« 2019年3月 | トップページ | 2019年5月 »
「花語らず」 京都南禅寺の柴山全慶老師
(2010年1月27日にのブログより)
「花はだまって咲き、だまって散って行く。そして再び枝に帰らない。けれどもその一時一処にこの世の全てを託している。一輪の花の声であり、一枝の花の真である。永遠に滅びぬ生命の喜びが悔いなくそこに輝いている。」
何かと慌しい現代社会。忙しい日常生活にとかく埋没しがちの中で、とかく埃に紛れ、我を忘れてしまいがちな、自分に頭から水を浴びせ、身を洗ってくれるような、自分自身の生き方に対して方向を指し示してくれる光明のように感じる。
花は大輪の牡丹であろうが野辺に咲くスミレ・タンポポであろうが、皆そこで陽光を浴びて悔いなくそして「それぞれが誇り高くそこに美しく輝いている姿」は、他人との差別と比較ばかりを意識して常にあくせくし、ぐちって悔いばかりしている人間の愚かしさ、光を忘れ、闇に迷っている自分自身のみじめな、何とちっぽけな存在であるかをあらためて思い知らされる。
大輪の牡丹であれ、スミレ・タンポポであれ、陽光に向かう尊さには寸部の差別や違いは無いという信念を持たねばならない。差別をつけたがるのは己の心の狭さそのもからくる無明(俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知)であるのではなかろうか・・・。
人間というのはとかく弱いもので、時に自分を見失いがちになることが多い。本当の「幸せ」を心から感じることが、できる人生をもう一度考えて見たい。
私は、この町は生まれ育ちました。私は今住んでいる町が好きです。年金生活になって22年、健康のために散歩が日課となり、ゴミが気になるようになりました。
普段ではありえない場所に大量にたばこの吸殻が捨てられていたり、自動販売機横のごみ箱から空き缶が溢れていたりして、自分が住んでいる町にこんなにごみがあるのか!と驚くこともあります。
私は長年この町に住んで思うことは、「この町の山・川に育てられた思いがあり、この町が大好き」この思いは次世代に引きついて貰いたいから「美しい町を維持しなければ・・・」の強い気持ちから、毎日ごみ拾いをしています。
そして、一人でも二人でも、私の想いを理解して欲しいと思っています。美しい町づくりは、誰かがやるからではないのです。
町をきれいにするには、一人ひとりの心がけです。「ゴミは捨てない・捨ててあったら拾う」ことです。
【故郷】
私は、東京八王子で生まれ。東京八王子で育ち80年を越えました。ふるさとの環境は大きく変わりました。
私の想いは、歴史と人の営みを支えてきてくれた、自然(山や川)を未来に繋げることが、現代を生きる私たちの使命であると思うのです。
ふるさとは、心安らぐ場所であり、回帰する場所でもあり、懐かしい場所でもあります。また自分にとって原点となる場所です。自己を形成した場所です。
郷土、それは、自分が生まれ育った場所と今現に住んでいる場所、自分の生活の基盤がある場所です。
郷土愛というのは、最も生々しい感情です。それは、親子兄弟、夫婦間の存在するような利害と直接結びついた感情です。だからこそ大切なのです。
私たちの生活や生き様に密着した土地、それが郷土です。そこで生まれ育った者も、また、他の土地から移り住んできた者も、その土地で生活していくためには、自然と共生を理解し将来に繋げることが大切です。
厚生労働省が毎年発表している健康寿命。
○ 男性約72歳
○ 女性約75歳
平均寿命との差はそれぞれ約9歳、約12歳となっています。
健康寿命を延ばすには・・・生活習慣をチエックしよう。
① テクテク歩こう!
ウォーキングやハイキング、サイクリングなど適度な強度の運動を定期的に行うことです。
② カミカミしよう!
栄養バランスの取れた食事を、よく噛んで腹八分目にすることです。
③ ニコニコしよう!
人は頭と体と心の三つでできており、互いに強く影響しあっています。
心の治癒力をアップするには、日常生活をニコニコと過ごすのが基本です。
④ ドキドキワクワクしよう!
