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2016年5月

2016年5月31日 (火)

人を結び、時を結び、地域を結ぶ

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人を結び、時を結び、地域を結ぶ…つながることで、みんなと一緒に生きる意識を高めることが大事な時代になってきたと思います。

私たちの地域の中には、高齢者や障害者、お子さんをはじめとして、何らかの手助けを必要としている人が暮らしています。こういったかたが地域で生活する上で、頼りになるのは、家族であり、友人であり、そして近隣の人たちです。

しかし、核家族化や人間関係の希薄化などで、助けを求める"SOS"を出せない人がいて、不幸な事故につながることも少なくありません。そこで今、地域全体で支え合い助け合う、「小地域福祉活動」が注目されています。

小地域福祉活動とは…

身近な地域で支えあうしくみを築き、主人公である住民の皆さんが、それぞれの地域の困り事や心配事などの、解決に向けた方法や活動内容を考えて、地域の皆さんで取り組んでいく地域活動です。

ご近所の見守り 

声かけ活動の普及

生活環境の改善

地域住民の安全確保

地域住民の交流促進

災害時の要援護者支援体制づくり

2016年5月30日 (月)

清掃ディで思うこと

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清掃ディのこと

私たちの町…八王子市片倉町一丁目町会では、八王子市の「町の清掃ディ」で町会主催で清掃活動を行いました。朝の8:00~9:00の1時間

参加者は140人で、お年寄りから小学1年生の子どもです。成果は、ボランティア袋30袋のゴミが集まりました。

地球が抱える環境問題

異常気象・・・地球温暖化・・・オゾン層の破壊・・・酸性降下物・・・森林破壊・・・砂漠化・・・動植物の絶滅・・・石油等の資源・・・取上げるときりがありません。しかし、環境問題の原因の殆どが私たち人間であると、言うことを認識することが、環境保護の第一歩だと思います。

私達が生活するうえで環境破壊は、避けては通れない道なのかも知れません。しかし、破壊するのが人間ならば、保護する事も出来るはずです。

環境問題を考える

と言うと「個人の力じゃ無理」と思ってしまうのも分ります。本気で環境保護をするなら江戸時代のような電気も車も無い生活をしなければなりません。私達の生活においてほんの少しでも環境に優しい選択をしていけば…それで良いと思います。

一人ひとりの少しの努力がやがて大きな力になると思っています。

きれいな街や山・川・海…公園・道路は、人が「きれいにしよう」…と、その気にならないと悪くなるばかりです。みんなで協力し合って、環境を良くしていきましょう。

香る 香る 若葉が香る

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保育園の子供たちは…

キラキラ光る緑の葉っぱの下で、元気に走っています。

遠い昔を思い出しました。

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「♪香る 香る 若葉が香る…」
 

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さわやかな風に子どもたち…
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髪をなびかせて走っています。
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五月は、生き物が活動する…
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虫たちも…魚も…鳥も…
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小学校3年生の頃…田中先生のオルガンで、歌って思い出しました。

作曲者 平岡 均之 ・作詞 松永 宮生
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(1) 鮮やかな緑よ
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明るい緑よ 
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鳥居を包み 
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藁家(ワラヤ)を隠し
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香る 香る 若葉が香る
 

(2) さわやかな緑よ 

 豊かな緑よ  

 田畑を埋め 

 野山をおおいそよぐ 

 そよぐ 若葉がそよぐ

 

2016年5月29日 (日)

町の清掃ディ

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今日は八王子市では町の5月30日(今ゴミなしディ…今年は、今日29日です)です。私たちの町では例年120~130名のみなさんが、ゴミ拾いなどの清掃活動に、参加していただいています。(8時30分広場集合)

国道16号の歩道・湯殿川の河川管理通路の両側のなどの、ゴミ拾いをしていただきます。大きくなった雑草の中にゴミを投げ捨てる人がいます。草におおいつくされてしまっているゴミが多いのです。

河川管理通路の除草

空き缶・ペットボトル・ビン・プラスシックなどは自然に、溶けてなくなりません。そればかりか有害の物質になる恐れもあります。そのため、除草が必要です。除草と言っても、大きく伸びた草を鎌で刈ることは大変です。(一昔までは草刈は町会で刈っていたのですが…)

役所(南多摩西部建設事務所)に、除草のお願いをし、大きくなった草(主にオーチャードグラス・イタドリ)を3日かけて、刈っていただきました。

規範意識を持って欲しい

誰でも、きれいな湯殿川・きれいな公園・広場…美しい町に住みたいと思うでしょう。きれいな町を維持していくのは、住んでいる私たちの一人ひとりの心がけです。

小さいゴミだから…タバコに吸い殻一本ぐらい…植え込み・雑草の中で見えないから…良いだろう?という人もいれば、無意識に捨てる人もいます。特にタバコの吸い殻・飴など袋など捨てて当たり前?と思っているのではないかと思うほどです。

そのまま放置すると、環境はもとより・犯罪に繋がると言われています。「私たちの町は私たちで守る」…意識して欲しいのです。

2016年5月28日 (土)

最近のニュースで思う

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オバマ大統領の広島訪問と舛添東京都知事の政治姿勢でテレビや新聞で、連日大きな話題になっています。

オバマアメリカ大統領

まず、アメリカの現職大統領として、広島訪問を実現したことは、被爆者の9割超がオバマ大統領の広島訪問を評価しています…(NHKデジタルニュース)

背景には、オバマ大統領に今も大きな期待をしているからでしょう。オバマ大統領には被爆の現実を見て理解してもらい、具体的なアクションにつなげてほしいという気持ちが現れていると思います。

謝罪を求める意見が少ないのは、単純に忘れたとか許したのではなく、魂に染みついた悲惨な体験だから本当は許せないが、それだけでは前に進めないと悩んだ結果のことでしょう。世界のトップリダーとして、オバマ大統領の核廃絶の決意を求めているのです。

舛添東京都知事

色々な人から批判されていますが、問われてくるのは舛添都知事のリーダーとしての資質です。頭が良く、5カ国後に堪能・母親の介護の話は驚きですが、著書などに書かれていることと、いま報道されている行動・考え方は東京都民には理解できないものです。

舛添都知事は、高い梯子に登っていて下界を見下ろしていているが、強風が吹き、そして、足もとが崩れそうで、見ていられない光景をイメージされ不安過ぎます。

政治とは…

人間というのは、一人で生きるのではなく集まって社会というものを形成しています。人間一人一人は、価値観も違えば、利害もあります。しかし、みんなが勝手なことを言っていれば、社会は崩れて無茶苦茶になってしまいます。

本来人間は動物ですから弱肉強食の本能を持っていて、そのような状態になれば殺し合いになるでしょう。もしそうなれば、その集団の繁栄はないでしょう。なぜなら人間一人一人は、みんな得意分野も違って役割分担があるからです。

つまり喧嘩が強い人ばかりが生き残っても人間の社会は、発展しません。その紛争を解決するために、政治というものがあるのです。

つまり政治というものは、ある集団があった場合に内部で対立が起こった場合に話し合って全員が納得のいくルールをつくって、対立をなくして秩序のある集団にするための手段です。

