは、なかなかありません。なぜなら、その本当の理由は、一人ひとりの心の中にあるからです。

小さなゴミ・タバコの吸い殻くらい?「無意識に捨てて行く・・・」「そして忙しいから・・・」「電車に乗るのだから・・・」私がゴミを拾っている前で捨てて行く、中年のサラリーマンがいました。怒りよりこのままでは、次世代に安心して、引き継ぐことができないと危機さえ覚えます。

2019年5月23日 (木)

今、目の前のことを真剣に取り組む

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東京工科大学2

上手に生きることは、考えれば考えるほど難しい。

「ただひたすらに心を空にして、目の前のことを真剣に取り組み、そして、それを伸ばしていく生き方」

ただひたすらに心を空する。余計な考えを持たない。私は、これをしていて大丈夫かどうかとか、あいつはこれが駄目だとか、親が自分についてどうこう言うとか、世間体がどうだのとか、これらの考えが積もれば積もるほど、心の中に迷いが生まれてきます。そして、迷いが生まれてくると、努力の足が止まってしまい、目の前のことに純粋な心で向き合うことができなくなります。

「心を純粋にして向き合っていくこと」

全てを受け入れて、そして、創造していく気持ちで、今の瞬間にやれることをただやっていく・・・今、やれることは、今、生きていることに心より感謝して、人間として生きることを喜びに感じて、瞬間瞬間の人生を楽しむ・・・それが、今できることです。

心を純粋にしていくには、とにかく捨てていくことです。汚れは、取り除くことによって、綺麗にすることができるのです。この先に、創造性があり、芸術的な人生につながっていくと思います。

人生どういきたら良いか、という問に対しては、芸術的(音楽・詩・絵画など)に、ありのままに、創造性を発揮して生きていくことが、心が豊かになり、人間らしい生き方と考えます。

2019年5月22日 (水)

純粋な心

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「純粋」とは・・・邪念私欲がなく、一途さやひたむき、打算や駆け引きがないことです(辞書)。

「純粋な心」とは言いかえると、物ごとを行うときの動機が純粋であり、私心がないということと同じです。

またそれは、人間として何が正しいのかということにも共通しています。 純粋な心を身につけることによって、私たちは間違いのない人生を歩んでいくことができます。だからこそ、純粋な人とは、素直で寛容な心を持つ人だとも言えます。

これは言い換えれば、子どもの純粋さと同じです。子どもに善悪はなく、こどもに正否はありません。心のままにあるがままにありとあらゆることをそのままに感じる素直なままの存在です。

それが大人になると次第にその心が閉じていきます、閉じないためには、あるがままの全てをあるがままに、受け容れて味わっていくことで、子ども心は維持されていくのです。

純粋で私心のない心、すなわち人間として高い見識や見解を判断基準として物ごとを決め、人生を歩めば、その人の人生に大きな潤いとすばらしい結果をもたらすのです。

2019年5月21日 (火)

自然の季節感を味わって暮そう

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「青若葉 胸いっぱい 息を吸い」
「薫風に 身体まるごと ゆだねけり」

季節感も味わえない一年を過ごしてしまい、「あっという間に一年」では?

かつては、生きものを慈しむ心や、いのちを感じとる感性、自然の不思議さや偉大さ、自然環境を維持していく知恵などを、自然とのふれあいから学んでいました。

しかし、社会が変容してしまった今日の日本において、都市の子どもはもとより、農山村の子どもですら自然とのふれあいがめっきり減ってしまいました。

『人生急がないでもいい!』

今の世の中スピード時代です。「ゆっくり生きる」ということが苦手な人が多いように感じます。どこにいても答えが分かる世の中です。私たちもすぐに結果を求められることが増えてきました。

だからでしょうか、いつも何かに追われるように感じてしまう。じっくり、季節感を味わって生きたいものです。ゆっくり生きる方が、人生をよりよく味わうことができると思います。

たしかに便利になりました。でもね、簡単に手に入れたものは手放すのもまた簡単。いたるところに表面的、即席が溢れています。生き方や幸せまで同じように考えてしまって、ゆっくり生きることができないです。

ゆっくり、自分のペースで季節を味わって生きる心の余裕を持ちたいものです。急がず焦らず、丁寧で穏やかな暮らしをしたいものす。

 

2019年5月20日 (月)

自分で決めて行動する

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相田みつをの名言に『幸せは自分の心が決めるもの』があります。
幸せはいつも自分の心が決めるもの。しかし、その幸せを「誰か」や「何か」に求めてしまう人がいます。

私たちは今とは違うところ、どこか遠いところに幸せを求めてしまいます。今ここにないのだから、どこか別のところにあるはずだと・・・でも、幸せは「誰かの中」にも「どこか」にもありません。

幸せは、いつだって自分の心にあるのです、『幸せはいつも自分の心が決めるもの』なのだからです。

『行かされてる、やらされてる』うちは、必ず不満が湧き上がって来るものです。しかし、自分で決めて自分で行動するのであれば、発進は自分です。
誰のせいでも、誰の責任でも、誰の意見でもありません。

『自分で決めて、具体的に行動すること』で人生は上向きに一気に加速します。 『何か違う』と感じたら、修正し方向転換するのです。
『逃げちゃダメ、辞めちゃダメ』って、誰が言ったのでしょうか?そして、いつまで従っているのでしょうか?