創造や感動、ユーモア、忍耐といった人間の英知をつかさどり、右脳と左脳のコントロールタワーでもある前頭葉のバランスが崩れると認知症につながります。
前頭葉を刺激するには、「ワクワク・ドキドキ」感を持つことが大切です。
「人生に迷ったら初心に戻る」
年を重ねていくと、いろいろなものが増えてきます。時間とともに積み重なって、たくさんのものが絡みついてきて、生き方に重さを感じてきます。
本当は何がしたかったのか?そうやって人生に迷うことは誰にだってあると思います。
「そんな時は初心にかえる」・・・一度立ち止まって、自分自身と向き合ってみることです。迷ったら初心に帰ることです。
年とともに固まった常識「こういうものだ」という固定観念がつくりあがっています。大人になるにつれ見失い、忘れてしまった大切な何か?先入観、世間体や虚栄心。私たちは不要なものまでたくさん抱え込んでしまっています。
必要以上にため込んで悩み、いつのまにか身動きがとれなくなってしまう。重荷を背負ったままでは進まない。縛りつけて自分自身を制限してしまいます。自ら世の中を複雑にしてしまうのです。
余計なもので溢れているから、本当に大切なものが見えなくなるのです。
要らないものは捨ててしまえばいいのです。初心に帰って、本当は何が欲しかったのかを思い出してみることです。
「自然から学ぶ」
ずっと昔から、ただ当たり前に存在する自然にこそ、私たちの生きるヒントが隠されています。
急速に変化する時代です。そんな慌ただしい「今」だからこそ、自然から学ぶ生き方を実践してみることです。
「身近な自然と触れ合うことの大切さ」
特別に遠出しないと出会えないような自然ではなくて、近所の公園とか、散歩道とか、庭先とか、あくまでも自分の生活圏内の自分と生活をともにしている自然と触れ合うことです。
世の中に生きているのは人間だけではありません。自然と上手に付き合える こと・・・それは人間関係を含むあらゆる社会との係わり合いの基本となるのではないでしょうか。
「自然と共存 」
素直に自然と向かい合って、 人間も生き物の一種で、自然と共存していて、自然から人間をみる視点がなければ 人も生き伸びることはできません。
現在、地球の環境はかつてないスピードで変化しています。これが好転しているのなら喜ばしいのですが、残念ながら悪化の一途をたどっています。
環境をよくするために、私たち一人ひとりが、行動しなければなりません。でも…確かに、何から始めればよいのか、わからないかもしれません。
しかし、私たちにもできること、しかも、今日からできることが、たくさんあるのです。良い環境を取り戻すには、多くの時間とお金がかかります。
● モラル・マナーを守ること
歩きタバコはしない。そしてたかが一本ぐらいと絶対に捨てないこと。飲み物の空き缶・ペットボトルなどを公園・通路などに絶対すてないことです。
● 詰め替え商品を買う ● 不要なレジ袋や過剰包装は断る
ゴミ削減の第一歩です。
地球の環境悪化は、私たち人間でなければ止められません。未来の自分たちのために、今日から行動してみませんか?
故郷を遠く離れて生活する人も、大都会に出てきた人でも、なにかのはずみに、故郷に思いをはせることがあるでしょう。そんな時、むしょうに帰りたくなる、このもどかしさ、じれったさ、これが故郷の心です。
どんな人でも故郷を思慕する心をもたない人はいません。この故郷に憧れる心こそ、人の心の底から湧き出てくる清らかな泉のようなものです。人の心の底にある故郷の心は、人間本来のやさしさの心です
グローバル化した現代では、世界中の人の交流があり、日本でもあらゆる国の人々が、観光だけでなく、住み続ける時代となってきています。
どの人、どの民族にも、それぞれにかけがえのない故郷がある、他民族に踏みにじられたくない故郷がある、人々の心の底にあるもの、それが故郷の心です。
お互い人間だから、故郷の心、やさしさの心には、人類共通の相通じるものがあり、民族や宗教のちがいを超えて共感できるはずです。
私たちには、常に、たくさんの道があり、今まで歩いてきた道程から、3つにも4つにも分かれているけど・・・自分は、1人しかありません。
選べる道は、たった1つだけ?なのかと思い悩まされます。そして進んだ後の結果はわからない。喜びも悲しみも理解できてしまうこの心に、深い不安を覚えたりすることもあります。
自分の生き方は間違っているだろうか?悩みは、尽きなくなってしまいます。そんな時には、高村光太郎の「道程」の一節を思い出します。
「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる。」
どこかにたどり着くために、成功するために、誰かがある道を近道だと言っても、多くの成功者が通っていった道があると言っても、誰かが歩いた道などなぞらえることはできない?
