加齢ということ
先だって、ちょっとしたところで転んでしまい痛いおもいをしました。岸信介の「転ぶな・風邪ひくな・義理を欠け」を思い出す…私はもう一つ「怒るな」を付け加えて、自分を戒めるようにしています。
他に80歳近くになり、年を重ねることで初めての経験で「加齢」ということは、こういうことなのかと、実体験しています。「誰でも通る道」と思い…この先如何に上手に暮らしてゆけばいいのか焦りさえ覚えます。
加齢ということ
体力も気力も衰え…何をするにも持続力がなる…疲労の回復力も低下…体力が落ちるとちょっとしたことで足腰に疲れがきて、筋肉痛になったり、歩行さえも困難になります。動作がとろくなりつまずいたり、転んだりします。
歯が抜けてかたいものが食べられなくなり、耳が聞こえにくくなり、視力も衰えてきます。物忘れがひどくなり、思考回路も衰え判断能力が弱くなるのです。これまでにできたことが、できなくなり、何をするにもついおっくうになってしまいます。
病にかかりやすくなり、快復力も衰え精神的に気弱になる…そして、やがて自分で何ごともできなくなり、他の人の力を借りなければ、生活できなくなるということです。
超高齢化時代になり、先輩たちが経験したことのない長寿の時代をどのように生きるか、今、このことが課題です。老いにともない悩みや心配ごとが増えるにつれて、わがままな年寄り根性が強くなるけれど、老いることで悪いことばかりではないはずです。
年の功で、人生経験が豊かになり多様な判断能力が身について、なにごとにも偏らずに多角的に理解しようとします。相手の気持ちも受け入れようとする寛容な気持ちの余裕もできて、自己本位の思いをおさえて、相手の立場に立って理解できる…
また、人をおしのけて進むことよりも協調性を重んじたり、対決軸を持とうとしなくなります。このような「老人力」をどのように社会的子孫繁栄のために発揮するのか、これが長寿の課題です。
人も、そして、生きとし生きるものも、どうしてこの世に生まれてきたのか、そして生きている意味とはいったい何なのか…それは、それぞれの生き物が子々孫々に繁栄していくということに意味があるのでしょうか…
いずれの生き物も、それぞれの命が受け継がれてきたから、その命を子々孫々に繁栄させるということが、生まれてきたこと、生きることの意味だといえそうです。その能力に陰りが見えてくると、死滅に向かうことになるのでしょう。すなはち老化がすすみ、やがて死んでいくのです。
それでは、体力的にも精神的にも若々しく保てれば、老化の進行を遅くできるでしょうか…老化の速度を遅くすることで長生きできるかもしれませんが、いつまでも若くありたいと願う気持ちがあっても、長生きの条件がそろわなければ、老化の進行をゆっくりとしたものにできないでしょう。
人間という生き物は他の生き物とちがって社会的生き物であるから、社会的にも子孫繁栄に貢献できるということが長生きの条件に付加されます。
だから、社会的子孫繁栄のための貢献能力とは、年齢にかかわらず、その人の存在が世の中にとって必要であるか否かということでしょう。
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