どちらも人生を切り開く、選択肢程度なのです。

しかし、行動を止めてはいけません。極力止まらない人生こそが、目的地への近道となるからです。

それが分かると、誰かのせいにしたり、縛ったりすることも無くなります。 他人に執着せず、自分の霊を磨くことこそが、最大の喜びなのです。

 

2019年5月19日 (日)

「当たり前」に感謝すること

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私たちは恵まれた日々を、当たり前のように過ごしています。多くの人に助けられ、支えられながら生きています。だけど、人は慣れる生き物です。

どれだけ楽しい時間も当たり前になってきます。あって当然、やってもらって当然。ありがたみに鈍感になり満足感が得られなくなってきます。だからこそ、意識的に感謝の心を持つことが大切なのです。

○ 些細な幸せに感謝できれば、毎日が素晴らしいものになれます。
○ 何気ない日常に感謝できれば、他人にも自分に優しくなれます。

「当たり前」にこそ感謝すること。「ありがとう」と言葉にして伝えてみる。感謝することで今ある幸せに気がつくことができるのです。

2019年5月18日 (土)

心の豊かさ

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心のな豊かさは、最低限度の物質的な豊かさが必要だと思いますが、その上で何気ない日常にありがたみを感じることができれば、精神的に豊かだと言えると思います。

何もないところに穏やかさを感じ、心穏やかに過ごす。また何もないところから笑いや楽しみを生み出し、身近な人と楽しく過ごす。そんな何気ない日常が、悪くはないというだけでなく、何気ないありふれた日常に、ありがたみや幸福感を感じるようになれば、それは心が豊かなのだと思います。

そんな心の豊かさは、「こうでなければ」という条件はあまり付かないように思います。

例えば、天気の良い日の心地よさや、頬を伝う風の心地よさ、自然の与えてくれる心地よさは、日常から感じることができるはずです。

幸せの型を自分で決めてしまって、自らそこに捉われてしまえば、そうした日常の幸せは、心が感じ取れなくなってしまうように思います。

そういう意味では、心の豊かさは、型に、はまった幸福感に捉われていないことで、ふとした幸せを、心が感じ取れる状態と言えるように思います。また心が豊かであれば、人に与えることができ、人と分かち合うことができる状態だとも思います。

自分が得ること、それはもちろん大切なことではありますが、必要以上の物を求めず、「足るを知る」感覚があれば他の人と分かち合うことは可能なはずで、そういう意味では欲が少なく、人と分かち合うことができる状態が、心が豊かな状態だと言えると思います。

2019年5月17日 (金)

老齢期を考える

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生きることの難しさ、虚しさが如実に現れるのが、年老いてからです。それは、取りも直さず生きることの意味を改めて考えさせられる時期でもあります。

「老いるということは」

かつては、子供や孫に囲まれ、皆に祝福されながら、穏やかで安らぎに満ちた晩年を過ごすというのは、一つの理想でした。

しかし、現代は、子供達から見放され、誰にも世話にはならないと片意地を張って一人淋しく施設の中で老いていく・・・それが現代人の結論?全ては、金の問題であるようです。心の問題は、どこかに置き忘れられてしまっています。

老齢期は、抑制心が弱まり、その人の本性がむき出しになってきます。そこへ、認知症が追い打ちをかけてきます。上手に歳をとると言うことは、本当に難しいことです。だからこそ、人生の晩年は、最高の修業の場となるのです。

老齢期は、人生における集大成であるべきなのです。
失われていく力や記憶、技術や能力それに逆行しながら人間としての最後の修業、修道の期間こそが老齢期、晩年です。自制心や抑制心が失われ・・・自らの規律が保てなくなってきた時、自らを支えるのは、それまで培ってきた、人間としての自信、誇りやプライドです。

老齢期の人たちには、諸々のハンディキャップを乗り越え最後の修養、修業を行う人達を敬意と尊敬を以て支援・援助することです。

2019年5月16日 (木)

「まぁいいか・それがどうした・人それぞれ」

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シニアからシルバーになって?
高齢者になって・・・考えても仕方ないって思うことってあります。
でも、そういうことほど考えてしまうのですが・・・
「まぁいいか・それがどうした・人それぞれ」と思うようすることです。

