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「道徳教育」
子どもたちが、生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは、とても重要です。
「ふるさとを大切にする心」
生まれ育ったふるさとは、自己形成に大きな役割を果たすと共に、一生にわたって、大きな精神的な支えとなるのです。
都市化現象が進み生活様式が激変している現代、隣の付き合いや、地域の行事に参加する割合が減り、社会の連帯感が薄くなってきています。
むかしに比べ、地域に遊び場や、自然が少なくなり、塾通いなどで子どもが地域に親しむ機会が減って、子どもが持っている「ふるさと」を思う心と道徳意識は共通しています。
文化や伝統を大切にする心の重要性として、「文化や伝統は、地域に根ざしたものが多く、地域の人々の思いや願いが脈々と受け継がれてきたものです。
子どもたちが、ふるさとの文化と伝統と関わりを深め、自分が生まれ育ったところを誇りに思い、感謝する心持つことによって、道徳心を養い、「生きる力」の根底支える、道徳的諸価値感の育成を図ることが出来ると確信します。
「苦の娑婆」とは・・・
私は、この世界には、悲しみや、痛みや、苦しみや、悩みや、辛い現実が、溢れかえっているということだと、解釈しています。
「老人になって死でやっと解放され、これで楽になっていくという感じがする。全く人間の生涯というものは苦しみの連続だ。」~高村光太郎
仏教では「忍土(にんど)」と訳しています。
「忍土」とはつらいことや苦しいことをこらえる、忍耐(にんたい)する、がまんするところ、という意味です。
「自分が生きているこの世間はいつも我慢することや、忍耐しなければならないことが付きまとっている。」…そういう意味です。
苦しみの場所だから「苦土(くど)」と書くことも。。。
私たちは、ともすると苦しいのは自分だけ、つらいのは私だけ、がまんしているのは自分だけ、と思い込みがちです。
そうじゃない、子供も大人も、年よりも、みんな生きてる限り苦しいことがついて回って、誰もがいつも何かを、がまんしながら生きているんだ、と・・・もう一度心を落ち着けて考え直すことが大事です。
「自分の値打ちは自分で決めよう」
人間は文字通り、人と人の間にあってこそ意味のある存在で、他人からの評価というものは重要です。
他人の目があるから恥ずかしくない生き方をしようと、プラスに考えられればよいのですが・・・自分に自信のない人は、いつも、他人にどう見られているかばかりを気にして、他人からの評価が、自分の価値のすべてであるかのように思い込んでしまいがちです。
他人の評価に一喜一憂して、神経をすり減らしていては、きりがありません。人にバカにされたからといって、自分の人間としての価値が下がるわけではないのです。
逆に、自分が誰かのことを、バカにしたからといって、その人の価値を下げることができるでしょうか?そんなことは不可能です。
「自分の値打ちは、自分で決める」
人を愛し、愛されるためには、心が健全でなくてはなりません。自分に自信がなければ、他人を尊重することはできません。
「自信をもてることが何ひとつない人間は…どうすればいいのか?」という反論があるかもしれません。しかし、自信をもつということに、特別な根拠などいらないのです。
「自分は、この世の中でたったひとりの、かけがえのない存在である。だから、自分は、生きているというだけで値打ちがある」という理由でいいのです。
むしろ、「学歴が高い」「容姿が美しい」「金持ちである」などの、条件つきの自信などといものは、はかなく、虚しいものです。逆にいえば、「それを失えば、自分は価値がない」ということになってしまいます。
無条件に、自分は価値のある人間だと思うこと、それは、誰にでも可能なことです。
「どうせ自分なんて、何の値打ちもない」と、自分を卑下する人は、本当は、愛されたい、認められたいと願望が人一倍強い人です。
自分が他人から否定されることを怖れすぎるあまり、先に自己否定することにより、けん制してしまっているのです。厳しい言い方ですが、自信のない人というのは、控えめに見えて、実は、自分のことしか頭にない、ごう慢な人です。
他人が変わらなければ、自分も変われない」と思っているから、そこで成長がとまってしまうのです。まず、心のとらわれをはっきりと自覚し、そこから解放されなくてはいけません。
自信をもてばもつほど、他人を思いやる気持ちが生まれ、謙虚になれます。
「自分が大切」だからこそ、他人も同様に「自分が大切」だと考えていることを認めてあげられる、それが健全な人間関係というものです。
厚生労働省は27日、2016年の日本人の平均寿命が男性80.98歳、女性87.14歳となり、いずれも過去最高を更新したと発表しました。
不透明の時代と言われ、価値感の多様化・グローバル化社会となってきていることは肌で実感します。この時代に「今を輝いて生きる」には・・・
「感謝の心を持つ」
自分が今日あることは、多くの人々の支援があるからです。決して自だけでここまで来られたわけではありません。「周りの人のおかげで今日の自分があるのだ」という「感謝の心持つ」ことを忘れないことです。
「感謝の心をなくしたら人間は転落していく」
感謝と不安は大切な感情です。それを忘れたら傲慢になります。我慢ができない、駄々っ子のように我がままな人間になります。周りの人から見捨てられ、人を泣かせ、厄介者扱いになるだけです。孤独の道を歩むしかありません。
「今を大切にすれば心の豊かな生き方ができる 」
何はともあれ「自分の人生で今が一番幸せだ」と確信して生きていけることは、輝いています。でもとてもそうは思えない、という不運な境遇の人も中にはいることでしょう。しかし大部分の人は、心の持ち方一つで、きっとそう思えるはずです。
そしてそのように確信できたら・・・随所で主となって、フルに力を発揮し、感謝の気持ちを土台に意地悪や自堕落を排除して生きていけます。
人間が素直になり、性格もよくなって、人からも愛され豊かな人生を築き上げることができるに違いありません。今を輝いていきましょう。
格言で・・・「持久微善(じきゅうびぜん)を積んで撓(たゆ)まず」があります。
この格言は、小さな善行を積み重ねて行くことの大切さを説いたものです。私たちは日常生活の中で人の世話をしたり、人に親切にすることがあります。
しかし、その善行は、一時的なものでは、品性を向上させるうえでは不満足です。たとえ小さな善行でも、持続して行うことによって大きな成果をもたらします。
道徳実行の生命は、不断に続けるところにあります。私たちは、喜びや悲しみ、感謝や不平不満などの目に見えない心のはたらき、あるいは人に挨拶をしたり、タバコの吸殻を投げ捨てたりするなどの小さな行為については、比較的無頓着です。
しかし、このような軽微な心づかいや行いが、時々刻々に私たちの運命を形づくっているのです。したがって私たちは、日々の小さな心づかいと行ないにも十分注意し、少しでも善行を積むように努力することが大切です。
ことに青年期は、人生経験が浅いため、道徳実行の価値を十分に理解することができず、小さな善事を積み重ねることを軽視しがちです。しかし、日々の心づかいと行ないの累積が、やがて習慣となり、それが人生の大きく左右するのです。
私したちは、日々心を新たにし、たゆまず微善を積んでいけば好運命を開くことができ、さらには明るい社会を築くことができるのです。
『真実はひとつ』・・・
と言いますが、真実とは、うそ偽りのないこと。本当のこと。です。
いま話題になっている、加計問題の国会閉会中審査を聴いていて、思うのですが、結果があるのですから、それまでの、経緯を国民にただすことです。
国民に納得してもらうための、審査であったはずでしたが、議論のやり取りで、「言った…言わない…」「記憶にない」・・・では話が進みません。真実は嘘のない本当のことではなく、物事の真相を見抜いた事実を指すことだと思います。
だから・・・質問・答えは、それはそれで正しいことでしょうが、そもそも「真実」のとらえかたが、違うのではないでしょうか?事実はあるのです。そのプロセスを国民は知りたいのです。
○ 真実・・・嘘のないこと、本当のこと。
○ 事実・・・現実に起きたこと。
ほんの少しでも主観が混じってしまうとそれは事実でなくなります。かといって混じりっけなし100%の事実というものが存在するのか分かりません。
しかし、少なくとも「私はこう思う」「私にはこう見える」という概念が混じったものは、事実ではないのではないでしょうか・・・何故ならば、「私はこう思う」ことが、他の誰かにとってはそう思えないことかもしれないからです。
『事実は「誰が見ても変わらないこと」と定義する』といいかもしれません。
