花は語らず
「花語らず」 京都南禅寺の柴山全慶老師
(2010年1月27日にのブログより)
「花はだまって咲き、だまって散って行く。そして再び枝に帰らない。けれどもその一時一処にこの世の全てを託している。一輪の花の声であり、一枝の花の真である。永遠に滅びぬ生命の喜びが悔いなくそこに輝いている。」
何かと慌しい現代社会。忙しい日常生活にとかく埋没しがちの中で、とかく埃に紛れ、我を忘れてしまいがちな、自分に頭から水を浴びせ、身を洗ってくれるような、自分自身の生き方に対して方向を指し示してくれる光明のように感じる。
花は大輪の牡丹であろうが野辺に咲くスミレ・タンポポであろうが、皆そこで陽光を浴びて悔いなくそして「それぞれが誇り高くそこに美しく輝いている姿」は、他人との差別と比較ばかりを意識して常にあくせくし、ぐちって悔いばかりしている人間の愚かしさ、光を忘れ、闇に迷っている自分自身のみじめな、何とちっぽけな存在であるかをあらためて思い知らされる。
大輪の牡丹であれ、スミレ・タンポポであれ、陽光に向かう尊さには寸部の差別や違いは無いという信念を持たねばならない。差別をつけたがるのは己の心の狭さそのもからくる無明(俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知)であるのではなかろうか・・・。
人間というのはとかく弱いもので、時に自分を見失いがちになることが多い。本当の「幸せ」を心から感じることが、できる人生をもう一度考えて見たい。
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