親が教えなければ・・・
私はゴミ拾いをして思うのです。
車から、歩きながら、まちの道路・公園に・・・当然の如く捨てられています。タバコの吸い殻・空き缶・空きビン・ペットボトル・食べ物の包装紙・・・などなどです。
大人がポイ捨てしていれば、子どもはそれでいいと思うのです。そして人が捨ているので捨ててもいいだろう・・・とゴミだらけの“まち”になってしまいます。
親の躾け
躾とは、子どもが自ら生命の危険から守りつつ、自由に責任を持って生きるために、子どもに社会の一員として生きるてだてを教えながら、意欲や思いやり、善いこと悪いこと、命の大切さ、生活習慣や社会のルールなどが身につくよう教え導くことです。
哲学者で教育者でもあった 森信三先生 は 「しつけの三原則」 として挙げています。
① 挨拶をすること。
② 「ハイ」 すること。
③ 履物をそろえること。 離席する時に椅子を元に戻すこと。
3つとも、日常生活のことです。やろうと思えば誰でもできる、もしくはすでにできているかもしれません。ただ、よくよく考えてみると、毎日、あるいは毎回、子どもがやっているかというと、そうではないケースが多いのではないでしょうか。
親ができているか
もう1つ、この三原則で思うのは、子どもにとって最も身近な存在である親が、普段からこの3つをやっているかどうかです。
朝、自分 (親) は家族に 「おはよう」 と挨拶をしない時もあるにもかかわらず、子どもにはしつけとして挨拶をしなさいと言い聞かせるとします。子どもにとっては説得力がないように見えるでしょう。2つ目と3つ目も同様です。
自分自身のことを振り返ると、3の靴を脱いだらそろえることは、特に自宅に帰った際はできていませんでした。離席する時に椅子を元に戻すこともやっていなかったです。
日々の小事にこそ躾の本質がある
しつけ三原則に対するポイントは、一見すると小事に見える日常のことにこそ、毎回毎回できるようにすることです。脱いだ靴をそろえるのは、玄関を共有する他人への気配りです。椅子を入れることも、次に使う他人への配慮です。
一方で、やらなかったからといって、特段に誰かに迷惑をかけるというほどのことでもありません。なので、どうしてもおろそかになりがちです。
だからこそ、それができるかどうか、毎回ちゃんとできるかどうかが、しつけの大事な要素になるのではないでしょうか。そして、子どもをしつけるためには、親である自分ができているかどうかがあらためて問われます。
日々の小事にこそ、躾の本質があるのではないでしょうか。
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