その集団でルールに従わず秩序を乱すものは、警察力によって罰を与え服従させます。政治の治めるとは、秩序を作るという意味です。

政治は信頼が大前提です。考え行動がぶれない一貫性が大事です。オバマ大統領の核廃絶思想を形で示して欲しいものです。そして、舛添都知事は都民の声をしっかり聞いて欲しいです。

2016年5月27日 (金)

夏草を刈る音

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夏草の 刈る音がする 湯殿川

八王子市は、5月30日…(かけてゴミなしディ…)

全市一斉に「町の清掃ディ」と決められいて、今年は29日(日)です。地域のみなさんが、町の道路・河川管理通路のなどの清掃をします。

その前に、湯殿川の草刈を、西部建設事務所にお願いしました。通勤・通学・買い物などで利用している河川管理通路です。今年が、厄介な外来種の“オオキンケイギ”クの黄色い花が咲いてきれいですが除去し…草刈するのです。

草刈は、色々な機械で刈りますが、エンジンの音が響きます。1メートル以上の伸びた、牧草のイネ科のオーチャードグラスを刈り、通路が気持ちよく、広くなったような気がします。

老いを生きる

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「何時までも元気でいたい」

…と思いますが、老化を防ぐことは出来ません。老化がすすむと、体力も気力も衰えてきます、何をするにも持続力がなくなり、疲労の回復力も低下します。

筋力が落ちるとちょっとしたことで足腰に疲れがきて、筋肉痛になったり、歩行さえも困難になります。動作がとろくなり、つまずいたり、転んだりします。

老いにともない、物忘れがひどくなり、思考回路も衰え判断能力が弱くなる。これまでにできたことが、できなくなり、何をするにもついおっくうになってしまいます。

病にかかりやすくなり、快復力も衰え精神的に気弱になる。そして、やがて自分で何ごともできなくなり、他の人の力を借りなければ、生活できなくなるのです。

心の鮮度保つ

いつも心の鮮度を保つことが大切です。そのためには、心が感動するように行動することです。そして、「あなたの存在が必要なんです」と、そう言われるような人間関係にし努力したいものです。

だれでも老いを感じはじめると、時の流れもいっそう速やさを、感じて老いを嘆きます。この世の中の何もかもが一瞬たりとも同じ姿をとどめない、すべてのものは移り変わっていく…無常とは変わることだと知っていても、どのように、またいつ変わるか予想できません。

そして自分の思い通りにならないことばかりです。だから不安であせりいらだつのでしょう。「すべてのものは苦なり」と、それが事実だと受けとめるところに安らぎが得られるのでしょう。

視点を変えてみる

私たちは、意識をしないと、悪いマイナスの情報ばかりが飛び込んできます。人間関係でも、相手の悪いところや、悪い癖ばかりが目につくようになります。

今日できなかったことではなく、できたこと、自分に足りない資格や経験ではなく、自分にすでにある力、相手に対して頭に来た点ではなく、自分にはない、よいところこれは習慣なので、毎日練習することで誰でも身につけることができると思います。

私は基本的にはマイナス思考で、いつも自分には、たりないないものばかりを嘆いていましたが、あるときから、自分にあるもの…できること…に意識を切り替えてみました。

不思議と自信が湧いてきたことをいまでも覚えています。見る対象を変えることで、自信も身につけることができるのだ…と思います。

私は、こんな考でこれからの人生を歩みたいです。

2016年5月26日 (木)

良心の呵責と心のふるさと

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今の日本の社会は様々な考えられない事件が起っています。

「誰でもいいから殺したかった…」

「自分さえよければ他人のことなどどうでもいい…」

何か大切なことを忘れて来ているように感じます。

「良心の呵責」という言葉が死語になりつつあります。

「人は誰でも良心(何が善で何が悪かを判断でき、それと同時に自らに善なる行為を命じ、悪なる行為を退けようとする意識。)を持っているのです。良心に背く(そむく)行動を取ると、罪の意識に責めさいなまれてしまう」という意味です。

私もよく良心の呵責に苦しんでいます。いけないとわかっていても、ついついやってしまうことって、多いのですものです。

良心とは誰でもが持っている「心のふるさと」ではないでしょうか。家庭の中で親子の関係を通して育まれる「愛」の思い出も「心のふるさと」ではないでしょうか…そして地域社会の人にも役目はあると思います。

「心のふるさと」…子どもに大切な「心のふるさと」を伝えるのが親の役目です。

「プロセスをみてあげよう」

今の子の夢は現実的です。結果だけを見て褒めているため、失敗が怖くて大きな夢が持てない… 子どもが頑張っている姿を肯定的な言葉で褒めて欲しいものです。

「いいぞ、いいぞ…そうそうそんな感じ」と声をかけ、頑張りを認めてあげる… 躾けは怒ることではないのです。夢は生きる希望です。親も夢を持つことです。

昨日、湯殿川の河川管理通路のゴミ拾いをしていて…
公園で遊んでいる子ども達に出会いました。

「そこのゴミ拾って!」と言ったら~

「ハイ!」と返事し、3人の子供が拾ってくれました。

「おじさんゴミ拾い…毎日ご苦労さん」と声を掛けられました。

「後の人が気持ちよく使ってももらうようにしようね…」

「ハイ」と返事が返ってきたのです。

この行為が子ども達の心のふるさと(大人になって)残って欲しいもです。

2016年5月25日 (水)

子どもの公園の遊び方で思う

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公園で遊んでいる子どもの行動で思う。

最近は、子どもが、学校から帰ってきても、夫婦と共稼ぎで、母親がいないお宅が殆どと思います。ちょっと昔のことですが、少々の生活費が少なくなりますが、専業主婦で子育てすることが、子どもの教育には大事なことだと…という教育評論家の意見がありました。

学校帰って、家に鍵で玄関を開けて誰もいない…いつものようにおやつが置いてあり、それを持って公園に遊びに行き友達と遊ぶ…遊んだ後はおやつを食べ、ジュースを飲んで、お腹を満たす?