それどころか、私たちは、どこかのゴールに立つために生きるのでさえないはずだと!そこへたどりつくまでの道を、自分にしかないやり方で、自分にしかないルートで形作っていくこと!
それが人生であり、自分そのものではないかと?自分が歩いて行くのは、誰も通ったことのない、1本目の道。
だから、誰にも否定できないし、だから、誰にも奪えない大切な道です。
人は、いくつ歳を重ねても、いつでも「幸せ」になりたいと願っています。その幸せの感じ方は、人それぞれ異なるとは思いますが、多くは自分の願いが満たされた時ではないでしょうか。
しかし、人間の願いにはキリがありません。ひとつの願いが満たされても、また新しい願いが生まれます。その願いの中心には、「自分が愛おしい」という「自我」があります。
すると、いつのまにか「損か得か」「役に立つか立たないか」「健康か病気か」というような物差しが中心となってきます。
また、私たちには、「病気は不幸だ」とか、「死は不幸だ」という価値観があります。
具体的な言葉にすれば、「周りに迷惑をかけたくない」「これでは生きている意味がない」「歳をとって何もいいことがない」ということになるのでしょうか。
まさに自分は「廃品」であると表明しているかのようです。したがって、自然と「健康でありたい」「元気でいたい」というのが私たちの願いになっていきます。
それは裏をかえせば、「老・病・死は不幸である」という人生観に帰着します。老・病・死が不幸というのなら、私たちの人生は、不幸の完成で終わることになってしまいます。私たちは知らず知らずのうちに、人生に二つの坂をつくっています。
「上り坂・下り坂」
若くて元気なときは上り坂で、下り坂には死が待ち受けている。これでは「不幸の完成」です。
確かに肉体的な衰えからは逃れることはできませんが、人生は下り坂ではなく、上り坂のみです。
「別れ」を奈落の底にではなく、坂の上に置き換えることが大切と思います。
まさしくそれは「死」(不幸)ではなく、「往生」(往きて生まれる・幸福の完成)するいのちであり、いのちが解放され、輝くいのちに作りかえられていくことなのです。
私は生まれも、育ちも同じ、八王子市片倉町に、八十数年暮らしている、いわゆる土着者です。
戦争と終戦で激しい時代を経てきて、片倉町の景観が、大きく変わりました。私たちの年代の人が暮らしの中の一部としていた、湯殿川も大きく変わりました。四~五十年前の湯殿川は、蛇行し、川幅は狭かったり、広かったり、浅かったり、深かったりで、変化に富んでいました。
そこに暮らしている私たちは、湯殿川は、生活の基盤でもあったのです。田に水を引く・水車を回す・洗濯をする・野菜を洗う・魚を獲るなど、今では考えられないことで、生活が成り立っていたのです。
一方危険もいっぱいありました。カクシを踏む(篠の切り株で足の裏を突き刺す)・虫に刺される・蜂に刺される・蛇に咬まれる(シマヘビ・マムシ・ジモグリ)・漆にかせる(川の淵に漆の木がたくさんあり、素手で触ると、肌にブツブツが出来る)・川の深みで泳ぎ溺れるなど・・・
夏は一日三回ぐらい泳ぎ、学校帰りにはフルチンで泳ぎました。晒しの褌があればまだまし、手ぬぐいを腰に巻きつけただけで、味噌漉しザルで鮒っ子、ドジョウを掬い(田んぼのみの口あたりでよく獲れた)身体が冷えると、田んぼの稲の中へ入り、身体中泥を塗り寝そべって遊びました。
湯殿川の魚の種類も多かったです。ハヤ・コイ・フナ・ウナギ・ナマズ・ギバチ・ドジョウ・八目ウナギ・カジカ・オババ・砂モグリ・エビ・タニシ・シジミ・イモリ・カニ・などが獲れました。
獲り方は他に、釣り、あんま釣り、投げ込み(雨などで水が増え濁った時ミミズを餌に投げ込んで置く)下げ針(前の日の夕方ミミズとかドジョウを餌にウナギ釣り針に付けて、いそうな川の淵に仕掛けて翌日の朝に引き上げる)投げ網、網、穴つり(ウナギの穴に針のついた棒を差し込みつき刺す)かいぼり(川のある部分をせき止める)モリ・ざる・手掴み・どう(竹で筒状に編んで一旦入ったら出られない)などの方法があったのです。