テレビでニュースを観ていて思う。
報道にも事実と真実の2面があります。コメンテーターや報道記者の考えが少しでも含まれ、事が起きる原因の推察や感想は…「真実」に過ぎません。
完全に間違っているから信じるなというわけではなく、ひとりの人間というフィルターを通して見た真実であって、それが100%正しいことではありません。全てを疑って生きるのは辛いことですが、安直に信じてしまうのは非常に危険なことと言えます。
世間に広まる事件・事故などの真相は、多くの人が信じたことが次第に力を持って「揺るがぬ真実」にレベルアップするからです。真実は造られるのです。
現代は、大企業や国など大きな権威から個人の時代に変化しつつあり、これからは、個人の時代が更に変化して、コミュニティの時代になっていかねばと考えます。
「現代は生きづらい?」
「閉塞感」から抜け出せない人が多いともいわれます。また、家族や地縁社会が崩壊し、一人暮らしも増えて、人間が孤立化している社会になってきたように思います。
科学や医学や社会制度の改善が進む一方で、社会の変転が激しく、ついて行けない人が増えたり、人々のストレスが増大しているのも事実でしょう。
一方で、今まで少数派として切り捨てられていた、貧困者や障がい者の権利が見直され、社会に受け入れられるようになったりしているのは、昔に比べて、人権面での大きな進歩だと思います。
社会的不健康
健康というと身体的なものばかりを想像しがちですが、それは身体的、精神的、経済的にも健康が、社会的健康ということでしょう。
社会的不健康とは・・・例えば、病気になっても病院で適切な治療を受けなかったり、部屋が汚れ、借金があるものの返済のメドが立っていなかったり、身内や知人と疎遠になっていたりするようなことでです。
こうしたことは高齢者だけでなく、40代以下の低所得者層や、雇用の不安定な非正規労働者にも当てはまりやすい。
若年層の生活の変化がより孤立化
また、若年層の、対人関係の不器用さや、生活環境の変化が悪影響が、問題を深刻さを増していると思います。
最近の若い人たちは、恋愛など人付き合いにも関心が薄く、コミュニケーション手段といえばもっぱら、スマホ・パソコンだけ?食事はコンビニ弁当・・・
つまり、普段の生活において他者とコミュニケーションを取らなくて済む環境が整っているわけです。だから、具体的な対策を取るには、根本的なところから正さなければならないが、そんなことは不可能・・・今後も孤立化の傾向は強まるでしょう。
孤立化をなくすには
ありきたりですが、自分の境遇の悪さを他人のせいにせずに、直視すること・・・他人任せでは誰にも相手にされなくなり、孤立化を招きます。
孤立化、そのものが問題なのではなく、「孤立化している生活自体」を直視し、最悪「孤立死」に繋がるということです。
「自分を信じる」ということは・・・
どんな現実が訪れようと、それを経験することで自分の人生は、幸せに向かっているということを信頼することです。
私たち人生は、「いつもに幸せの方向に向かっているのですよ。。。」
しかし、私たち自身がすぐに違う方向に向いてしまう・・・特に、私たちが持つ願望というのは「自分が本当に歩むべき道」とは異なることが多いからです。
もし今しようとしていることが、本当の道からずれているとしたら、「うまくいくことを信じる」ことをしても、それは結果としてうまく行きません。むしろ、短期的にみると悪い結果に見えるでしょう。
そのことで、余計に自分を信じられなくなります。「やっぱ自分はダメだ!」って、落ち込む・・・そうじゃなくて、「それは叶わない方が良かった」のです。
だってずれているのだから。人生はそれを叶えないことで、ちゃんと幸せな方向に修正しようとしてくれているのです。「叶えないことで修正してくれている」のです。そして、幸せな方向に向かうようにしてくれているのです。
本当の「自分を信じる」というのは、そういうことを信じるということなのです。そして、訪れる現実に対して、淡々と対処することです。
良い、悪いの判断を抜きにして・・・そういう視点で自分を信じ、現実に対処していけば、一見悪いと思った出来事が、後になって振り返ってみると大きな転機だった、ということが分かるようになります。
自分を信じるとは、すべての出来事を、自分の人生が幸せに向かうために起こっている、このことを信じることです。これができれば怖いものはなくなります。
私は生まれも、育ちもそして今住んでいるところも、同じ場所です。
子どものころには、ふるさとの歌詞のとおり・・・「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」がありました。
人は、生活の便利さを求めて、開発に開発を進め、山を削り、川を直線にコンクリートで固め無機質化?にしたのです。
たしかに生活は、大きく改善され暮らしは「楽」になった反面、自然環境は、取り返しの付かない大きなダメージをもたらしたのです。
人は、「自然との共生」です。人と自然の調和なくして生きられません。
イギリスの作家 ジェームズ・アレンの言葉
『環境が人を作るのではありません。環境は私たちに私たちがどんな人間であるかを教えてくれるだけなのです。』…がありますが、非常に意味深いと思います。
自然と私たちの暮らしの変化は、留まることはありません。すなわち価値観も当然違ってきています。私たちのまちに住む人の生活・人の心まで大きく変っています。
「人と自然環境のバランス」
今、私たちの住む“町”は、人と自然(環境)とのバランスが崩れてきているように思えてしかたがないのです。
従って、人間関係の希薄さ・・・人に環境に思いやりがなくなり、人間の心の無機質化まで心配するのです。町並みを見れば、そこに住んでいる人が「どんな心もち」を持っているのか想像できると思えるのです。
まちの美化は、大事と考えています。割れ窓理論もありますが、まちに住む人の心に大きく影響すると思っています。「美しい環境は人の心も美しい」それは、人間の原点であると思います。
情報過時代、その情報に振り回され、自分を見失う?ことも・・・
「自分が自分であり続ける感覚を持っている」・・・大事な事だと思います。
そうした感覚を保つことが出来ていれば、たとえ少しくらい行き詰るような事にぶつかった時にも、もうしばらく頑張ってみようとか、今はちょっと我慢してみようとか、その時々の自分と展開の状況に応じて、柔軟に考える事が出来るようになります。しかし時に人は、自分を見失ってしまう事があります。
「自分を見失ってしまう時」
やるべき事に次々と追い立てられ、振り回されているように感じると、自分を見失い何をやろうとしているのか分からなくなってきます。
そうなると気持ちに余裕がなくなり、出来なかった事ばかりに目が行ったり、何もできないと考えて自分を責めたりしてしまうようになります。
私は、不安になったり焦ったりして、自分を見失いそうに感じてきた時や、見失ってしまった時には、現実の課題の方に目を向けるようにして、今対処して解決しなくてはならないのは・・・何なのかを考えるようにしています。
またその際には、何でも一気に片づけてしまわないようにし、課題を細かく分けて、それぞれについて、ステップ・バイ・ステップで、対処法をいくつも考えていくようにしています。
問題点と対処法がいくつか見つかって、それらの優先順位を考え・・・また、それは本当に今すぐにやるべき事なのか・・・と見直していくうちに、自分が本当にやりたいことや、大事にしたいことを(断捨離)も含め、自分らしさを取り戻すようにしています。
本当の「優しさ」とは・・・
本当の優しさとは 損得勘定なく、相手のために接することです。「見返りがなくてもいい」「お礼を言われなくてもいい」「嫌われてもいい」など相手の幸せを心から願って接することが、本当の優しさです。
時には、厳しく接することもあるでしょう。ですから、表面上は厳しく見えても、相手の幸せを願う行為なら、本当の優しさのひとつです。親が子供のために厳しく叱るのも、優しさの表現です。
先生や友達が、あなたに厳しく叱るのも、実は優しいといえます。相手の幸せを願って接することが、本当の優しさです。
本当の「思いやり」とは・・・
「思い」を相手の傍らに「遣り」、寄り添うことです。純粋に親切な心から出る行動のひとつです。その形や大きさはさまざまだです。
相手の息災を気にしてひと言声をかけてあげる…なんの見返りも期待せずに自分が持っているものを分かち合う…こうした「礼節の精神」から思いやりが生まれます。 人を思いやる行為は、巡りめぐって必ず自分に帰ってくるものです。
優しさがなくては思いやりもないのではないかと私は考えます。厳しい人は何時でも何処でも誰にでも厳しい一面しかないのでしょうか?優しさを知ってるからこその厳しさもあるのでは?