して、食べたリ飲んだりした容器(ペットボトル・空き缶・お菓子の袋など)を所定の場所がないとそのまま捨てて帰ってしまう。「ゴミは持ち帰りましょう」と分りやすく表示されているのですが、守られていないのです。

子どもの成長は徐々に、行動範囲が広がっていきます。これでいいのだ(ゴミ入れがないのでゴミを公園に捨てて行く…めんどう…みんながやっているから…)と思うってしまうのです。

公園は多くの人が使うもの、後で使う人の事を考えて欲しいものです。掃除する人がいないので、ゴミは増えるばかりです。ベンチや遊び器具が壊される…そういう公園では、道徳教育・規範意識が不十分のまま大人になっていくことに、危機感を覚えます。

子どもは両親からの暖かく・厳しい躾けが大事で、特に人間社会に必要な、マナー・ルールの大切さ、守ることの規範意識をしっかり教えることが大事です。

それは毎日の積み重ねです。このことは地域社会全体で考えて欲しいと思います。

2016年5月24日 (火)

5月になって花粉症で悩む

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花粉症…と言えば、2月~3月の「杉」「桧」を頭に思い浮かべるのですが、この時期(5月)に何かと言えば…

私の家の近くに湯殿川が流れています。その湯殿川の河川管理通路に「イネ科の植物かもがや(オーチャードグラス)が、毎年この時期(5月)に実ります。

むかし子供のころ、親が酪農で、レッドクローバーなど共に畑に作っていた事を思い出します。まさかその子孫ではないと思いますが、レッドクローバーと共に、毎年生えています。

両方とも、生命力が強いのです。刈っても刈っても、根があるうちは秋まで3~4回蘇生知るようです。多くの人がこの時期に花粉症で悩んでいるようです。

共生社会と町会費徴収について

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「遠い親戚より、近くの他人」「困った時には相身互い」と言う事葉があります。

人は一人では生きていけません。地域社会で生きることは、助け合いの互助の精神が大事です。地域社会に生きるには、地震などの自然災害は何時やってくる分りません。突然の非常の時には、遠い親戚で間に合いません。お隣の人に助けが必要となってくるのです。

共生社会

この社会には、同じ人は誰一人いません。年齢・障害の有無・身長・体重・聞き手・家庭環境など全て皆違います。さまざまな違いがある人々が、それぞれが自立し、相互に支え合い、主体的に暮らしていけること…

全ての人々が社会から阻害されることなく、人間として生きることが承認され、支援体制が確立されている社会…これが共生社会です。

誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会です。共生社会の構成員は、いわゆる生産活動に従事している(できる)年齢、身体状況、知的状況を有するとされる人々だけではありません。

共生社会に生活するということは、健常者にとっても安心して暮らせる社会です。私たちは現在の健常者ですが、弱者予備軍です。やがて老いは必ずやって来ます。もしかしたら、若いうちに事故や病気で機能障害が発症するかも知れません。

そのようになったときにも堂々と主体的に生きていける社会に生きているならば、健常なときにおいても将来の不安を抱かないで生きていける社会であり、安心して暮らせる社会といえます。それが共生社会なのです。

地域社会を構成するには、それぞれが自冶会・町会組織が必要です。市・町と各家庭の情報の伝達役…組織の問題を提起し、私たちの暮らしが安心・安全を守り維持向上を図ることです。それには会費が必要です。

自冶・町会費の徴集について

決められた会費は、現状は、各班に細分化し班長さんが集めている組織が多いと思います。私たちの町会の集め方は、班長さんが各家庭を訪問し集めることにしています。

各家庭を訪問することで、コミュニティが図られるメリットがあります。しかし高齢化し、集めることが大変という意見もあります。

口座振込みの自冶会もあるそうです。毎月の会費(400円)を金融機関より引き落とし(口座振込み)…班長さんの負担がなくなりますが、それには、引き落とし手数料(105円)が、問題となります。

確かに不在等で何回も行かなくてはならないので大変です!でも、お年寄りだけの家庭を回る事によって、病気になってないかな?とか、子供が泣いていたら、もしかして虐待かな?と気を配るのも、役目では??

2016年5月23日 (月)

夏近し

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公園の 桜の木々は 夏近し

季節の移ろいは早い。

2ヶ月前に、お花見で連日賑わった・・・

片倉城跡公園の桜は、青葉と変わりました。

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片倉の集いの森より

高尾山方面を眺めると・・・

陽射しの強さは、夏を感じます。


2016年5月22日 (日)

わが人生を考える

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子の曰わく、 吾十有(ゆう)五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。

 現代語訳 

先生がおっしゃった。「私は十五歳の時、学問を志した。三十歳の時、何者にも動じない立場を持てるようになった。四十歳。迷いも無く、やるべきことをやったよ。五十歳でようやく天命を知るに至った。六十歳ともなると、人の話を素直にきける余裕も出てくる。七十歳。もはや心の思うままにふるまって、しかも道義から外れることが無い、こういう境地に至ったのだ。

これは中国の孔子の言葉です。73歳で亡くなりましたが、2500年前の人ですからその時代では長寿だった。日本は、超高齢化社会が急速に到来・・・平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳(2014年)です。

今、この時代を生きるものにとっては、先行きの生活不安を思いながらも、長寿を願っています。自らの行く末や、親や伴侶の介護などについても、これほど多くの人々が思い悩むという時代はかつてはなかったことです。 

かつて人生50年といわれた時代では、人は誕生から成人するまでの成長期の20年間を除くと大人期間は30年間を生きました。これにくらべて人生80年の現代では大人期間が60年を超えますから、2倍の人生を生きるという計算になります。

人生50年の時代では還暦をむかえることは人生の終焉を意味していましたが、今日の長寿の時代では、大人期間の中間点という思いを持つ人も多いようです。自分の思い通りにならないのが人生だとわかっているけれど、だれでも自分の5年先、10年先のことを思うものです。

稲盛和夫氏の名言

時代がどう変わろうとも、人間の本質は変わらないのです。誰しも人間は人生で善きことを追求し、後世に何か価値あるものを残すことによって、「永続性」を達成したいのです。

「仕事に打ち込んで、世の中の役に立つことができました。私は幸せです」と言えるような満ち足りた人生を送ることを、誰もが望んでいるのです。

私は70代後半ですが「生きているかぎり、人と社会の役立つ事をして…生きていたい」と考えています。

2016年5月21日 (土)

現役老人のつぶやき

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老後とは漢字で老いの後と書きます。

今、私は老人の真っ最中で、現役の老人です。

「老後」とはいくつのことを言うのか…人によって捉え方がさまざまです。

例えば経済的な側面から見て、公的年金や退職金以外に準備した資金を生活費として使いはじめる年齢を老後生活の開始時期とした場合、何歳頃からと考えているのか(何歳頃からだったか)を調査で見ると平均64.6歳となっています。(老人保健文化センター)

現役老人には老後はまだ先、命尽きるまで人間の現役と言う人もいます。

諸行無常

この世のすべてのものはみな変化しています、生きとし生けるものの変わり方はとくに早く、人の命など朝露の日に照らされて消えるが如くであります。

変わらぬと思い込んでいる古郷の山や川でさえ、悠久の時の流れのなかにあります、まさにこの世は無常です。

人はこの無常なることに気づくとき、はじめて命のはかないことを深く思い、かけがえのないこの命を、慈しむ心がうまれる。今日、この時をぼんやりと過ごさず、その日、その日、その時、 その時を、大事にしなければならないと思っています。

「昨日があったから今日があると思い、今日があるから明日があると思い、いつの間にかそれが当たり前となって、アッという間に一年、アッという間に十年、アッという間に一生」

本当にアッという間の70年でした。今年は戦後71年…今、話題になっているオバマ大統領の広島訪問…どんな声明をするのでしょうか…私は、小学生でしたが後に原子爆弾と父親から聞きました。多くの人が犠牲になり、いまだに苦しんでいる人がいるのです。

過ぎ去った日の自分を振り返ってみて、我が人生に悔いナシと、言い切れるでしょうか… 

2016年5月20日 (金)