問題を直面したときは、抵抗せずに「まぁいいか」いいかと受け入れる。問題に向き合って、心を立て直す、つまりよい意味の居直りが「それがどうした」あとは、周りに流されず「人それぞれ」と・・・

自分の身の丈に合った生活を送る・・・これからは、シニアライフを幸せに生きる心構えといえます。シニアライフをよりよく楽しむには、他人と競わない、比較しないことです。

人とそれぞれで、自分に合った生き方をすれば良いのです。それには、自分に何が合うのか見極めることです。

2019年5月15日 (水)

人生に悩み事はつきもの

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嫌なことが続いたり、大きな壁にぶつかってしまうと、潜在意識まで簡単にその嫌なことに縛られてしまって、つまらない自分の人生が、暗い闇の中にあるように思えることがあります。

人間はとても簡単に、ある種の悪い催眠術にかかってしまうのです。そんなときは、大きく深呼吸して、身体の力を全部抜いて、心を静めて、自然の声を聞いてみてはどうでしょう?

山奥から流れ落ちてきた水に打たれた石・・・ 近くの神社の大木はなんて言ってますか?何度も話しかけてみたら・・・?石や大木の、声が聞こえなくたってまったく大丈夫、聞こうと外に向かって意識を向けるだけで、悪い催眠術から覚めていきます。

生きているからこそ、そうやって素敵な木や石たちに出会えます。ましてや、まだ逢ったことのない素敵な人に出会えるかもしれません。

生きていること自体の素晴らしさに気が付けば、その程度の嫌なことによって悪い催眠術にかかるなんて、馬鹿馬鹿しくなるでしょう。朝、目が覚めたときに、自分が生きていること自体に感謝してみましょう。

「オハョー・・・生きてた!ありがとー!今日も一日よろしくお願いしまーす!」

それを一日の習慣にすれば、癖になっていた悪い催眠術にもかからなくなるか、もし、かかってしまっても、簡単に本来の自分を取り戻すことができるでしょう。

「生きてることは、素晴らしいぞ、そういっている、石がある・木がある。川辺に立つと、水もそういって、流れてゆく・・・生きていればこそ、会えないひとにも会え、不思議な契りを、結ばせていただき、こんな嬉しいことはない。」
(「坂村真民一日一言」より)

2019年5月14日 (火)

人と人の繋がりの大切さ

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人と人の繋がりがなければ生きられません。

人生をよりよく生きるには人と人の繋がりを大切にすることです。しかし、「自分から変わっていくことが出来ない」そう思っている人は多いのではないでしょうか。

変わりたいけれど、変わり方が分からない・・・状況的に自分にできる事がない・・・と、思ってしまいますが、そう思うのなら環境を変える事で自分の考え方や自分自身の性格までも変える事が出来ます。

自分自身の考え方はとても大切ですが、それと同じくらいに環境や周りの人間関係というのは重要なものです。その環境が自分自身を作り上げていくのです。

私は、以前は人が寄ってきたら少しだけ近づくと、いったように自分から積極的に人と関わることはしてきませんでした。しかし最近は自分から積極的に人と関わる場所に参加したりして、人との繋がりを自分から作りにいっています。

すると自分の環境が少しずつ変わり始めているように感じています。ここから自分が大きく成長していくきっかけを掴めそうな気がしています。

人には良いところも悪いところもあります。悪いことばかりを見ていたら人を信用することなどできないと思います。しかも自分が信用しないと相手も信用してくれないと思います。

ですから、まずは人の良いところを見るようすることです。そしてまずは、相手のことを先に信用することです。そうすることで相手も必ず、心を開いてくれると思います。そこから良い関係を築いていくきっかけが出来るのだと思います。

1人だと出来ないことも仲間がいれば出来ることもたくさん出てきます。自分を成長させたいのなら1人でも多くの人と繋がるのが良いと思います。

2019年5月13日 (月)

社会の変化と郷土愛

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誰の助けもいらぬと言う社会は、社会としての本質的機能、相互互助の精神を失ってしまい、社会など不必要なのです。人と人との関わり合いの中で、社会は形成され、また必要とされます。人と人との関わりそのものを否定し、喪失したら、社会なんて無意味なものになります。

今、本当に何が自分達に必要なのか・・・何によって立つべきなのか・・・昔の人たちは、もっと単純明快に理解していました。助け合って生きてきたのです。大事なことは、単純明快さです。今の時代は、複雑怪奇になりすぎて、自分達がよって立つ、基盤すら見失いつつあります。
 
中央集権化されすぎたために、自分達にとって大切な意思決定が自分達からかけ離れたところで行われるようになってしまったのです。政治や経済というのは本来、自分達の身近な生活の延長線上で捉えるべき事柄なのです。