優しさの一つに「思いやり」があるのだと思います。
私のイメージですが、優しさって必ずしも無償じゃなく、見返りや下心が存在してることもあるものです。本人その気はなくても、優しくした相手に応えてもらえなかったら「あんなにしてやった」のに…感じることって、何処かで自分がしてあげた分の見返りを求めてたからです。
思いやりは全くそういうのはなく、また見せ付けたり相手に恩を着せるようなものでもなく、本当に純粋に相手のことを考えた行為だと思います。
暮らしの「安心、安全」
地域社会の弱体化が進む中、大規模地震など自然災害にどのように対処し、犯罪や事故をどのように防ぐかは住民の最大の関心事です。
地域社会における安心、安全の確立が住民の地域での暮らしの大前提であり、地域社会の活性化のためにも喫緊の課題となっています。「自助・共助・公助」がクローズアップされています。
地域社会で求められていること「互譲・互助」です。
互譲とは・・・互いに譲り合うこと。互助とは・・・互いに助け合うこと。
出光興産の創業者・・・出光 佐三氏の力強い言葉に感銘しています。
「人間というものは一生働いて働いて働き抜くものだ。いまの世の中では、なにか贅沢をしたり、奢侈にふけったりすることが人生の目標のごとく言っているけれども、そんなことが人生の目的ではない。
贅沢をすれば肉体上の楽しみはあるかもしれんが、精神的には非常な不安がある。贅沢や奢侈にふけることを自慢して他人を見下しているような人間は、人間としては下の下で、獣に近い人だというべきじゃないか。
いつも言って聞かせているように、離れ小島に一人でいるのならば、どんな勝手なことしたり贅沢や奢侈をやってもいいだろうが、二人以上で社会をつくっているからには、お互いに幸せであるということを考えにゃならん。それが人生じゃないか。
日本ではお互い、互譲互助ということを教えられている。互譲互助の精神の人が、自分だけ勝手わがままをやるかどうか、考えればすぐにわかることだ。
それがいわゆる日本の神、皇室が教えられた、相手の立場を考えて「徳」の社会、「和」の社会をつくるということなんだよ。
それだから「人の世界」の本質から言うと、一生働いて働き抜く、肉体的には苦労であるけれども、精神的にお互いに一緒になって人生を楽しむ。こうだろう。」
古来からの、日本人の魂ともいうべき精神を取り戻し、不透明な時代から、誰もが、「真の幸せを求める」ことが出来る世の中になるには「互助・互譲」しかないと思います。
現役時代に先輩から、「多くの人とコミュニケーションとることは、あなたの財産ですよ!」と言われました。人との出会い・つきあいの中で、人はいろんなことを知る・学ぶことができます。
幸せになるためには、自分を知ることも大事ですが、人を知ることも大事です。いずれも、人間を知ることにつながり、そこから人間の幸せを探究することができるからです。
人を知るためには、相手を受け入れることが大切です。「こんな人もいる」と相手の存在を受け入れる、「こういう所もある」と相手の悪い所もいい所も受け入れる、「違っていていい」と自分との違いを受け入れる、「この人にはこの人の○○がある」と相手(のポリシー)を尊重することです。
人をよく知るためには、相手の話をよく聞くこと
人を受け入れられるようになることは、人間としての成長・人としての器を大きくすることにつながるのだと思います。人間関係であまり悩まないようになり、大らかな心を手に入れることができ、幸せを感じる心の余裕も生まれてくるのではないでしょうか・・・
人との出会いは“器を大きくするチャンス”、人生とは“人間(関係)を学ぶ場”“自分を育てる場”などと考えられるようになれるといいのかもしれません。
残念ながら、現在の日本社会は閉塞感があふれており、人と人とのつながりが希薄になり、なかなか「生きる喜び」を感じられなくなっています。
私は、特に今の日本では、多くの人が「生きる喜び」を感じられるような社会を築く努力が必要であり、そのために自分自身も努力したいと考えています。
現在暮らし続けている地域社会のみなさんと、「生きる喜び」を感じられるような関係づくりが大変大事なことだと思います。そして、残された自分の人生でも、可能な限り、自分自身の「生きる喜び」を追求したいと思っています。
私は8月で80歳になります。
昨年(2016年)の厚生労働省の発表によると、日本人女性の「平均寿命」は87.05歳で世界一。男性の80.79歳は昨年の3位から4位になったものの、日本は長年、世界で名立たる長寿国として知られていいます。
しかし、数字だけの長寿が果たして幸福かというと、必ずしもそうではありません。問題は、いかに老化に対応し、長いあいだ健康でいられるかどうかです。
若い頃と違ってよろつくようになって、嫌でも老年を意識せざるを得なくななりました。昔は人生一毛作で、結婚して働いて子供を一人前にしてほっと一息付いた頃が六十歳、やがてお迎えが来てこの世をおさらばでした。
ところが人生八十年時代の現在は二毛作で、還暦で一丁上がりにはならなくなりました。それから三十年以上?は生き続けなければならず、嫌でも自分の老年と向き合い、如何に生きるかを考えなければならなくなったのです。
老いて行くのはほかならぬ自分自身であり、何もせず漫然と佇んでいるだけでは済まされされなません。
老いるということは、無謀な若い盛りの者にはない・・・思慮・見識、老年の自負とバランス感覚など、老いてこそ得られる貴重な知力があることを忘れないことです。
また体力の衰えについては、作今の過剰な健康ブーム、高齢者の体力維持願望などは、果たしてこれで良いのかと思うことがあります。年齢を言い訳にせず、病に立ち向かうが如く老いと戦わねばならない・・・まさに老年とは精神の戦場なのです。
肉体労働をすれば、疲れがたまりて重くなりますが、心は鍛えるほど軽くななるのです。社会貢献の意欲・好きな趣味・勉強・研究テーマがあるとすれば、暇に恵まれた老年ほど喜ばしいことはありません。
若い頃の欲望や政治的駆け引きなどから離れて、老後の自然との対話が如何に喜びを与えてくれるか知れません。
死の接近についてですが、若者の死は無理矢理に木からもぎ取られ、力ずくで奪われる感じですが・・・老年になれば成熟の果てに熟れた実が自分から落ちるように自然です。
死は長い航海を終え港に入るに舟に似ていて、まさに自然の摂理であり、自分は存分に豊かに生きてきたとの強い、自覚と自負がうかがえるのです。
◎ 地域社会の構造の変化
私たちの住む地域社会でも、少子高齢化・核家族化・未婚化が進んでいます。
いわゆる社会構造の変化です。空き家問題・独り暮らし・独居老人・買い物弱者など深刻な問題となってきています。
不動産業者のワンルームマンションが増えてきています。その住人は、短期入居者(住民票を移していない学生・労働者)が多いようです。
○ 地域社会における近隣関係の変化
○ 共助精神や連帯感の希薄化
これらは、主に核家族化や少子高齢化の進展と戦後の個人主義・自由主義の恩恵の浸透により、町内住民間のコミュニケーションや良い意味での「おせっかい」が極端に減少していったことによるものです。