きれいな花でもダメ

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日本では  キンケイギクよ 咲くとダメ

私の家の前の湯殿川は、今黄色い花(オオキンケイギク)がきれいに咲いています。

この花は外来種で(北米)です。

物凄い繁殖能力を持ている草で、在来種に大きな影響を及ぼす草です。

5月29日の八王子市の町の「清掃ディ」前に南多摩西部建設で根から除去してもらいます

オオキンケイギクのこと

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外来種「オオキンケイギク」…

いま、湯殿川にオオキンケイギクの花が、きれいに咲いています。この草花は外来種で、昨年、役所(南多摩西部建設事務所)で除去しました。黄色できれいな花ですが、外来種だからなのです。そして今年も咲いています。

オオキンケイギクは、外来種の防除の対象種です。

防除に関する基本的なことは、野外に放たれたり、逃げ出した特定外来生物は、放置しておくと分布を拡大しながら、在来種(その土地に元からいた生物)の生息・生育を脅かしたり、農林水産業に被害を及ぼすなど、様々な被害を及ぼし、在来種が絶滅に追い込まれてしまう場合もあります。(環境省)

昨年、根から扱いて完全になくなたと思いましたが、今年も咲いていることは、繁殖力の強い草花だと驚きました。逆に日本からアメリカなど外来種として、「クズ」などがあるそうです。

オオキンケイギクは、外来生物法により「特定外来生物」として指定され、飼養や栽培、生きたままの運搬、譲渡等が原則的に禁止されている植物です。

北米原産の多年草で、河川敷や道路脇に群生し、5月から7月にかけて黄色のコスモスに似たきれいな花を咲かせますが、定着してしますと在来の野草を駆逐し、生態系に重大な影響をおよぼすおそれのある植物です。(環境省)

生態系を管理することの意義

なぜ生態系を人間が管理する必要があるのだろうでしょうか?人間社会が成立するよりもずっと以前から、生態系は自然に存在してきたものであり、多様な生物種が存在し、さまざまなプロセスが維持されてきたはずです。

わざわざ人間が干渉しなくても、自然に任せておけば良いのではないのでしょうか?

「自然を保護する事と、人間を保護すること」… ひとつは、自然環境を守らないと人類がたいへんな被害にあってしまうからだというもの…このままの調子で木を切り続けてゆくと、やがて地球上から緑が消滅してしまい、人類も滅亡してしまう。

ふたつには、フロンガスを使い続けていると、地球の上空のオゾン層が破壊されて、そこから侵入する紫外線で人間がたいへんな被害を受ける。だから、フロンの生産をやめて、オゾン層を保護しなければならない。

ひとことで言えば、人間に被害が及ばないようにするために、自然環境を保護するのだ」という論理です。

よく考えてみたいと思います。

2016年5月19日 (木)

当たり前に出来ることは幸せ

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「当たり前に出来ることの幸せ」

人って当たり前のことが、「幸せ」と、感じることが鈍感です。

何の病気もしない人なら健康であることの幸せは感じない…五体満足なら五体満足であることの幸せは感じない…仕事があれば、仕事があることの幸せは感じない…平和であれば、平和であることのありがたみを感じない…。

当たり前のことが当たり前のようにできてしまうと、当たり前のことを特別な有り難味のあることと感じなくなり、それに対する喜びや幸せより、文句や愚痴ばかりが多くなります。

でも人はある時、当たり前のことが当たり前に出来ないことに遭遇することがあります。

気をつけていても、病気になる…ある日突然、ケガをする…会社の倒産で失職する…熊本地震のように、突然起こる天災に遭う…

その時になって人ははじめて、当たり前のこと有難さを知ることが分かります。つい最近、私は多くの人が当たり前にできていることが出来ない、ということに遭遇しました。

人は年を重ねると、身体機能・思考能力が落ちてきます。今まで当たり前に出来たり、判断が出来たりしていたものが、出来なくなります。

でも、私はそれを不幸だとか悲しいだとかは思いません。当たり前に出来ないことが、それはそれで仕方がないことです。当たり前のことが出来なくなる人はたくさんいるのだから…

今、何の不自由もなく、そんな苦労もなく、出来ていることって、ついつい日々の生活に流されて、素晴らしいことと感じられなくなりがちだけど、本当は毎日、当たり前にできていることこそ、とっても幸せなことなのです。

毎日、元気なら素晴らしいことじゃないか…毎日、3食、食べれるってすごいことじゃないか…
毎日、仕事してお金がもらえるなんていいことじゃないか…

当たり前のことに幸せを感じる力を。もちろん、人は失ってみないと、そのありがたさを感じることが、なかなかできないわけだけど、今ある自分がどれだけ恵まれた環境にあるか、失わなくても感じられる人でありたい。

苦しいことも悲しいこともつらいことも、探し始めたらキリがない…現状に不満があるなら、よくなるように、自分で前向きに努力すればいい…文句や愚痴をいっても不満がなくなることはありません。

当たり前の幸せに目を向けて、今の自分の環境を素晴らしいと考え、日々を精一杯、悔いのないように生きたい。それが人生だから…

2016年5月18日 (水)

歪んだ社会構造

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人生観の変化

最近人間の本能で、生まれ…結婚し…子供を生み…孫を見る…普通の人生パターンが・・・違ってきています。少子高齢化は・・・・超高齢化社会となってきています。

そして、社会観も違ってきています。「DINくs」(double income, no kids)と言う生き方まであるとは驚きです。つまり結婚後、子供を持たずに、夫婦とも職業活動に従事するライフスタイルで、意識的に子供を持たない共働き夫婦です。子供を持たない理由は、職業活動の継続であったり、子供を持つこと自体を拒否するという生き方です。

社会構造の変化

長生きしたいという人間の願望が高齢化社会をつくり、一方では子を産み育てることに意義を見出さなくなった結果、少子化の社会が到来してきました。

子供を産み育てることを第一義としなくなったために離婚が多くなり、両親揃って子供が育てられないという状況も生じています。また親子の情愛がいびつになり親子が殺しあうという悲劇まで生じています。

健全な子育てがなされないと、子供は成長過程でゆがんでしまい、命の尊厳についての認識や、善悪の判断ができない大人になってしまいます。

また格差社会のひずみもあって、犯罪が多発するでしょう。犯罪や自殺に走る可能性のある若者が多いと思われますが、悲劇を生まないためにどうすればいいのか、お互いが思いをめぐらさなければいけません。

自然と暮らす

人間も動物です。動物の本能は生まれ…結婚…子供をつくり…育てる…事です。その長い期間です。喜怒哀楽の人生です。

うまく生きていけないと悩み苦しんでいる時、生き方がわからなくなってきたと感じる時、過度に自分をせめたり見つめすぎたりしないで、万物を慈しむという気持ちを持ちたいものです。

たまには早起きをして、小鳥のさえずりの第一声に耳をかたむけてみませんか。大空の雲の流れゆくさま、風が吹きぬけてゆくさまを、自然のままに感じ取ってみるのもいいでしょう。