子供たちの教育も生活に必要な事も、根本は、自分達の郷土をどの様な社会にするのかと言う構想です。だからこそ、環境も大切にすることができるのです。

大切なのは郷土愛です。その上にたって、その土地に生きていく人達、地元で決めていくべき事なのです。つまり、日常生活の一環なのです。それがなければいかに土地が荒廃しても開発を優先するでしょう。経済は栄えても、土地は荒廃していく・・・

ほんの少し前の時代では、私たちの生活は、もっとシンプル、単純で素朴でした。生活に必要な物を自分達の手で作り、助け合って暮らしてきました。現代社会は、そのころの生活に比べて複雑です。私たちの子供の頃と比べても格段に違います。

単純な社会でも生活はできたのです。テレビがなくても、携帯電話がなくても、飛行機や自動車がなくても、石油や電気がなくても、それなりの生活はできたのです。ところが、現代社会では、それらが不足すると生活が成り立たなくなっています。それを進歩というのだろうか。

2019年5月12日 (日)

向こう三軒両隣り精神

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最近、お隣に引越しされたが、挨拶に来ない人が多くなったきたと言われています。最近、私の隣に引越しされてきた人がいますが、挨拶に来ません。

日本には古くから『向こう三軒両隣』ということわざがあるように、向かい三軒と両隣の家に挨拶するのが常識だと考えられていました。

そして、その風習は、昔から現在まで受け継がれています。しかし最近では、戸建て引越しでも挨拶をしない方々が増えつつあるようです

「近助・互助・共助」「自守防災」
安全・あんしん街づくり(コミュニティ)のキーワードは、近助・互助・共助と自守防災です。

自主防災」というのは自主的な防災ではなく、自らの地域を自らが守る「自守防災」(セルフディフェンス)だと思います。想定される大規模な地震、水害などの大災害発生直後は、防災関係機関(消防、警察)の対応能力をはるかに超える被害が予想されます。

その時に住民と地域を守ることができる「自主防災組織」の活動が必要不可欠です。初期消火、安否確認、救出救護、災害時要援護者避難支援、避難所運営、被災情報の伝達、ボランティア受け入れなど、住民全員参加で役割分担して対応する必要があります。

「困ったときにはお互い様」
災害・犯罪などは何時来るかわかりません。地域社会で、安心して暮していくには、「助け合いの精神」が大事になってきます。そして「困った時はお互い様です。


 

2019年5月11日 (土)

自然と共生社会を考える

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私たちが、この地球という大宇宙の星、地球に生まれ、生存できることは、多くの生物との共生の係わり合いがあったからこそいき続けれていられるのです。人間だけが一人よがりにいき続けることはできません。

今年の5月5日、フランス北東部メッスで、2日間の日程で生物多様性の保全や海のプラスチックごみなどに関する対策について協議しました。

今年のG7議長国フランスは「不平等との闘い」をG7会合の中心課題に設定した。気候変動や生物多様性の損失で深刻な被害を受けるのは発展途上国で、不平等を一層悪化させると指摘・・・問題をクローズアプしました。

また、昨日の読売新聞で、「プラスチックごみの輸出停止へ」の記事を見て、驚いてしまったのですが、私たちの暮らしや、環境に対する考えを日本人ひとり一人が真剣に取り組まなければ・・・考えを新たにしました。

持続可能な社会を

私たちの住む、この地球。私たち以外にもたくさんの生き物が存在しています。 ですが人間の身勝手な行動により、地球の環境問題が後をたちません。 地球温暖化や、酸性雨、これも全て森林伐採や空気汚染など人間たちのもたらした環境破壊なのです。

自分たち以外にも生き物は生きている、自然を大切にしなければならないという事を頭にいれ、今一度自分の行動を見つめ直してみるべきです。

自然環境と共生・・・私たちがやるべきこと

環境破壊しないために私たちが出来る事は何だろうか。 例をだすと、ゴミに関してはリサイクルや再生をしてまた使うという事ができます。

他にもゴミを少なくするために買い物へ行くときはビニール袋をもらわないために、自分で鞄をもっていくとか 割り箸のゴミを出さないために専用の箸や水筒を使用するなどいろいろな工夫が出来るかと思います。

また自動車は排気ガスをだし、空気をよごすのでそこまで遠くない場所なら自転車でいくなども環境破壊しない事への第一歩です。そしてゴミ、タバコの吸い殻のポイ捨ては絶対に止めるべきです。

2019年5月10日 (金)