例えば、町内における不審者のチェック、さらには子供たちに対する非行防止、高齢者や目上の人たちに対する礼儀あるいは躾といった従来地域のコミュニティが担っていた重要な役割が果たされなくなったことが大きな要因であると言えるでしょう。
また、コミュニケーションやおせっかいの減少は、同時にコミュニティにおける共助も減退させており、子育ての不安を相談できる相手もなく幼児虐待が起きたり、独居老人の死が何日も分らないということも心配になってきています。
もとより、核家族化や少子高齢化そして価値観の多様化は、元には戻せない現実であることから、昔の隣組のようなコミュニティに戻すことは無理です。
しかし、少なくともお互いに助け合い支えあうことによって安心で安全な地域社会に再生していくためには、住民相互のコミュニケーション大事なことなっています。
良い意味での現代において必要と思われる住民同士の関わり方など新たなコミュニティ文化の再構築を急ぐべきと考えます。
「環境破壊」
一人ひとりの小さな行為は、良くも・・・悪くも・・・合わせれば大きな結果となって現れます。一人が、“ゴミ一つぐらい”が100人となったら100個になるのです。それが100日たったら取り返しの付かない結果とになるのです。
これまでの一人ひとりの小さな積み重ねが、現在の地球の危機的状況を招いているのです。地球温暖化・異常気象が起きています。干ばつ・大雨現象は、日本のみならず世界の国々でも起きています。
私たちは、太陽の熱、光を始めとして、自然からの無償の恵みによって生かされています。これは万人が認める摂理でありますが、あまりに自然になっており、省みられることは稀です。
人間の健康や生物の生存が危ぶまれるほど地球環境破壊が深刻になって初めて、問題意識を持つことになりました。
誰もが自らの幸せを望むと共に、地球の調和された環境が保たれることを願っています。現実の厳しさを前にした時、自分にいったい何ができるのだろうか、と無力感にも陥りがちです。
今一人ひとりが地球環境破壊を自らの痛みとして心に刻み、地球から人類に呼びかけられているメッセージに耳を澄ませ、できるところからの一歩を始めていけば、必ず地球は活き活きと再生してくれると信じます。
「何かを成し遂げる」
強い意思を持つことのできる人
「高いモチベーションの維持」が必要とし、強い意志を「持つ事の出来る人」ではなく、もうすでに「持っている人」、と言えます。
自己規律が確り持っていて、何を対象にするかはそれぞれですが、「目標」立て、チャレンジする気迫を持ち続けることで、到達することになると思います。
最初の頃は、自分を甘やかしてしまう事もありますが、継続的改善を繰り返し、自分に厳しくしていけば、自然と出来るようになります。
目標に到達する前に、肉体的にも限界で、精神的にも追い詰められてしまう事もありますが、自分がおかしくなってしまう直前まで、目標の設定変更はしないことです。
諦めない精神力
「望みを叶える力は、精神と集中のパワー」、継続的な集中力 は、集中と精神の両方の力の働きが必要です。集中力・精神力のコントロールは、訓練によって培われます。子どものときから、訓練することで、チャレンジ精神力付いてきます。
人間はいつも、気を張っていることは出来ません。リラックス・休養する時間も大事です。大事なときに力を発揮できる訓練をして置く事です。そして、自己規律、併せ持たなければならないです。
世の中には、何につけても「文句」を言う人がいます。「文句」とは・・・ ぼやき ・ クレーム ・ 不平・ 不満などです。
「文句を言う人は、問題意識のある人」
地域社会のことでも、問題意識のない人は「ここを直したほうがいい」「あそこは良くない」などと文句を言ったりはしません。
文句を言う人は・・・「こうしたほうがいい」・「この部分を変えなければいけない」という気付きを持っています。それらを口にすることは、「何かしら良くしよう」と思っている・・・「問題意識」がある人です。
しかし「文句をなんでもかんでも受け入れろ」ということではありません。中には素晴らしい意見もあるが、ロクでもない文句もたくさんあります。
そのままにしておいたら、地域社会(町)の雰囲気は悪くなり、結束力やモチベーションが下がります。自冶会・町会などの幹部が、頭を悩ませるところです。
文句を言う人の話を良く聞くことです。その人意見が「その通り」と思ったら、その意見を尊重して、今後の方針の一つに加えることです。その人にリーダーになってもらうことが「ベスト」だと思います。
「文句を言うが手を出さない」
しかし、現実は協力してもらえない・・・ただ文句を言うだけの人が多いのです。斜に構えて世の中知ってる風で、「だからこの組織はダメなんだ」みたいなことをいう人に限って、組織でも大して信用されていないのです。
文句というのは、問題を指摘しつつも、自分はその解決をしない・・・「何人にも解決できないこれだけの大きな理由があり、だからこそ腐っている的」・・・な話になるわけです。
そして俺だけはそれを冷静に見極め、組織内では戦ってきたという、正体不明の組織内武勇伝になります。小学校のクラス内のもめごとレベルの「井の中の蛙」感が出てきます。
事業実績つくって上にあがるわけでもなく、うだうだいってるだけで正直結果が全く出ていないので、何もしていないのと変わらない・・・
「組織内での解決策」
地域内の課題解決はさらに利害関係関係ない人まで出てくる複雑な状況と立ち向かわなくてはならないわけです。組織内の課題解決もできないようでは話になりません。
文句を言う人には、文句を言われる立場にするのが一番です。文句を言われながらも、新しいことを推し進めることができる人はそれこそ真のリーダーになれるし、文句の雨にさらされ、引き下がった人にだって、そこから学ぶことは多いはずです。
自分の立場だけで文句を言っていた人も、文句を言われる立場になれば、嫌でも周囲のことを考えるようになり、リーダーとして必要な能力が身に付きます。
いずれにしても最初から何も言わない人より、正しいにしろ、間違っているにしろ「ああだ、こうだ」と文句を言う人のほうがリーダーに向いています。
人間は、時に怒りや悲しみや欲望や、そういう激情を抑えきれず、精神的に暴走してしまうことがあります。その時に、最後まで精神を抑え保っていたものを、桶の箍に例えて、"心の箍"と言います。
夏目漱石著『草枕』の冒頭・・・
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」があります。
人間社会には「タガ」必要なのです。タガが弛んだり、外れては人間社会はあり得ません。人は共同のみで生きられるのです。そこでタガ(法律)をつくり、規制を設けて、守ることで生きていけるのです。
むかし親父から、「野木になった庭木」では困るといわれたことがあります。庭木は枝を剪定し見栄えを良くすることで、野木のように、勝手に伸ばしてしまったら、家・庭につりあわなくなり、バランスが悪くなり、最悪切り倒すことになるのです。
人間社会でも、タガ(法律)があり違反したら罰則があります。それ以前に人間として生きるための、基本に道徳・倫理があります。子どもは親・学校・地域社会で、教わり育って、大人になっていくのです。
そもそも道徳・倫理とは何か?