私たちは、そんな環境で育ったのです。いま五十歳代~七十歳代の方達は、湯殿川を、どんな思いで見ているでしょうか・・・
田んぼは無くなり、湯殿川は整備され・コンクリート化され、河川管理通路を市民は便利に利用しています。現在も湯殿川は、むかしと同じに、西から東に流れています。コイなどと、小さな魚がいますが、獲っても食べられません。
昨今はゴミ、タバコの吸い殻を捨てる心ない人が後を絶ちません。大きなもの(財産)を失いかけているようです。将来のことを考えますと、もうこれ以上自然破壊をさせることはできません。
住民一人ひとりの心がけで、魚も昆虫もカエル・ホタルも呼び戻せるのです。是非ご理解と協力をお願いしたいと思います。
見返りを求めない人は、自分が今まで生きてきた中で、たくさんの人から親切にしてもらったことに対して、恩を感じ、ありがたいことと、思っています。
私が今日あること、地域の仲間、家族といった周囲の多くの人々の支援があるからです。決して自分たちだけでここまで来られたわけではありません。
「周りの人のおかげで今日の自分があるのだ」という気持ちで、感謝しなければなりません。
感謝の対極にあるものが不平不満、愚痴です。それらは、必ず人生を暗くし、不幸にします。
感謝をすることで、人生はすばらしいものになっていきます。それは、感謝の気持ちを持つことで、自分の心が美しくなっていき、運命そのものが明るくひらかれていくからです。感謝をする心が、幸運を呼び込むと思います。
【思いやりの心を持つ】
「思いやり」というのは、見返りを期待しながらするものではありません。「思いやり」というのは、無償で相手に何かをしてあげることです。
思いやりの心を持つことは、感謝の気持ちを持つことに意義があります。もし、思いやりのない毎日を過ごしてしまったら、人からの思いやりにも気づけません。
わざわざ自分を気にかけてしてくれた行動なのに「ありがとう」が言えないどころか、時には相手を傷つける発言をする場合も・・・だんだん人間関係がぎくしゃくしていき、独りでいる生活がつらくなるのです。
人はひとりでは生きていけないので、思いやりの心を忘れずに小さな出来事にも感謝することが大切です。
人生、「転び上手」の「起き上手」の生き方を学び、いつでも新しいことに挑戦することが大切と思います。
人生は前進するのみで、いつも試練です。人は上手くいかないことで成長し、上手くいくことで試されているのです。
つまり、起きた出来事をどう受け止めるか。その経験から何を学ぶかが、大切なのです。
『目の前に起こる全てのことに試されている』
人は、うまく行かないことで試されたり、うまくいくことで試されたりする。人は、ものごとがうまくいかないときに、あきらめずに努力を続けられるか、本気でやれるかどうかを試されます。
失敗しようが成功しようが、それよりも、置かれた状況の中で「どう生きるか」「その経験から何を学んで、どれだけ成長するか」、このことが何よりも大切なことだと思います。
【思いやることの大切さ】
生きるとは「多くの人の支えられて」で生きていられるのです。
日々忙しい現代社会において、自分のことだけで精一杯だと感じておられる方も少なくないでしょう。
また、そのような状況で、なかなか人のことまで、構っていられないという現実があると思います。
私達は自己中心的な考えや、行動をしてしまいがちですが、他へ思いを寄せることや、人の痛みを知ることを忘れてはいけません。
もし自分がその立場だったらどうかと考え、他人に対して心を込めて、気持ちを持つことが、大事なことと思います。
そして必ず感謝の思いとなって自身に帰ってきて、双方が幸せを感じることができるのです。
最近のテレビ・新聞で、親子の関係が険悪な状況になっているニュースが多いように思います。親子のつながりは険悪なものとなっている?