「おかげさま」と「ありがとう」

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「おかげさま」・・・人や物から受けた「助けや力添え」を意味で、感謝を伝える時に使います。
「ありがとう」・・・自分以外の対象に対して感謝やお礼の意思を伝える言葉です。
私たちは「生きている」と同時に、「生かされている」のだということがわかると、自然に対して、また人や物に対してやさしさが生まれてくるはずです。そのやさしい心を表す言葉、それが「ありがとう」と「おかげさま」です。

私たちは、多くの人たちの支えと、自然の恵みによって生かされています。豊かな現代社会に暮らしていると、当たり前の有り難さをついつい忘れがちですが、この世はまさに持ちつ持たれつの「おかげさま」の世界です。

「当たり前は、お陰様に支えられている」
私たちが過ごす“当たり前の日常”は、実は当たり前ではありません。誰かのお陰様に支えられています。 目に見えない“お陰様”に気づいた人だけが、当たり前に感謝できるのです。

「感謝を忘れる時」

「ありがたいな」と思えなくなったとき、人は感謝を忘れています。ありがたいと思えなくなるのは、それが“当たり前”になったときです。 
料理を作ってもらうのも、安全な食や生活があるのも当たり前・・・当たり前と思ったときから、感謝を忘れていきます。当たり前ではなかったことを思い出すことです。

「人に迷惑をかけずに生きる」は傲慢

「一人でも生きていける」と言うのは傲慢です。自分がどれだけ多くの人に助けられているかを自覚していない人が言う言葉です。また「人に迷惑をかけずに生きる」も同義語です。 
人に迷惑をかけずに生きることは不可能です。人は一人で生きていくことも、迷惑をかけずに生きていくこともできません。 人は、迷惑をかけ合い、支え合いながら生きているのです。

「今ある幸せに気づくこと」

「○○があれば幸せになれる」と言う人は、それを手に入れても、幸せにはなりません。もっと何かを欲するようになります。 「今のままで充分幸せ」と言う人は、何を得ても幸せになります。
今あるものでいかに幸せを感じられるか・・・気づけるか・・・その感性がなければ、いくら足しても増やしても、幸せにはなれないのです。

2019年5月 9日 (木)

生かされている

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 「私たち人間は生きているのではなく、生かされている」のです。

わずか七十六年前、戦争という悲しい事実が、敗戦という形で終わりをつげました。日本人は、自分の想いや意志に関わらずそこに巻き込まれていったのです。

日本では少し前までは、「水と安全はただ」と言われてきたのです。しかし、この二つが今の日本でもそうだと言える人がどれだけいるでしょうか・・・

人間は与えれた環境に馴染むという素晴らしい能力をもっています。しかし同時に、環境に慣れ親しむと、その有り難さや意味を忘れるようにできているのも人間の常のようです。

自分にとって当たり前であった安全や平和というものは、実は当たり前のことではありません。あくまでも今の一瞬だけが、守られており、生かされているだけなのです。

そして大切な事は、自分が自分を守っているのではなく、周りの人々、ひいては国家というものに守られていいるのです。「人は自分だけで生きているのではない。」という事です。

「人は生かされている」・・・私は82歳になって、その意味を強く感じています。

2019年5月 8日 (水)

本当の幸せとは・・・

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人はみな幸せを求めて生きています。政治や経済、科学や医学、法律や倫理道徳、芸術やスポーツなど、ありとあらゆる人類の営みは、幸福の追求です。

私たちが求めている幸福は、『相対の幸福』と言われるものです。しかし本当の幸せとはなんだろう?と考えたとき、なかなか本当の「幸せとは」なかなか分からないものです。

仏教に『歎異抄』(たんにしょう)(鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書)に『摂取不捨の利益(りやく)』があります。『摂取不捨の利益』とは、現代の言葉で言い換えれば『絶対の幸福』です。
 
『摂取不捨の利益』

『利益』とは、安心、満足、喜びという意味。『摂取』とは、ガチッとおさめとられてかわらないということ。『不捨』とは、見捨てられることがない、色あせることがない、薄れることもない、絶対に崩れない。

たとえ時間がどれだけたっても、たとえ他の幸福がみんな色あせても、絶対に崩れない、永遠に変わらない幸福がある。いよいよここで死んでいかねばならないとなっても、我が人生に悔いなし、人間に生まれてきて本当によかったと心の底から安心満足のできる幸福がある。

今まで苦しいことや悲しいことも、乗り越えて頑張ってきてよかったこの身になるための人生だったのか。世界一の幸福者になりました。自分ほど幸せものはありません。

この世に生んでくれてお父さんお母さんありがとう。焼けることも流されることもない、失せることも消えることもない、いつも満ち足りている、絶対に崩れない幸福だからこれを絶対の幸福ともいわれます。
 
生きる意味、人生の目的は、ニセの幸福ではなくて、本当の幸福になること。ほとんどの人が、ニセと本物の区別ができずにいるのは、この本当の幸福を知らないからです。
 
その摂取不捨の利益とはどんなものか、どうしたらなれるのか、教えられているのです。

2019年5月 7日 (火)