ひとことで言うなら・・・倫理とは、自由です。そして道徳とは、強制です。
倫理とは・・・自由。言い換えるなら、決断です。何が正しく、何が正しくないかを、自分で判断すること。たとえ百人中九十九人がこうだと言っても、自分ひとりが違うと判断することもできる、それが倫理。
道徳とは・・・外的強制。他人がこうしているから、お前もそうせよ。これが道徳です。ただし、国家権力を背景にしていないので法律とは異なります、罰則があるかないかは別問題です。「常識」とほぼイコール。
規範とは・・・一定の社会集団内で、その成員がいだいている価値判断の共通の評価基準ないし理想型。規範によって価値の普遍的妥当性が保証される。→価値
七月や 一雨ごとに 伸びる草
私たちのまちに「片倉時田まちの広場」があります。
お年寄りの「グランドゴルフ」「ゲイトボール」「夏の盆踊り大会」などで一年中使っています。雑草の伸びるのが早いので、草取りに手を焼いています。月一回の除草をおこなていますが・・・とりきれません。
「雑草の如く逞しく」と言う言葉があります。踏まれても、踏まれても、立ち上がり、どんな悪条件でも、しぶとく生き残る・・・と言う意味です。
梅雨時の雑草は、しぶとく、アスファルトの割れ目・ちょっとした土の隙間から伸びます。夏の草は伸びるのが早い!むかし、農家の家では、「夏は、草との戦いだ」・・・という人がいました。
農家だった親父は、「上農は草を見ずして草をとり、中農は草を見てから草をとり、下農は草を見ても草取らず」と言っていました。
つまり、雑草がメチャクチャ元気になる梅雨時期・・・農作業の効率化ができてる農家、出来てない農家は梅雨明け直後の畑をみればわかるということです。
「美しい町にしようよ!よみんなの好きな町だから…」
歩道に散らばるたばこの吸い殻、植え込みの陰の空き缶、公園に残されたファスト・フードなどの包装容器…これら「ポイ捨てごみ」の散乱により、町の美観が損なわれています。
「ポイ捨てごみ」がはらむ問題は、町の美観にとどまりません。たばこのフィルターやプラスチック、金属類などの分解されにくい材質のごみが、動物の誤食や、からまり以外にも自然に影響を与えていることはいうまでもないことです。
「ポイ捨てごみ」対策は、まちの美観、自然に与える影響の両面から、環境との共生をめざす八王子市の町づくりにとって重要な課題となっています。
捨てられたごみを掃除する責任は、まず第一に捨てた本人にありますが、誰が捨てたのか分からず、放置されてしまった場合は、その場所(土地・建物等)の所有者または管理者が責任を持って清掃しなければなりません。
このため所有者または管理者にとっては、その土地・建物等を清潔に維持するための費用が必要となります。
八王子市や、国(都)が管理する道路や河川の「ポイ捨てごみ」(公園・河川・国道)の清掃のために使われている経費は、私たちの税金が使われているのです。
「一人ひとりの心がけで住んで良かった町になるのです。」
1…私たちの町を美しくするには…先ず各自が、自分の家の周りの清掃することです。
2…集合住宅では、ゴミの集積場所は当番制でしっかり責任を持って行う。スパーやコンビニなどの事業主は、周りの道路などのと植え込みにも目くばせし処分することです。
3…子どもの教育に、家庭のしつけ…学校の教育・地域のみなさんの指導(声かけ)を積極的にすることです。
きのうのこと(情報)は・・・きょうは時代遅れ?
現代は、あまりのも忙しく、いろいろな情報で右往左往している人も?「時代の乗り遅れてはいけない。時代の波にのれない。」で、汲々として・・・大事なこと忘れていませんか?
周りのことも、時節の移り変りも、振り向かず、ただ“がむしゃら”に生きている人が多いと思います。人生をもっと“ゆったり”生きたいものです。人のことなど・・・考えている“ひま”などありません?・・・自分さえ良ければの「自己中心」の人が多くなり、“ぎすぎす”とした人間関係となっているのでしょう。
今朝はわがままで、スローライフで?のんきな爺が想い綴ってみます。
「持久微善(じきゅうびぜん)を積んで撓(たゆ)まず」
小さな善行を積み重ねて行くことの大切さを説いたものです。私たちは日常生活の中で、人の世話をしたり、地域社会を、少しでも気持ち良く暮してほしいと考えて行動をする・・・
しかし、その善行は、一時的で長続きしないことが多く、私たちの品性を向上させるうえで力が弱いのです。たとえ小さな善行でも、持続して行うことによって大きな成果をもたらします。道徳実行の生命は、このように不断に続けるところにあると思います。
私たちは、喜びや悲しみ、感謝や不平不満などの目に見えない心のはたらき・・・人に挨拶をしたり、ゴミ・タバコの吸殻を投げ捨てたりするなど、小さな行為については、比較的無頓着です。
しかし、このような軽微な心づかいや行いが、時々刻々に私たちの運命を形づくっているのです。したがって私たちは、日々の小さな心づかいと行ないにも十分注意し、少しでも善行を積むように努力することが大切です。
日常の生活の忙しさに、道徳実行の価値を十分に理解することができず、小さな善事を積み重ねることを軽視しがちです。しかし、日々の心づかいと行ないの累積が、やがて習慣となり、それが人生の大きく左右するのです。
私たちは、日々心を新たにし、たゆまず微善を積んでいけば好運命を開くことができ、さらには明るい社会を築くことが出来るのです。
善いことはできることから、続けて行く・・・感覚としては種まきと、同じではないかと思います。善い種をまいて、毎日水をやったり、気にかけて世話をする。いろんな種類の善い種を見つけてきて、それもまく・・・
善いことを続ける信念と勇気を一緒に成長させる。「途中困難最後必勝」の心で自分に勝つ。あきらめない。善を積み続けることです。
どうなる地域社会の未来
私が住む地域社会で現在、お年寄り夫婦・お年よりの男女(親)と、結婚しない40歳~50歳代が同居しているお宅が多くなり、子育ての家庭は少なくなってきています。そして、核家族化が進み、老夫婦から、独り暮らし、やがては空き家となるという、地域社会が見えてきました。
このことは、今まで経験のないことで、地域社会のあり方、地域のコミュニティ、防災・防犯・介護などの問題がクローズアップされてきたと思うのです。
我が国全体の問題
今年4月、国の調査で50歳まで1度も結婚したことのない人の割合を示す「生涯未婚率」が男性の4人に1人、女性の7人に1人となり、過去最高を更新したことがわかりました。
人生の選択肢が多様化する一方で、将来的に老後に身寄りのない人が増えるため、年金や介護などが十分対応できないリスクが懸念されています。
将来の日本はどうなるのでしょうか?"おひとりさま"がハッピーになるために、できることは?
地域のコミュニティのあり方・「自助・共助・公助」の考え方・自然災害時の対応のシュミレーション・防犯など・・・安全・安心のまちづくりを議論しておく必要があると思います。
「自己観照」とは・・・
主観を交えず、対象のあるがままの姿を眺めること。冷静な心で対象に向かい、その本質をとらえること。だそうです。
「自省の強い人は、自分というものをよく知っている。つまり、自分で自分をよく見つめているのである。私はこれを“自己観照”と呼んでいるけれども、自分の心を一ペん自分の身体から取り出して、外からもう一度自分というものを見直してみる。これができる人には、自分というものが素直に私心なく理解できるわけである。
こういう人には、あやまちが非常に少ない。自分にどれほどの力があるか、自分はどれほどのことができるか、自分の適性は何か、自分の欠点はどうしたところにあるのか、というようなことが、ごく自然に、何ものにもとらわれることなく見出されてくると思うからである。」
松下幸之助さんの言葉です。
今の世の中で、どうも理解できないことがあります。
例えばテレビなどの報道で「森友問題」「加計問題」が大きな話題となっています。
真実はある筈です。
誰かが本当のこと言っていない?「本音と建前」を使い分けているのでは?