親も忙しいからと子供と対話することも少なくなり、父親も単身赴任や深夜に及ぶ仕事に追われ、父親が子供と対話することも遊ぶことも少ないようです。
母親も子の教育費のためにと、そして自分の楽しみに、家計の足しにと仕事に出れば、どうしても子供と接する時間もなくなっています。
食事さえも母親の手作りのものが少なくなり、親の身勝手で夫婦別れして、子供は寂しい状況におかれることも最近は多いようです。
心の豊かさは、周りの人への思いやりです。
親子、家族、近所、お互いが思いやることによって、心の豊かさが手の届くところに満ちあふれているのに・・・それに気づかずに暮らしていることが、結構多いのではないでしょうか。
誰でも、自分一人では生きて行けないことを知るだけで・・・自然と感謝する心が芽生えてくるものです。
心から感謝することが出来れば、無意識に奉仕活動をしたくなり、心から感謝していれば、どんな人も社会に貢献したくなるのが人間だと思います。
逆に、他人に尽くしたいと思えないということは、他人の支えがあって初めて自分が生きて行けると思っておらず、感謝する心がないということになります。
感謝が行動に表せないのであれば、やはり感謝などしておらず、感謝していると思い込んでいるだけに過ぎないのです。
「奉仕の心」は貴いことなのです。人は皆、社会の恩恵を受けて生かされています。奉仕の心を忘れずに自分自身が社会に大いに役立つ人間になることです。
「普通って」?
普通が一番簡単で、普通が一番難しい。
世間では多数派が常識で、少数派が非常識とされています。普通が常識とされていますが、正義や常識は時と場合により変化します。
「貴方に普通ではない」そう自覚があるのであれば、慎重に行動するべきだと思います。多数派には敵いませんから。
自分を貫き通すのであれば、揺るぎない信念と、周囲を納得させる根拠が必要になります。
時代と共に価値観が違ってきています。
「ふつう」でいることが難しい時代になっています。ひと昔前までの常識が通じない社会になりつつあるのです。
かつては、よい大学を出て、大手企業に就職し、郊外に一軒家を建てる・・・というライフコースを歩むことが幸せであり、女性は25歳までに結婚しなければ売れ残りだ、と信じられていました。今の時代にそんなことを考えている人は、ほとんどいませんが、つい最近まで本当に「ふつう」だったのです。
とにかく、現在は時代の変化が激しい。
ビジネスでも生活でも恋愛でも結婚でも、今までの常識がまったく通用しなくなっています。古い価値観と新しい価値観との間で板挟みにあい、身動きが取れなくなっている人も多いように思えます。そんな時代だからこそ、あらゆる日常の場面で「モヤモヤ」が立ち上がっているのではないでしょうか。
「今を生きる」
「生きる」ということは、「今」という「とき」を大切にするということです。80年いや100年生き得たとしても自分が生きるのは、いつでも「今」です。
ですから「今」を疎かにしていたのでは、生きているとは言えません。まさに、私たちが生きられるのは「今」なのです。
その過ぎ去ったところを「昨日」と言い、まだ来ぬところを「明日」と呼んでいるだけなのです。私たちに与えられている時間は「今」しかありません。
当たり前といえば至極当たり前のことですが、その当たり前のことが中々実行出来ていないのが、私たちではいでしょうか。
もちろん、過去を懐かしむことや明日への希望を持つということがいけないと言っているのではありません。
ただ、過去を懐かしむのは「今」をよりよく生きるためであり、明日への希望を持つのも「今」を大切に生きていくということから生まれてくると思うのです。
日ごろの忙しさに「季節の移ろい」まで気付かない人も・・・?