高齢化と地域社会

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道了堂参道

少子高齢化は、身に迫る思いを痛感します。何処かの問題ではありません。私の住む町(八王子市片倉町)でも実感します。

私の住む地域は昭和40年代からす住み続けている人が多いのです。その頃は子供たちが多かったのですが現在は子供たたちは、独立して他で生計を立てています。そして、50歳近くになっても結婚しない(出来ない)人が多いのです。

ごく近所でも、老夫婦の生活から、やがては一人暮らしに、そして空家になっていくことは間違いなそうです。

昔で言う、「三世代家族」・「家を継ぐ」ということが考えられないのです。親と一緒に暮らすということで二世帯住宅にリホーム・建て直し子供夫婦と同居しても、人間関係で旨くいかない?問題が起き悩む・・・

一人になった親の面倒を見なければと家に残っていても結婚したいが、来る嫁さんはいないということで、年取った親と息子と二人暮らしをせざるを得ないお宅が多くなったようです。

そして町内会や隣組などのコミニケーションの希薄化が心配されます。一人暮らしで急病など連絡もできないで、孤独死などの心配も出てきています。また、首都直下型地震や南海トラフなどの地震などと、防犯などの対応が懸念されます。

地域ではマンションやアパートの住民が多くなっています。その人たち現役世代は地域に対する考えや対応も問題になっていると思います。町内会の取り組みに積極的で、ないのです。

地域の住民たちも街や隣人たちと、どうつながり支え合うのか、模索が求められていると思います。地域で危機感を共有し、対策の中身や優先順位を決めて取り組むしかないと思います。

2019年5月 6日 (月)

片倉城跡公園の池に蛙の鳴き声

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最近、片倉城址公園の池から、カエルの鳴き声を聞くようになりました。

開発が進み、環境変化・水の汚れ・カエルの天敵のヘビ、カエルを食べる、水鳥の川鵜のいるせいなのか?片倉城址公園や湯殿川で、一時全く姿を見ることがなかったのです。

カエルには、沢山の種類がおりますが、私の子供のころに見たカエルは、トノサマカエル・アカカエル・ヒキガエル・アマガエルなどで、昨夜、聞いたカエルの鳴き声の種類は,分かりませんが、懐かしい、故郷が戻ったようで、嬉しい気分になりました。

城跡公園は雑木林があり、清水が湧き出て、いくつもの池があり、昆虫や、植物が育つ環境を市の公園課などで、手入れがされていることと、住民の環境に対する意識が高まったことからだと思います。

私は、故郷をなんとか取り戻そうと、毎日、ゴミを拾って環境保存に気をつけています。昔いた昆虫や魚・カエルなどが棲める、ふるさとを取戻すことが夢です。

「自然の豊かさで、人は豊かな心になれる」と信じます。環境を守って行くことはとても大事なことだと思います。雨が降りそうな空模様になったら、アマガエルが鳴き出すーーー夜になると湯殿川に、カジカカエルが美しい声で鳴き出すーーーそうして、ホタルが飛び交い、小川にフナやドジョウが・・・蝉が鳴き・カブトムシが棲める自然を取り戻したい。

生物多様性の保全

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今日(5/5)のNHK23時のラジオにユースから

G7=主要7か国の環境相会合がフランスで始まりました。会合では、危機的な状況に置かれている生物多様性の保護に向けて取り組みの強化を誓う新たな憲章を取りまとめる見通しで、G7としてどこまで力強いメッセージを打ち出せるかが焦点です。

今回の会合は、さまざまな生物が絶滅の危機にひんしているとして生物多様性の保護が主要議題となっていて、開会にあたって議長国フランスのドルジ環境相は「生物多様性への深刻な負荷に対する解決策を見つけよう」と訴えました。

自然との共生社会

私は、いま私たちが生きていられるのは、自然の恵みで生きていられるのです。その事をひとり一人が考え、個人がしなければならないこと、守らないことは何か真剣に考えるべきと思います。

空気、大地、川、海、そしてそこに生きる動植物など、すべての自然環境は地球という星のなかでつながっていて、どこかの環境に問題が起これば、必ず他の環境に影響がおよびます。

ですから自然共生社会は、地球にくらすひとり一人が、身近な自然環境を大切にしないと実現できません。自然を大切にする。その約束を守ることができれば、地球は豊かな恵みをあたえつづけてくれるのです。

地球の緑のような自然は、お互いが助け合っているという理想的な関係が出来上がっています。秋になり木から落ちた葉っぱは、土にとっての肥料となります。

肥料によって肥えた土の中からは、微生物が生きることができ、土の中を掃除します。きれいに掃除された土からは、また木が成長し、秋になると葉を落とすという繰り返しになります。