「自己観照」すれば必ず解決することだと思います。
結果が出ているのことに・・・「記憶にございません」「言った覚えはありません」では、回り(国民)は納得しません。
世の中をよくするには真実を明らかにすることです。納得いく説明が欲しいものです。
生きていることは、頭を使い、呼吸をし、身体を動かしていることです。「限られた一生」・「限られた時間」無駄なことを考えたり、行動をしていないだろうか・・・
「今の自分を見つめる」
今の自分のままでいいのだろうか? こんな事をしていていいのだろうか?・・・悩むことがあります。
いまの自分が、やっていることは実際はどうなのだろう・・・もっと他のことが出来るのではないか?今の時間をこんな風に使っていていいのだろうか・・・と。。。いつも思っています。
「今しか出来ない事を探して、一生懸命に行動する」
今の自分でいいのだろうか・・・ここに居ていいのだろうか・・・もっと他に、大事なやることあるのではないだろうか?そう思うことがあります。
でも、私はそんな時・・・何処で、どんな事をしていても必ず、それをしなかったら、後で後悔する。それがベストなんだ・・・と。それと「タイミング」というものがあると思います。
しかし、そう考えて、今の自分に迷ったとき、今でなければ・・・今の自分でなければ・・・出来ないこと探すこと・・・その結果の「正解」ではないかもしれない・・・何をどう選択しても、絶対的なものではないからです。
正解は求めないで、今自分が出来ることを「一生懸命」することです。考えすぎて何もしないより行動することだと思います。
それが無駄に思えても・・・その時にしかできないことは必ずある筈です。行動することから、何かを教えてくれていることで、「自分と向き合う時期なんだ!」と考えています。
今しかできない事を、探して一生懸命になる・・・例えそこから、また違った道を歩むにしても、いまに一生懸命になってみてからでも遅くはないのかも知れない・・・そしてもし、何かが始まるにしても、そこから始まるのだと・・・いうことだ思います。
「小さな善行」毎日続けよう。
人は人間社会でしか生きられません。多くの人と助け合って生きられるのです。
キリスト教では・・・『人がしてもらいたいと思うことを、あなたは人にしなさい』
行動まで行かなくても、心で思うことも善行の一歩で、繰り返し訓練することにより他人への親切や思いやりの心、善行に結びつく心ができるのです。
他人が怪我をする、ああ痛いだろうなと思う気持ちが大切です。この気持ちを心に刻むことで、その人の品格つくられます。さらに、この気持ちが本当に根付くと、他国の人、他の民族へのいたわりの気持ち、理解する心にもつながります。
人間の品格
人により様々な意見があるでしょうが、学歴や地位こそ品格だと言う人、生まれついた家柄が品格だと言う人、知識の量だと言う人…
私は、人に気配りができるとか…思いやれるとか…紋切り型の「気配り」でなく人を見て、相手を見てそういうことができる人が品格のある人だと思います。
それをさり気なくこなせようが、不器用だろうが、子供だろうが年寄りだろうが、できる人、しようとしている人は「品格のある人間」だと私は思ってます。
人に迷惑をかける・・・人をいじめる・・・ことは悪いことです。他人から見ても見苦しい・・・
人間の品格は、勉強だけでなく、人に親切にする…人を助ける…人の役に立つ・・・など良いことの積み重ねで自然に出来上がるものだと思います。
私は「人間の本質とは『愛』」と考えます。
「どんなに時代の変化しても人間の本質は変らない」
かってなかったようは犯罪が・・・最近のニュースには、心を痛めるものや憤りを感じるものが毎日のようにあります。
中でも、「ナイフで人を刺してみたかった?」・「おれおれ詐欺で、大金をだまし取る!」・・・のような、自分の価値観や感情を唯一のものとして、一方的に他者の命や生活を奪うことで終決させる行いは、価値観が多様化する時代にあっても絶対に許されないことです。
情報化やグローバル化、少子高齢化等が加速する社会で、時代の流れや先を読み、その変化に対応していく力をつけることはとても大事です。しかし、時代が進みいかに世の中が変化しても、決して変えてはならないものがあります。
それは、人としての本質「愛」です。
人として変えてはならない本質は、「規範意識」や「ルール・マナー遵守」、「思いやり」、「協調性」、「命の尊重」や「感謝の心」などなど・・・誰もが幸せに生きていくために必要な資質や能力です。
何百年先であろうと、変わらず守り抜くべき人間としての本質です。この本質を踏まえた上に、流行や変化はあるのだと思います。
人として大切なものは守り抜かなければなりません。そんな教育の忘れ物がなければ、世の中はお互いに理解し助け合って、もっと平和で幸せなものになるでしょう。
ますます複雑化していく時代の中で、変えていいものと、決して変えてはいけないものを見極め、そのバランスを取りながら子どもを育てていくことが、私達大人の大きな役割だと思います。
次の時代を担う子ども達が、心優しく逞しく生きていく力を付けていくこと、“躾けと教育”が大事な時代となってきたと思います。
生まれ育った土地(地域社会)・・・故郷です。
そこには、生い立ち…人間関係…住んでいる環境…などたくさんの要素が複雑に絡まって、自分自身が思ってもみないことが無意識のうちに潜在意識の中に刻まれていきます。
やがてそれが何かのきっかけで顕在化、つまり意識として表面化していくのだと思います。自分が生まれ育った、或いは長く暮らし続けた場所が自分のアイデンティティに影響を及ぼさないはずがありません。
ですが、多くの人はそんなことまで考えたりしないでしょう。恐らく何かしらの出来事があって、そういった考えを持つに至った、と思うのですが・・・
人間は変わり続ける生き物です。同様に身の回りの環境も変化し続けます。その中で自分のアイデンティティを証明できなくなれば、たとえ自分の生まれ故郷に長年住んでいたとしても適応障害などにならないとは言えない・・・悩みが増しそうです。
今の環境では、自分のアイデンティティを守るどころか、このままでは全てを否定され続けて身も心もボロボロになるという強い危機感さえ覚えます。ならば自分から変えていかない限り状況は変わらないと思うのですが・・・
アイデンティティをめぐる問題の根は、私たちがなんとなく感じている以上に広く深いものです。だからこそ、アイデンティティがどのような問題を引き起こし、それに対してどういった姿勢を取るべきなのか・・・
経済・宗教まで、グローバル化した現代・・・自分のアイデンティティを主張できるか、問われることになりす。故郷を基調にして作り上げた意志と、何処まで協調できるかが、将来の大きなテーマであろうと思います。
アイデンティティとは…自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。
「規範意識」
人間社会で大事なことは、「一人では生きていけない事をしっかり心得ることです」
自己中心・・・自分さえ良ければ・・・の考えの人が多くなったように思えます。一見…立派な人に見えるが「心が貧しい」「心が未発達」な人です。
子どもは大人の行動を見て育ちます。
子どもの行動や言葉遣いに注目して下さい。意外に日常的に接している大人の行動や言葉遣いに似ていることに気付きます。
子どもは身近な大人を手本にし、その言動を当たり前のこととして見、自然の内に学んでいます。つまり、大人の立ち振る舞いの積み重ねが大人の言動に影響を与えるのです。
社会ルールやモラルに即したものであればそれはほほえましいことですが、反することであれば、影響を受けたこともがやがて大人になった時、当たり前のように次の世代に連鎖していき、社会全般の規範意識が低下していきます。
「子どもたちに社会ルールやモラルを守って生活してほしい。」こどもに関わる大人であれば、誰もが思うことです。
しかし、その思いとは裏腹に「これぐらいは・・・」「自分さえ良ければ」「見て見ぬ振り」などといった、子どもの良い手本になっているとは言えない大人の姿が多く見られるのも事実です。まずは、大人が意識や言動を変えていき、子どもに良い手本を示す必要と思います。
人間は、自然の恵みを受けて生き続けられるのです。
そんなこと、言われなくとも分かっている~~~。と言っている…
あなたゴミのポイ捨てはしていないですか?
ちゃんとゴミは処分していますか?
将来の子ども・孫の世代のこと考えたことありますか?
半世紀にいた、川や山・海の生き物が今は、いなくなった種・数を減らした種…はたくさんあります。
改めて言います・・・「人間は自然と共生」です。もう一度、考えてください。
将来の世代へ自然を残しておくために、現在を生きる人が負うべき責任は多くあります。その中でも一番大切なことは生態系を保存することでしょう。
多様性が失われ生態系が壊れてしまうと、その復元には長い時間がかかる、場合によっては二度と復元できないこともあります。
地球上の自然生態系は全ての生物がそれぞれ影響しあい、絶妙な加減でバランスが取れています。人間の活動により生物の種類が減少してその多様性が損なわれると、人類の生存基盤すら脅かすようになってしまいます。
自然生態系が健全であり続け、将来もその恩恵が続く世界こそが持続可能な社会となっています。しかし長い時間をかけて築き上げた生態系に突然外来生物が入り込み、その生態系バランスが一気に崩れてしまうこともあります。
その原因としては農業やペット、研究用として入ってきた外来生物が野外に放り出されたり捨てられたりしたことがきっかけとしてあり得ます。
そのため人の健康や生命、農林水産業に悪影響を与える外来生物を国に入れることは法律で規制されています。生物のバランスこそが大事で難しい問題となっています。
この暑さ 蝉も堪らず 鳴きだした
九州の福岡・大分は記録的な大雨が続き大変な被害が、テレビのニュース連日報道されています。被災された方々には「お見舞い申し上げます。」
東京地方では、7月に入り、暑さが一段と増してきたようです。熱中症に気をつけたいものです。
夏の風物詩の一つに「蝉」がありす。
私の家の近くの片倉城跡公園の桜の木々から、蝉の鳴き声が聞こえてきました。たしか、“にいにいぜみ”だ。この蝉の声を聞くと、余計暑さを感じます。
むかし、親父が言っていた事を思い出します。7月25日北野(八王子市北野町)の天神様のお祭りに“ミンミン蝉”が聞くようになると・・・陽気は、正常(普通)と言っていたが・・・今ではどうでしょうか?