無心になって万物を慈しんでみると、心は少しずつ満たされていくでしょう。鳥や昆虫、動物たちのように、今、只今を懸命に生きる、このことが最も大切なことです。

2016年5月17日 (火)

まちの広場の想い

緑雨や まちの広場は 静かなリ

今日は雨です。

「緑雨」…新緑の青葉に降る雨のことです。私たちの町…八王子市片倉町3502-1に「片倉時田まちの広場」(2009年6月21日に正式にオープン)があります。この広場は、町の人の手作りで作られたものです。

草刈・竹やぶ・潅木を伐採・整地など…元町会長、自ら先頭に立って汗をかき、防災倉庫・休憩所・トイレなどを手作りで建てたのです。

広場に桜の木があります…桜の苗を、25年ぐらい前に、恩方の山から苗を運んで育てたものです。桜は大きく育ち、今年もきれいな桜が咲き、地域の人が楽しみられました。また、3年前に自費で、川津桜を植えて、これまたきれいに咲きました。

その桜を植えられた、元町会長が5月13日に亡くなりました。そして今夜はお通夜です。もっともっと長生きして欲しい方です…とても残念な思いです。

広場は町会の管理です。公園ボランティアの方に、草取り・清掃を行っていただいています。そして、老人会のみなさんが、グランドゴルフ・ゲートボールなど使っています。そして町内の盆踊り会場として多くのみなさんに楽しんでいただいています。

最近、スーパー・日帰り温泉などが隣に出来て、人通りが多くなり、そのことからゴミなどの汚れが目立つようになりました。私は、町会の一員としてこの広場は、「町会の顔」と思っています。いつもきれいにしておきたいと思っています。

亡くなられた元町会長の意思をしっかり後世に引継がなければと考えています。

2016年5月16日 (月)

今を大事に生きる

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過ぎ去った昨日は、今日はないのです。明日のことは、夢でしか見られません…たった今を大切にすることです。今を大事に生きることです。

よく、人生を川の流れに例えられます…人生は、大きな川に小さな小船に乗っているのです。川の流れは、穏やかな流れることも、激流に遭遇することもあるでしょう。向かうところは浄土です。

小さな幸せのある暮らしは・・・

 現状に満足できずに、ここではない「どこか」に幸せを探してみることです。

誰かと比べて、今ない「何か」が必要なのだと錯覚してしまいます。

今ここにある小さな幸せを大切にしてみることです。日常の中にある些細な喜びに目を向けてみることです…いつもの通り道に綺麗な花が咲いています。

そして、「ありがとう」と、人から感謝されたこと…大切な人が元気でいること…日常を当たり前だと感じられていること…意識すれば幸せなんてたくさんあります。

自分から動き出せば、楽しみはどこにだって見つけることができるのです。「当たり前」なものなんてありません。遠くばかりを探しているから気がつきにくくなるのです。大切なものは、何時だってすぐ近くにあるのです。

日々のちょっとした喜びを集めていく…その小さな幸せが集まって、穏やかに幸せで満ちた暮らしをつくるのです。

ターシャ・テューダーの言葉

 私たちはみんな死にむかっていく

でも それを恐れることはない

それより 今この瞬間 生きてることの喜びをかんじること

季節は 確実に進み

それぞれの季節には それぞれの仕事がある

朝陽の輝きが 風にゆれる枝が

心を満たしてくれるその喜びをわすれずに 生きなさい

2016年5月15日 (日)

人と自然の関係につて

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現在叫ばれている環境破壊や生態系撹乱などの環境問題は、人間のよって自然のバランスが乱された原因は、総括的に言えば人間のエゴによるものです。

そのエゴというのは、人間が、自分達が自然生態系の一部に過ぎないということを忘れ、目の前の自然を簡単に改変することによって、人間には自然を征服する力があると勘違いしていると思います。

従って、まず人間がしなければならないことは、自分達は、自然に対して所詮ちっぽけな存在であるに過ぎないと「認識」することだと思います。

自らの力を過大評価し、うぬぼれることをやめて謙虚な気持ちを持つ、ということです。そのような「認識」を持って初めて、人間が持続的な発展を遂げるため、自然との共生することです。

「共生」という考え自体が、人間と自然を同列にみなしているということで、おもいあがっているかもしれません。今の人間は自然に「寄生」している状態ですが、可能になってくるのです。

ただし、重要なことは、自然改変は人間の生存にとって必ず必要なものもある…ということです。従って、「不必要な自然改変はせず、本当に必要なことをできるだけ自然に影響を与えない形で実行する」ということが、人間に求められているものだと思います。

熊本での地震で思う

自然災害には、人間は、時に悲しいほど無力な存在です。

今回のような自然災害を考えますと、自然の力には人間の知恵では、どうにもならない、無力感を感じてきます。しかし大切なことは、この無力感にジタバタする事ではありません。46億年の地球の歴史を見れば、現代では想像もできない地殻変動があって、今があるのです。

そういった地殻変動を何回も繰り返してきた、この地球に生きていられたのですから、「有り難い」・「幸せ」であると思うことです。

人間は、然界のほんの一部をお借りして生きているだけなのに、人間はこの事を忘れて、自然すらもコントロールの対象にしたがります。その傲慢さが形を変えて沸き上がったものが、いわゆる無力感という感情です。

沸き上がってくる感情もまた、コントロールすることは出来ませんが、感情とどう向き合うかは、私たちに決めることが出来ます。無力さを受け入れることは苦しいですが、無力さを受け入れてはじめて、私たちは無力ではなくなるのです。

2016年5月14日 (土)

四季の移ろいは早い

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四季のうつろいは早いものです。今の時期、有名な漢詩…孟浩然(もうこうねん)の春暁です。

「春眠暁を覚えず  処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ」

一般的には、次のような意味に解釈されています。

春の眠りは心地よく、うっかり寝過ごし、夜明けに気付かない。目覚めてみると、ところどころで鳥がさえずっていて天気が良さそうだ。そういえば、昨夜は風雨の吹き荒れる音がした。せっかくの花がどれほど落ちたことか…です。

今の時期に感じますが、春になり夜明けの時刻が早くなったので、私は毎日5時に起き、活動します。いつも通りの時間に起きると既に明るくなっています。

今日は平成28年五月14日(土)【大安】日の出入・月の出入(計算地:東京)では…日の出 04時37分:日の入 18時39分です。

今日の東京地方はよく晴れて、洗濯・お出かけ日和に…なりそうです。

それにしても、年をとると、一年が早く感じます。【ジャネーの法則】があるそうです。19世紀フランスの哲学者に『ポール・ジャネ』という人が、時間が短く感じる理由を心理学的に明らかにした法則です。

この法則を要約すると…生涯のある時期における時間の心理的長さは、その時の年齢の逆数に比例する」というものです。

2016年5月13日 (金)

結(ゆい)の語で思うこと

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『結ぶ』

人と人を結びつける」「地域を結ぶ」「時を結ぶ」…そしてみんなと一緒に生きること。時を超えて伝えること。そしてみんなと恵みを受けることだと思います。

『結い』

主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度である。一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う相互扶助の精神で成り立っている(ウィキぺディア)