自然には、まったく無駄がありません。それでいて、お互いが助け合っている関係「共存共栄の関係」になっています。これに見習うことで、人間関係向上の糸口がつかめてきます。もともと人間も、自然から生まれた産物です。

自然を手本にして人間関係を考えていくと、どのような関係が理想なのかが、おのずから見えてきます。相手のためになるような何かをしてあげることが大切です。

2019年5月 5日 (日)

年寄りの不安

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年寄りの不安

家族の在り方が変化してきた今、「金・健康・孤独」3Kという不安です。核家族化と高齢化の問題も見過ごしてはならない課題の一つであると思います。

一人で孤独を抱え、一人で最後のときを迎えるようなことは決してあってはいけない、そのためにも家族の在り方をもう一度見直すとともに、社会全体でお年寄りのみなさんを見守り、支えるシステム(体制作り)が求められるのではないでしょうか。

年寄りの皆さんが不安を抱えることなく、穏やかに過ごすことのできる社会づくりに貢献していきたいと改めて考えさせられる問題と思います。

忙しないスピードで流れる時代です。私たちは心の余裕が持てなくなっています。

○ 余白もつくらずに詰め込んでしまうから些細なことでイライラする。
○ 必要以上に増やすから他人に優しくする余裕が持てないでいる。

だからこそ意識的にゆとりを持つことです。そのために必要のないものはを手放すことです。余裕がないならつくればいいのです。

「心の安らぎ」

『ブッタの言葉』(アルボムッレ・スマナサーラ)より~

人間はいつまでたっても理解しようとしていないのですが、幸せの本当の意味は、心の安らぎです。心の安らぎとは何かといえば、心に悩み苦しみがなく、嫉妬、怒り、憎しみなどがで心がやんでいない状態です。

モノがあろうとなかろうと、心が病んでいれば、そこに幸せはありません。モががなくても、心が病んでいなければ、幸せになることはできます。








2019年5月 4日 (土)

無心

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無心とは、 無生物や植物のように、心をもたないことです。(Weblio辞書

木々の緑が鮮やかな五月は生命が躍動する時節です。花が咲き、蝶や、蜂たちが飛び回り花から花へと蜜を求めて飛び交っています。

良寛さんの言葉に「花は無心にして蝶を招き 蝶は無心にして花を尋ぬ、花開く時、蝶来り 蝶来る時 花開く」があります。

虫媒花の植物は、昆虫によって花粉が運ばれ実を結びます。

花と蝶の関係は損得感情などまったくないのです。花には蝶を招く心はなさそうです、蝶にも花を尋ねようとする心が働いているようにもみえません。

花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。しかし自然に出合う、即ちめぐりあうわけです。

私たちの人生もめぐりあいの連続です。親にめぐりあい、兄弟姉妹にも、友人にも、夫にも、妻にも、子供にも、また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。

誰れもがこの世に必要だから生まれてきたのです、そしてお互いを必要とするから生きていけるのです。

しかし最近は、人と人との絆が弱くなったようです。現代人はプライド、プライバシーの権利、プライベートな問題などと、ことさらに自己主張するけれど、自分が生きるためには他が必要です。

他というのは一つや二つでなく、さまざまというべきか、すべてというべきか、人のみならず、万物の存在に支えられて自己が成りたっています。

「私は他の人を知らない、他の人も私を知らない、知らずとも自然の大道に従って生きて行く」良寛さんの言葉です。

自分ひとり町ではない

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毎日ボランティアで、私の近くの湯殿川河川管理通路のゴミ拾いをしているが、今年の大型連休中は、タバコの吸い殻のポイ捨てが少ない。

連休中は、サラリーマン・学生など通行人が減って、ゴミの量が比例して少ない・・・

「ゴミのポイ捨てはしない」「我が町を環境から守ろう」と、八王子市・保健所・国土交通省などに相談し、「ゴミ捨て禁止」「犬の糞は飼い主の責任」などのポスターを設置してきたが、一向に減っていない。

「マナーから、ルールへ。厳しいのは条例ではなく、モラルをなくした現実。」

確かに、いろいろなところで「環境の保護」・「マナーの尊守」の活動が見られるが、日本人の感覚がこれまでか・・・と思うことがある。

年々喫煙者の肩身は狭くなっていることは間違いない。家では家族で禁煙区域に指定・・・これでは、タバコを吸う場所がない。すっかり締め出されてしまった。

煙草は健康を害する。またその煙を周りの人にまで吸わせる事は良くない、そのぐらいの理屈は中年にも解る。家・駅構内の禁煙、禁煙の飲食店の増加、ポイ捨て禁止等々、不承不承従ってきたのは分かる。