私の子供のころに「ホタル」はたくさんみられたのです、が今では見られません。
真夏に似合う風物詩は、すいか。花火。カキ氷。海水浴。風鈴。ひまわり。セミ。ビアガーデン。ソーメン。朝顔。などなどあります。
「子どもの“あいさつ”」
きのう、学校帰りの女の子に会って、私に「コンイチハ!」と、“あいさつ”してくれました。
小学校4年生ぐらい?私も、もちろん、“こんにちは”。。。。
そして、「今日はむし暑いね!」と話したら。。。
「そうですね!」「きのうも暑かったのですが、きゅうに雨がふって、少し涼しくなったのですが・・・」と続けたのです。
そして、「家に帰っても誰もいないの・・・お母さんは、近くのスーパーに勤めているの・・・家に帰っても一人なの。。。」
話す言葉、態度が“しっかりしている”…お子さんと感心しました。
「子どもは親の鏡」
「子は親の鏡」という言葉はどこかなつかしい響きがある、昔から言い古されてきた言葉であるのに、今の日本では死語になりつつあります。
アメリカの「ドロシー・ロー・ノルト博士」の詩・・・19行の詩がありますが、忙しいあなた、是非一度読んで欲しいと思いました。
あなたの子どもはどんな環境で育っていますか?
教育学者の森信三先生の 「しつけの三原則 」
(一) 朝のあいさつをする子に。
それには先ず親の方からさそい水を出す。
(二) 「ハイ」とはっきり返事のできる子に。
それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。
(三) 席を立ったら必ずイスを入れ、ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。
私は、子供の躾けは、やり直しができないものと思います。私には孫のいます。「子どもは親の鏡」の大切を痛感しています。
私たちのまちの豊な自然と、人のつながりを大切にしよう。
私たちが“このまち”で当たり前のように生活できているのは、先人たちが築き上げてきた環境があるからです。そして、近年はインフラなど様々な面で時代が進化しているからです。
しかしながら、この恵まれた環境を、生かしきれてないのも現状ではないでしょうか・・・時代の変化によって起こっていることならば、自分たちで未来を創り上げていかなくてはならないと考えます。
誰かがやってくれるのではなく、私たちが時代を切り開いていかなければなりません。先人たちに与えられた環境を、さらに次世代に残していくことが私たちの使命です。
そのためにも、まちに対しての意識を変えていく必要があります。その先にあるのが「明るい豊かな社会」ではないでしょうか・・・
過去から現在そして未来へ・・・つなぐ教育
子どもたちが、この先、幸せを感じながら生きていけるよう、子ども自身の成長を支えるだけではなく、生きやすい社会を未来に残していかねばなりません。
「教育」には、社会を根っこから変える力があると思います。発達過程にある幼い子どもにとって、教育環境は外から受けるものであり自ら選ぶことができません。
子どもの一番近くで、その教育環境を創っているのは、私たち「現場の大人」です。だからこそ、私たち大人は、学校教育から数十年離れていても、あらためて今の教育問題に深く向き合い行動すべきではないでしょうか・・・
「家庭」と「学校」がつながる、「学校」と「社会」、「子ども」と「社会」がつながることで、子どもは幸せな社会人になっていくための準備ができるのではないでしょうか・・・
「現場(親・教師・子ども)の声」と「行政」がつながることで、教育を皆のためになるものへと変えられないでしょうか・・・
子どもと親、学校と地域、学校、教育改革者と世論など、「教育」というものの中には、関係を深め協力しあうべき事柄が多く存在します。
私は、それぞれの関係をよりよいものへと、変革することで最終的に「教育」が「子どもの明るい未来」に“つながる”とになると思います。
人は誰でも「認められたい」という願いをもっています。
私たちの行動の多くは、意識する、しないは別として、この「自分を認めて欲しい(ほめられたい)」という心理動機から出ていると、心理学者は語っています。
ですから逆にいえば、相手を心からほめることができれば、私達も人間関係の達人となることができるのです。
人間は最終的に何を望むのか?
◎ 認められること
それは、「世に理解されることであり、世に認められる」ことです。
理解され認められれば、それをきっかけに更に励む・・・それによって、社会の活力が増進し皆がその恩恵にあずかることになるのです。
この人たちから黙殺、または軽悔されるのは死ぬより辛い・・・逆に自分が周囲から認められているという手応えを得たときの喜びは何事にも替え難いものとなるのです。
「人間は死ぬまで、私を認めてほしい、声なき声で叫び続ける生き物だ」と思います。
◎ 褒められること
同じ仕事をするのに、叱られながらするのと、ほめられるのとで結果は・・・
「よくやってるね!」とほめられ励まされた方が、良い結果が・・・「もっと早く!」「なにやってるの、しっかりやりなさい」・・・と怒られながらとでは、結果は違ってくると思います。そして、人間関係に大事な「信頼」が醸成されるのです。
過去(歴史)から学ぶ
私は、誤りを避けるためには、「自分の過去の経験」と「他人の経験から学ぶ」ことが大事だと思います。
ドイツの名宰相ビスマルクの言葉・・・
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」があります。
独りよがりな愚か者は学ぶことなく行動し、その結果失敗して初めて間違いを知るが、賢明な者は先人の知恵及び知識から予め言動の是非を知り、実際に行動する際に失敗しない、という意味だと思われます。
先人の知恵及び知識を知ることは、歴史を学ぶことに通じますが、単に歴史を勉強しろ、と言ったわけではないと思います。
人は、自分の独りよがりな考えによるのではなく、「多くを学ぶと共に、他人の話をよく聞いてよく考えること」が大事だと思います。
人間、毎日顔を会わせていると感謝を忘れ、「ありがとう」という言葉が大事と感じています。子どものころ、朝ごはんを食べる前に「いただきます」食べ終わると「ごちそうさま」と親に言われたものです。
いまでは、ある学校で母親が『子供に給食の時間、「いただきます」を言わせないで欲しい』という申し入れがあったそうです。給食費をちゃんと払っているのだからいいのではないか・・・
「確かにそうかもしれない?」
しかし、今、もっとも大切な事が忘れられていると思います。それは相手を思いやる心、感謝の気持ちだと思います。
恩を知り、他人に情けをかけられる人こそが、人を慈しみ、みんなに幸福を与えられる人です。自分に都合のよいことばかり期待して、自らは善行を心がけず身勝手なのは人間とは呼べません。
お金を貰っているとか、払っているとかに関係なく、自分が今生きていけるのも多くの人やものそして、社会の存在があるからだと感謝をし、有難いと思います。その心の余裕と思いやりが必要です。
「拝金主義」「勝ち組」「負け組」などと心の通わない言葉で、一人の人間を判断してしまう今だからこそ、子供達に、多くの人の手が掛かっている、食べ物の大切さを、知らせるために「いただきます」「ごちそうさま」の「感謝の心」は伝えていかなければならないと思います。
「日々新又日新」
殷の湯王(とうおう)という人は顔を洗う洗面器に、「苟(まこと)に日日に新たに、日々に新たにして、又た日々に新たなり」・・・と、貼り付けておられたということです。
「苟に日に新たに、日々に新たにして、又た日に新たなり」
「毎朝顔を洗うがごとく、心も毎日新しくならにゃいかん。」と言うことです。毎日新しい心で、ということは何にも一物も持たない心で新しい世界に触れていくならば、この世界は新しい感覚で見られるということです。
きのうの太陽が出ているようだけれども、厳密に言うたら、あれだけ熱量を発散したら昨日の太陽と今日の太陽とは熱量が違うはずです。
野山の草木を見ても、きのう美しい花が咲いていても、今日は咲かない。水の流れは毎日違っています。
自然の世界は毎日新しい・・・人間の心だけが古いところにこだわっている・・・。私たちの人間の体でも新陳代謝して、昨日の細胞と今日の細胞とは違うのです。