子供の頃の思い出

村の生活において、田植えや稲刈りなどの農作業、道路を直したり、」橋を付け替えたりなどの修繕…冠婚葬祭などのいろいろな仕事を、お互いに助け合う習慣がありました。

その他に、これまでの歴史において、南多摩郡由井村片倉でも、川久保・釜貫・車石・台・只沼・新道・時田地区と呼ばれた地域がありました。

地域と地域を結ぶ役割を築いてきたことや、各地域の活性化に結びつく役割を担っていたのです。このように、生活や地域が結びつきながら、ゆっくりと営んできた、片倉は、結が詰まった一つの故郷なのです。

いま、私たちが住んでいる地区片倉一丁目地区(時田)の風景は昔と大きく変りました。人の価値観も、さまざまです。今思うこと……みんなが、地域の美化に関心を持ってもらいたいと思っています。

奉仕の心…

奉仕の心とは”人間愛”"自然愛”なんです。基本はそんな広く大きな愛情を持てる心を養ってほしいわけです。

この奉仕の心を養うのも、やはり小学生時代が大切で、人のために何かをする、特に社会的な奉仕作業などをさせて、そういう行為に慣れさせておく必要があります。

例えば、家の周りの道を掃除するとか、近所のお年寄りを大切にするとか、子どもの頃に出来ないことは、大人になってからはなかなか出来ないんです。自分でできる、自然環境を守る活動を、勇気をもって実行してみてください。

自分のチョットした行為が、地域の環境美化に、役に立っているということが大切なんです。重要なのは他人の喜びを自分の喜びに出来るかどうか、自分を犠牲にして他人の助けになることができるかどうか…それが自分が心豊かになれる手段なのです。

今も、ゴミのポィ捨てが後を絶ちません、規範意識を高めて欲しいのです。規範意識とは、集団生活や社会におけるきまりルール、約束などの規範に基づいて、主体的判断し行動ようとする 意識 です。

2016年5月12日 (木)

生命が躍動する五月に思う

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木々の緑が鮮やかな五月は生命が躍動する時節です。

生き物たちの多くが新しい命を産み育てる、活き活きとしたこの時期なのに憂鬱な季節であると思ってる人も多いようです。

むかしから、五月病(医学用語ではない)として広く知られた言葉です。5月の連休明けくらいからうつ的気分にみまわれ、無気力な状態になることから五月病といわれるようです。
       
短期間で離職してしまう人が最近多いのも五月病と似た心理状態かもしれません。厚生労働省の統計によると、3割以上の新卒就業者が会社を辞めているという。飲食業界に関しては50%を超えているそうです。

そして、小中学校生にも大人と変わらない症状があり、イライラ感、頭痛腹痛などの症状から不登校、ひきこもりにもつながっているのではないでしょうか…小中学校合わせて、10万人を超えているという。

だれでも新しい環境の生活に入ると、さまざまな変化がいっぺんにおこりますから、肉体的にも精神的にもくたびれてしまう、新たな環境に適応できないことへのあせりがストレスになり、「何とかしなければ」と思えば思うほど、深みにはまってしまいます。

疲れているけれどなんとなく眠れない、食欲も減退してしまう、新しい環境に、そして人々にとけこもうとするけれどもうまくいかず、自己嫌悪に陥ってしまい、そのままの状態が続くと、そのうち死んでしまいたいなどとも考えてしまいます。

日本人の自殺者は、年間3万人を超えているそうですが、人生の転換期の5・6月が多いのもうなづけます。

環境の変化と言えば、厳しい環境におかれている、熊本地震の被災者です。生活不活発病・廃用症候群になる、お年寄りが心配されます。

【生活不活発病】…「"生活"が"不活発"」になることで全身の機能が低下する病気です。

【廃用症候群】…特定の器官を長期間、動かさないでいることによって生じる障害。他の疾病の治療のための安静状態や、高齢で動けなくなるなどが原因。筋萎縮・筋力低下などの運動機能障害や臓器の障害、床擦れなど。

2016年5月11日 (水)

ジカ熱と蚊の五月

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ジカ熱が 心配になる 蚊の五月

『蚤の四月蚊の五月』という言葉があるそうです。

今日庭のツツジの剪定していて、まさか…まだ蚊いないだろうと、腕が痒かった…よく見ると蚊に間違いなかった。

ジカ熱が今年オリンピック・パラリンピック開かれるブラジルで、大騒ぎなりました。でも8月5日~8月21日の開催期間では、ブラジルは冬で大丈夫かしら?ふと心配になりました。

日本に持ち帰えらないようしてもらいたいものです。

自然との共生について

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人と自然がいっしょに暮すことが何よ大切です。

日本には、森、里、川、海、そこに生きる動物、鳥、植物、魚…美しい自然があふれています。しかし近年、その自然のバランスがくずれ、動植物たちが絶めつの危機にさらされています。

自然環境を守り、人と自然の豊かな関係をつくることが本当に大切なのです。それには、全国の自然の様子を調べたり、豊かな自然の地域を国立公園として守ったり、絶めつのおそれのある動植物を守るルールを定めたりすることです。

さらに世界の国と協力して、国際的な自然保護することです。人といきものが、一緒にくらす自然環境をつくる…それがとても大事ことなのです。

自然と人が共生

人間は、自分一人では生きていけません。他の生き物(動物であれ植物であれ)のいのちをもらって生きています。

「人間」は、動物や植物といった「自然」から、いのちをもらって、生活のために使っています。自分の生活をより豊かにするために、多くのものを消費し、多くのものを排出しています。

見方によっては、人間は「自然」を利用しているということができそうです。「自然」は、「人間」を利用することはないのでしょうか…一方には利益があって、もう一方には利益のない関係を、「寄生」「搾取」などと表現することがあります。

「共生」っていうのはどういう状態なんでしょうか…植物は子孫を残すために、たくさんの種子を飛び散らしたりしています。風に乗って遠くに飛んでいくもの、自分ではじけて飛び散るもの、鳥に食べられフンといっしょに落としてもらうもの…実に、さまざまな種子があります。

その中で、キク科のオオモミは「ひっつき虫」ともいい、種子が、人の服や動物の体にくっついて運んでもらうチャッカリものもあります。これは、植物が、自分の種を、より遠くへ、より様々な場所へ広げるための知恵なんです。

熟した実の中には、熟した種が入っています。鳥が熟した実を食べて、空を飛んで移動する過程で、フンを落とします。落ちたフンの中には種が入っていて、そこから新たな芽が出ます。

そうやって、植物は、自分が動けない分他の動物を使って、自分の生息範囲を広げ、自分の子孫を残してきました。果物は、食べられるばかりではないんです。食べられたあと、かわりに、自分たちにも利益があるような工夫が、なされているんです。

もちつもたれつな関係がこれを、共に生きる、「共生」と呼びます。こんな、生態系の共生の輪の中に、きちんと、人間も組み込まれている、というのが「自然と人間の共生」という言葉がいいたいことだと思います。

自然は生き物です。でも、人間も生き物です。人間だけが特別なんてことはない、ということを、共生という言葉は表わしている言葉です。

2016年5月10日 (火)