また、たび重なる値上げ、足りない税収はとりあえず喫煙者からふんだくっといてやれ的な、安易で不当な値上げにもじっと耐えてきたのも分かる。

だが、「厳しいのは条例ではなく、モラルをなくした現実です。」 その通りであると思う。悪癖をやめられないのは・・・モラルの目にあまる悪化のためやむなく取り締まりとなったのだ。

自分の家の庭に、またベランダで吸って、「ポイ」と捨てますか?自分たちが住む町なのだから自分たちで、ポイ捨てで町を汚さないこと分かって欲しいものである。自分ひとりの町ではないのだから・・・平常出勤に戻って、タバコのポイ捨てが・・・

2019年5月 3日 (金)

80歳代からの生き甲斐

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【80歳代からの生き甲斐】

80歳代になると、小学校の同級生でも、生活環境・健康状態・価値観なども違いが、若い時と違いが大きく変わってきていることを実感してます。(最近小学校の同窓会などでの話でも・・・

そして、体力・気力・精神力・記憶力は落ちてきていることは実感しています。それでも「生き甲斐」を持って生きることが大事と思っています。

「生き甲斐」は人それぞれですが、私は「私が住む町に少しでもお役に立ちたい」と言うことで、町の美化活動を微力ながら行なっています。私が、「今できる奉仕活動」をすることだと思っています。

私たちが人のため、町のために、あるいは自分のためでもいいですけれど、何かをすることは、自分の能力を発揮していることでもあります。

人のために能力を発揮すると、人は「ありがとう」と言ってくれる・・・「ありがとう」と言ってもらうと自分も元気になる。。。

それが自分の生きがいで、元気になるとまた、もっと能力を発揮しようと頑張る・・・生きがいはこのように、「自己の能力発揮」─「他者の評価」─「自己肯定=生きがい」という三つの要素で循環していく構造を持っていると思います。

2019年5月 2日 (木)

高齢者・・・家を出て歩く効果

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歩いて・・・買い物に行く・・・人に出会う・・・挨拶をする

最近はネットで買い物をして、家まで届けてくれるサービスも充実してきました。近くにコンビニエンスストアや行きつけのスーパーがあれば、ほとんど外出することなく過ごすことができます。
また昔から付き合いのある方も年々減っていくので、続けていた趣味や会合も減ってしまい外出の機会が失われてしまっている方もいるのが現状です。
ですが、高齢者にとって外出は良い効果をもたらすことに間違いありません。

外出で期待される効果

外出せずに自宅で生活するようになると、極端に他人と話す機会が減ります。また歩く距離や視覚や嗅覚・聴覚に与えられる刺激も極端に減少するので能力の低下を招きます。
その1つが脳機能です。誰でも使わない筋力が低下するように脳機能も使わなければ低下していきます。外出すると当然歩く距離は増えますので下肢筋力の維持に効果があります。
季節ごとの花や木々を見たり、近所の人とあいさつを交わしたりすることで脳に数多くの刺激を受けることができるのです。
普段何気ない景色でもちょっとした変化に気づくことで、大きな気分転換になります。
そうした刺激を受けることで、日々の生活も活気あるものへと変わっていくでしょう。

2019年5月 1日 (水)

クリアに生きる

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平成から令和の時代になりました。

時代の流れに流されることなく、生きることが大事です。「ヨーシ」令和になって、今日から頑張るぞ!と気合を入れる人もいるでしょう。

「流れに乗る」と「流される」とは、「流れに乗る」も「流される」も似たような言葉のイメージですが、「流れに乗る」は「自分の夢や希望に向かって自然と背中を押されるような感じ」ですし、「流される」は「自分の意志や希望とは関係なく、周囲の人々の思惑が渦巻く方へと押し流れてしまう感じ」だと思います。

つまり、「自分の心の主軸」がしっかりあるか否かで、「流れに乗る」ことができたり、「流されて」しまったりするのです。今を私たちが生きている世の中には、様々な方向から「ピンチ」や「チャンス」が流れていて、また、更に、清濁混合のいろいろな「流れ」も滔々と流れています。

ここで「自分の希望に沿った良い流れに乗るのる」のか、「希望に反して、濁った流れに巻き込まれる」のか、ここは、やはり、その人自身の心の「主軸」があるかどうかで、決まるように思います。

つまり、自分をクリアに知っているか・・・ということです。

自分の「良い部分」も「悪い部分」も、「長所」も「短所」も、すべてをバランスよく客観的に正しく受け止めていて、正直に「良きも悪きも、すべては私」と認めて、受け入れる。

その上で「私はどう生きていきたいのか」をしっかり持っている。また古いエネルギーを溜め込まこまず一日をできる限りクリアな状態で終わらす。それが「クリアに生きている」ことだと思います。

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