すべてが新しくなっていくのですから、心も新しくして・・・
きのうのことは忘れて・・・
きのう喧嘩したことは忘れて・・・
きのう人を恨んだことは忘れて・・・
良いことも嬉しかったこともすべて忘れて・・・
新しい心で今日を迎えていくということです。それが本当の人間の生き方の「原点」であり、正しい生き方であると思います。
核家族化と地域のコミュニティ
最近、近所付き合いのない世帯や高齢者の一人世帯での孤立死、若者の引きこもり、子どもや高齢者などへの虐待などが社会問題となっています。しかし、残念ながら孤立死や虐待などは事件などが生じて初めて状況が公になることがほとんどです。
この背景には、個人主義やプライバシーが過剰に意識されすぎる傾向にあるため、他人の生活に立ち入らないといった意識や、お互いに干渉し合わないことが無難であるという意識が定着している現代社会の風潮があります。
わずらわしいことには知らないふりをするのが一番楽だと思っている人も少なくありません。これでは人々はますます孤立化し、さびしい地域社会になってしまいます。
「安心して生み育て」「安心して老いを迎えることができる」まちを創るためにも、地域から孤立している世帯などをみんなで見守ることで、お互いに安心して暮せるのです。
「福祉コミュニティ」を醸成・・・
隣近所で助け合い・家族と個人の力・公助・共助の精神など無知・不足?また、誰にも相談できずに日々の子育てにひとりで悩んでいるお母さんや、外出することが難しくなり生活の困りごとを抱えている高齢者の世帯などに、救いの手を差し伸べることのできる、地域づくりも進めていかなければ・・・と思います。
「我がまち意識」
自分が住んでいる「まち意識」を持つことは、環境美化活動につながることでしょう。「美しいまち」には犯罪者は、入り込みづらいものです。
青少年の参加による美化活動が盛んに行われている地域では、青少年の規範意識が高く、青少年による犯罪や非行が少ないことも知られています。住民による環境美化活動の促進は、犯罪を行いにくい状況をつくるのです。
近年、少子高齢化がスピード増しています。私たちのまちも、環境は刻々と変化しており、またこれからも変化し続けることに疑いの余地はありません。
私たちのまちの環境も、今後とも加速度的に変化するものと思われます。このような急速な変化は、個々人の生活にも大きな影響を与えています。
また、グローバル化や少子高齢化、人口の減少も、地域の町内会・自冶会のあり様に少なくない影響を与えています。
こうした中で、地域社会で、一番重要な資源・資産とは何か?それは「人」です。一人ひとりの「環境美化に対する意識」持って、安全で安心できる「明るいまちづくり」に携わっていくことです。
最近の世の中のトレンドは、価値観の多様化です。そして、かって経験のない、外国人の地域住民の仲間いりする状況です。ますます多様な個が集まりとなってきて、相互に協力し合い、組織の力をまとめることが、一層大事になってきています。
独り暮らしのワンルームマンションでの住人
住民票を移さない、期限付く入居者・学生や短期労働者など・・・隣にどんな人が住んでいるかもわからない状況もあります。挨拶もないですし、ちょっと子供が騒ぐとクレームになってしまうかもしれない。
そうした現実から見ると、やはり人と人との信頼関係がなくなっているのかなと思います。都市における、こうした課題を解決するためには、自然災害・防犯などで、地域の人との信頼関係を作っていくことが重要だと思っています。
心地よいつながり
プライバシーも当然重要で、つながりを深めることで窮屈になる・・・というのは避けたいものです。コミュニティがあり、プライバシーもあり、短期居住者問題は、難しい課題となってきています。
最澄の教えに「忘己利他」【己を忘れて他を利するは、慈悲の究極なり】があります。
「忘己利他(もうこりた)」とは、自分を忘れて他人のために尽くすことです。人間同士がうまくやっていくための秘訣は、相手を尊敬し、相手を第一に考えることです。すなわち、忘己利他の精神です。
そうは言っても、実はそれが一番難しいことです。自分がかわいいからどうしても、自分を第一に考え、自分が得をしよう、自分が楽をしようという気持ちが先に立つ。相手を気づかう気持ちは二の次三の次になるのです。
しかし、考えてみれば自分一人がうれしいというのは、そこで完結してお終いです。それに対して、相手が喜ぶのを見てこちらが、嬉しくなるというのは大人の喜びであるとも言えます。
ただし、他人に利益を与えるからといって、見返りを期待する気持ちは持ってはならない。「情けは人のためならず」という言葉もありますが、これには(密かに)見返りを期待する心情が感じられ、忘己利他ほどには精神が高尚ではない気がします。
忘己利他はあくまでも見返りを期待しないのです。根本のところで忘己利他の心があるか、ないか。そのことが、その人の品格を決めるといってよいでしょう。
親は子に、何の見返りも求めないものです。
たとえ危険を冒しても子の安全を保とうとします。親が自分の身の危険を顧みずに子を護るのは、人間にかぎらず、すべての動物の本能のようなものです。
だが自分本位で子の幸せや安全は二の次であると、自己中心の行動をとる親もあるようで、そのために子が悲しい結果に遭うということがあります。
親は自分を犠牲にしても子を育て、子にその見返りを求めない。子育ては忘己利他そのもので、愛情いっぱいに育った子には大人になっても忘れないこととして、他を大切にする心が育まれています。
「人の役に立つ人」
むかし、母親に「人の役に立つ人になりなさい」と言われた事を覚えています。
人の役に立つ人とは・・・
相手の気持ちになって行動出来る人。周囲を気遣いつつも意見が言える人。思いやりのある人。優しくて親切な人。いざという時に頼りになる人。責任感のある人。正義感が強い人などでしょう。
人の役に立つというのは、いろんなシチュエーションで変わると思いますが、身近な存在なら悩みを聞いてくれる人って大事です。内容によっては、誰でも話せないけど、この人だったら…人が身近にいたら正直気が楽になります。
また、仕事で困ってる時に、何気に声を掛けてくれて、さりげなく助けてくれる人も、こいつイイヤツ、頼れるなって思います。
要は、その人「必要な時に思う役立つ人」です。自分が困ってる時に…こんな助け船を出してくれる人いないかな?って思う時に、自分が「そんな人」になればいいんです。
利他的行動
辞書では… みずからの利益を犠牲にして他の個体を助ける行動。
共生きの世です。世の中では今、何を必要としているのか・・・
世の中で必要なことをしっかりと自分で見つけだせれば、それが仕事になり、生きていけるはずです。また必要とされる人格、必要とする能力をそなえた人ならば、世の中は必ずその人を必要とするでしょう。
功徳を積み重ねて、自らの功徳を他の人にめぐらせる…。功徳を持った人、行動する人が多い世の中になれば、世は平和になるのです。
今の世の中、America First・都民ファースト・マイファースト?(自己中心【egocentrism】)的な考えの人が多くなたように思えます。
「他を幸せにしなければ、自らの幸せはない」、人生は利他行です。
この利他の願いを持ち続ける限り、その人は優秀であり、価値のある人間です。自分に満足できる生き方は利他行により可能になるでしょう。
生きとし生ける命は、お互いに生かし合っている。。。どんな命も欠くべからざる存在であり、どれ一つが欠けても他を生かせないのでしょう。どんな生き物でもその命は自然のめぐりによって親のもとに生まれた命です。
どんな人でも自然のめぐりによってこの世に必要だから生まれてきた、かけがえのない命です。そして、この世に生きているということは、自分のために生きているのではなく、他の命のために生きているのだという、利他の根本原則があります。
生かし合うのが生きものの姿です、どんな生き物も、命を生かし合っているから生きていける。大きな命の循環に気づきたいものです。
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