人間の価値を考える

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人間の価値とは…

 「そこにいるだけで喜ばれる存在になる」こと。

そこに座っていてくれるだけでまわりの人がやすらいだり、静かな気持ちになったり、穏やかな気持ちになったり、温かい気持ちになったりする、そういう存在になる」こと。(小林正観)

 アインシュタインの言葉に…

「成功した人間になろうとするな。むしろ、価値のある人間になろうとせよ。」

「成功した人間になろうとする人間」

「価値のある人間になろうとする人間」

両者を比較してみると、人は誰しも、「成功したい」という、欲求を持っていると思います。成功した人は、血の滲むような努力で、競争に勝った人です。

これは「弱肉強食」もしくは「自然淘汰」の概念で、今まで多くの生命たちが、強いられてきた苦しみのシステムです。この大昔からの呪縛から逃れられないから、人は本能的に「成功」を渇望するわけです。

激しい競争の世の中になると、人は「他者はどうでもよい…自分がよければ…」という「自己中心」考えになり、今問題となっている、格差社会になっていると思います。

もちろん、あなたは成功のために正々堂々と勝負するかもしれない。しかし、ライバル達はあなたと同様に正々堂々と勝負するかどうかはわかりません。

不特定多数のライバル達の中には、不正な手段であなたを蹴落とそうとする人間が現れるかもしれません。どんなに勝ち上がっても、そこにはまた新たなライバルが現れるのです。

こうやって考えていくと、「成功」を目指すことは、尋常な、手法ではかなか勝ち取ることは出来ないように思います。また、たとえ「成功」を掴めたとしても、次は他者から守らなければならないという性質を持つため、「成功」は、不安や不信との親和性も高いです。

誰もが「価値のある人間になる」ことができるのです。「価値のある人間になる」と得られるものは、他者からの感謝、信頼、好意。すなわち、自分の内面に対する他者の評価です。

「成功」したとしても、「価値のある人間」になったとしても、人はあなたの周りに集まって来るでしょう。しかし、「成功」に集まってきた人々は、あなた自身を見て集まっている訳ではないのだと思います。

このように考えていくと、アインシュタインが言うことが、もっともなことのように思えてきます。同じ目指すなら、「成功」を目指すよりも「価値のある人間」になろうとする方が、多くの人にとっては、よっぽど幸せなことなことだと思います。

2016年5月 9日 (月)

ペスタロッチとビンの破片

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            時田公園

「公園はみんなの使うところ、ゴミは持ち帰ってね」・「あとの人が気持ちよく使えるようにしようね」いつも言っています。

それでも、心ない人がいるようで、ビンを石垣で割った破片があることがあります。砂場で、ビンの欠片を拾っていて、思い出したのです。教育界の父と言われたスイスのペスタロッチの逸話のこと…

ペスタロッチは、教育は「読み・書き・そろばん」だけではなく「人格の形成」ということまで含めたものが教育であると定義しています。そして、教育には家庭の温かさが必要だという、家庭教育の重要性を説いています。

また、直感教授といって…実物や絵を子ども達に見せて、感覚器官を通じて知識を習得させるという教育方法を実践しました。ゆえに、ペスタロッチは教育者の父といわれ、今の小学校の基礎を創ったということが言えます。

彼の著書『隠者の夕暮れ』他の中で、子どもの教育をするにあたっては、何もかも欲張って一時期に与えるのではなく、身の回りのことから少しずつ訓練を積み重ねていくと、あるところから自ら進んで難しいことに取り組んでいくようになると述べています。

さらに道徳面では、善悪のことばについては日常の家庭的な場面や地域の住環境と結びつけて説明しなさいとも言っています。

これらから学ばなければならないことは、現代のようにやたらに華やかで豊かすぎるモノや、高度の知識や刺激の強すぎる情報が氾濫する社会の中で、私たち大人がそれらをうまくコントロールして子ども達の教育でなければいけないと思います。

このことから、学校も保護者・地域の方々と共に、家庭的な温かさを大切にする…児童の教育にあたらなければいけないと考えます。

日に新たに、日々新たに

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 『苟(まこと)に日に新たに、日々に新たにして、又た日に新たなり』

(まことにひにあらたに、ひびにあらたに、またひにあらたなり)

この言葉は聖人といわれた殷(いん)の湯王(とうおう)(紀元前1776年より53年迄在位)が日々用いる洗面手洗いの盤に刻みつけておいたと伝えられている語句です。

「毎朝顔を洗うがごとく、心も毎日新しい心構えでいなければいけない」という意味です。日新しい心で、ということは何にも一物も持たない心で、新しい世界に触れていくならば、この世界は新しい。

昨日咲いた花は今日は咲きません。水の流れは毎日違っています。自然(万物)は諸行無常(毎日変化)しています。新しい心で今日を迎えていくということが、そのそれが本当の人間の生き方であり、正しい生き方です。

今日なら、今日という日は、新しく訪れるのです。それも貧乏人にも、王様にも、みな平等にやってくるのです。大事な一日だから、もっと有意義に過ごさなければいけないと思います。

そのためには、今日の行いは昨日より、新しくなり、明日の行いは今日よりさらに新しくなるよう修行に心がけるべきでしょう。

神は万人に公平に一日24時間を与えて頂きました。私たちは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今取りもどす、すべもありません。ただ今日の時間を有効に使うことが出来るだけです。

万人が一日24時間とう時間が等しく与えれられ、それぞれどう使うが人生を分ける…分っている…分っているけれど……なかなかできなく、一日一日を、一瞬一瞬を大切にすることを怠ってしまっています。

土光敏夫・元東芝社長の座右の銘で有名です。東芝の危機を救った人でもあります。現在の東芝にも、この精神で建て直しして欲しいものです。(元東芝の従業員)

2016年5月 8日 (日)

爽やかな五月です

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爽やかな 五月の風に 草木萌え 

風薫る五月です。

日ざしは柔らかく、風は爽やかで、青葉若葉のまっさかりです。大自然のいのちが燃えいずる、生命力に満ちています。新芽がふくらみ、若葉が満ちあふれ、これから花を咲かせ、実をみのらせていくスタートの時節です。

朝のさわやかさで、遅くまで寝ていてはもったいない、早起きをしたくなります。

押し出され 世代交代 夏落葉

樫や楠などの常緑樹は緑の葉のまま冬を過ごしたあと、初夏に新葉が出てから古い葉を落とす。新しい葉に押し出されるように落ちる葉…どれほど散ろうと決して裸木にならないことだろう。

鬱蒼と青葉を茂らせたまま、枯葉を降らせる姿にどことなく悲しみを感じるのは、常緑樹という若々しい見かけの奥のひそやかな営みが、ふと顔を見せるためだろうか。紅葉という色彩もなく、乾ききった茶色の葉が風にまかせてぽろりぽろりと落ちていく…

しかも、常緑樹はたいてい大樹なので、ああ、この茂りのなかにこんなにも枯れた葉があったのかと驚くほどきりもなく続き、掃いても掃いてもまた同じ場所に枯葉が落ちています。

2016年5月 7日 (土)

心のふるさとづくり

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今なぜ「ふるさとづくり」か?