桜に心奪われ、天を仰いで心待ちにしている間は、気付きもしなかった大地の芽吹きが、いつのまにか足元に溢れていた・・・
私たちは、諸行無常の大自然の中に生かされていることを、忘れてしまいそうな日常生活を反省しなければと思います。
「年々歳々花相い似たり 歳々年々人同じからず」
今いきている人も、いつしか滅びて、大地戻る・・・とは言え、生前に交わした慈しみの心は、遺された者の心に慈雨となって降り注ぐ・・・
形は目に見えなくとも、心中深く染み渡り、新たな芽吹きを育む肥やしとなります。大いなるいのちと慈しみのバトンが時を越えて、連綿と受け渡されていくのです。
私は、日本人のマナー悪さが気になる一人です。特に街の道路や公園で、タバコの吸い殻・空き缶・ペットボトル・食べ物の包装紙が捨てられていることです。
ながら族(歩きながら~食べたり、飲んだり、スマホをいじり、タバコを吸ったり)人間が多くなったのでしょうか?そして、車からの投げ捨てが多いのように思えます。(八王子市では歩行禁煙・・・条例があります。)
今、公園での子供の遊び方が問題となっています。子供を教育することも大事だが、親の教育がもっと大事と思うことがあります。
子供を注意するより、親を注意しなければ・・・と思うのです。公園のベンチの回りにタバコの吸殻が捨てられていることがあるからです。
76%が無神経なポイ捨てに怒り心頭(お客様文化研究所)
では、皆さんが日頃不快を感じている「公衆マナー」とは一体何でしょうか?堂々のナンバー1は、「街などにタバコ、空き缶やゴミをポイ捨てする」(77.2%)でした。
無神経にポイ捨てされた公道のゴミを見て不快を感じるという声が多数寄せられ、一向に改善されない現状に「法の整備」が必要と考えている方も少なくないようです。
「あの人は自分がボロボロになってまで、人のために尽くしている」
そんな人物を目の当たりにしたり、話を耳にしたりすると、多くの人が「なかなかできることではない」と、その姿を高く評価することでしょう。
確かに、その通りです。
世の中すべての人が「自分さえ良ければ、他の人はどうだっていい」と、自分のことだけを考えて生きていては、思いやりのある平和な地域社会にはなりません。そして、日本においては特に、自己犠牲の精神は「美しいもの」として語られることが多いのではないでしょうか。
でも、考えてみますと、誰かの幸せのために、自己を「犠牲」にすることは、本当に「もっとも望ましい」生き方ではしょうか?
私は思いやりの行動は、今、自分のできる範囲内でいいと思います。
人間社会では、助け合いの精神が大事です。
返報性の法則(へんぽうせいのほうそく)とは、人間が持つ心理のひとつです。
普通、人は他人から何かをしてもらうと、お返しをしなければならないという感情を抱きますが、この『お返しをしなければならない』という不思議な心理を返報性の法則と言います。
返報性の法則には、「好意」の返報性と「嫌悪」の返報性の2種類があります。
人は好意を持っている相手からは好かれたいと思うものなので、自分に好意を示し、高く評価してくれる相手に好意を持ちます。これを好意の返報性といいます。
また反対に、自分を嫌っていることがわかっている相手や悪く評価する相手に対しては、嫌悪感を抱いてしまうものです。これを嫌悪の返報性といいます。
「無償を心がける」
明らかに見返りを求めているのがわかると、本当に幻滅してしまいます。
例えば、非常に困っている時に、何の見返りも要求されず、何かを与えられた人はどう思うでしょうか?何としても相手に多く返したいと思うに違いないでしょう。
無償の行為こそが最大の効果を発揮します。
素直な心とは・・・
私心なく曇りのない心というか、一つのことにとらわれずに物事をあるがままに見ようとする心です。
その心からは物事の実相をつかむ力が生まれてきます。それに基づいて、なすべきことをなし、なすべきでないことを排する勇気というものも湧いてきます。
素直な心の中には、愛というか、憎むべき相手をも愛するといった心、また誤りをただし、正しい方向に導くといった心、そういうものも含まれると思います。
また、高い見識というものも、こういった素直な心によって養われるのです。一言でいえば、素直な心は、人間を正しく強く聡明にするものです。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 | 31 |