私たち住んでいる地域は、遠い昔から、美しい自然と文化の中で、私たちはその営みを続けており、日々の暮らしの中で、自分が生まれ育った場所を「ふるさと」と認識し、愛してきました。

「ふるさと」に帰属しているという意識が、私たちに安心感をもたらしてきました。「ふるさと」は、いわば心のよりどころであったのです。

そして、その「ふるさと」の原風景には、青き山、清き川、風や空、祭り、盆踊りなど、世代を超えての一定の原型があるように思われます。しかし、実際には途絶えてはならない原風景が失われつつあるなど、現実と「ふるさと」の原型に隔たりが生じています。

また、大都市に人口が集中している現状においては、自分が生まれ育った場所が「ふるさと」であるという認識を持たない人も増えているようです。

このような状況を踏まえると、私たちの活力の源であり、誇りである「ふるさと」の価値を再認識し、「ふるさと」を愛することの大切さを後世に伝えていくことが必要ではないでしょうか…

そして、そのために「ふるさとづくり」をどのように進めていくかを、今、考えてみるべきではないでしょうか…

「ふるさとづくり」の意義

こころを→□■寄せる■□←そこにかかわる⇔(精神的態度)(実践的態度)“こころの拠りどころ”としてのふるさと“生活の営みの場”としてのふるさと…となるのです。

ふるさとづくりとは、ある場所に、「こころをよせる」ことと、「そこにかかわる」ことの、くり返しです。このくり返しが、新しい「ふるさと」をつくります。

愛着のある場所との「かかわり」によって、失われつつある「ふるさと」への誇りと価値をふたたびつくりだす。新しい「ふるさと」は、100年先のこどもたちまで受け継がれるものになっていきます。

「こころをよせる・そこにかかわる」

「ふるさと」は、生まれ育った場所だけではありません。「ふるさと」は、私たち日本人一人ひとりが、自分のよりどころとなる「こころをよせる」やすらぎの場を指します。

大切なのは、「こころをよせる」ばかりではなく、何かのかたちで、「そこにかかわる」こと…出来ることでいいのです。小さなことでもかまいません。そこに住む人たちと、いっしょに汗を流して働いてみることです。

少しの「かかわり」で、「こころをよせる」気持ちが強くなり、それがきっかけとなって、さらに深く「かかわる」ようになる…と言う考え方です。

このくり返しが新しい「ふるさと」をつくります。愛着のある場所との「かかわり」によって、失われつつある「ふるさと」への誇りと価値をふたたびつくりだす。

新しい「ふるさと」は、100年先のこどもたちまで受け継がれるものになっていきます。こころをよせる。そこにかかわる行動が大事なのです。

感謝の心が大切

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「日常の五心」とは…

『ありがとう』という“感謝の心”を最も大切です。

『はい』という素直な心。

『すみません』という反省の心。

『おかげさま』という謙虚な心。

『私がします』という奉仕の心。

『ありがとう』という感謝の心。

人はひとりでは生きられません。多くの人に助けられて生かされているのです。この五つの心が、人の社会で、最も大事なことです。経済的・物質的な安心安全も必要だが、根本的・精神的(心)な安定が重要です。

特に、奉仕の心は、出来ることから、行動することで、更に充実感が高まると思います。また、心で思っていても、行動で示さなければ、人(相手)は信じません。

心清く徳を積むことを心がけ、日々に感謝して生きる…どんな人でも、いたわり・思いやりを表に出すようにする…人が見てなくても、その心を持って実行すれば、必ず自分に変化が起きます。

ボランティアと奉仕の違い

ボランティアは自発的な社会貢献すること。奉仕は他人や社会のために尽くすこと。

特に「自発的」に限るのがボランティアの特徴ですが、奉仕は「自発的」を問いません。ボランティアは拘束されない自由な活動ですが、奉仕は拘束される活動でも奉仕(活動)です。

有償でも無償でも奉仕(活動)ですが、ボランティアは「自発的=拘束されない」活動ですから無償なのです。


2016年5月 6日 (金)

地域の心の通った人間づくり

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地域のふれあい

人が生活する上で、家族に次いで身近な地域での人間関係は必要不可欠のものと考えます。コミュニティを単純に捉えるならば、「地域での人と人との心の通った人間関係」ということになるでしょう。

東日本大震災や熊本地震などにおける近隣での助け合いは、図らずもこうしたコミュニティの大切さを再確認する機会だと思っています。

地域社会の活動は、正に地域の人々の主体性や自主性を前提とするものであり、地域社会の大人一人一人が、その一員であることの自覚を持ち、地域社会の活動を自主的に担っていくことがまず重要です。

地域社会の活動を充実させるためには、様々な職業生活や社会生活を経験した人々が、それらを通じて得たものを積極的に地域社会に還元してほしいものです。そのことは、地域社会の活動をより豊かなものとしていく上で、大変に貴重なものです。

挨拶はコミュニテイの第一歩

みなさんは毎日、挨拶をしているでしょうか。「人に会ったら、あいさつをしましょう」

小学生でも知っている一般常識です。しかし、大人になると日々の忙しさに忙殺されてしまい、挨拶がおそろかになってしまうことは少なくありません。挨拶がおろそかになっても、さしあたって大きな損害はありません。だからついついしなくなってしまいます。

でも、実は挨拶ってするメリットがたくさんあります。毎日の挨拶はちょっと面倒にも感じるかもしれません。でも大きな声で挨拶をすれば、とても多くのものを得ることができます。挨拶を続けていけば、精神的にも良い影響が出るのは間違いありません。

相手からの印象が良くなり、人間関係も良くなります。心が通じ合うきっかけになります

2016年5月 5日 (木)

人間社会のルールを守る

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何んともやりきれない出来事起きています。

最近、公園などの公共施設などの使用や取り扱いが、悪いのに驚いています。…「後は野となれ、山となれ」で、後に使う人のことことなどと、お構いなしの全く身勝手な人が、多くなってきていて困っています。

人間社会における 『ルール』とは…「規則」や「きまり」のことを指します。

「ルールに反すること」 は、「悪いこと」 であり 「してはいけないこと」 です。 「法律」もルールのひとつであり、「法律に違反する行為」は「犯罪」とされ、厳しい処罰が科せられます。 これらのことは、誰でも、小さなときから、家庭や学校で教えられてきたことであり、分かっているはずです。

社会にルールが必要な理由はいろいろありますが、ルールがあることを知らない人やルールを守らない人が多くなると、社会は混乱し不安定になります。

もしかすると、ゴミのポイ捨て?歩行喫煙?などの環境破壊…?その通りです。一つひとつの行為は、小さなこと(もの)でも、何十人・何百人となれば、知らず知らず、大きな結果となるのです。

人々が安心して暮らすことができなくなります。ルールを守らない行動は、社会を壊す行為であり、許されることではありません。社会のルールを守らない人に対しては、厳罰に処したいものです。

「つい、うっかり」 とか 「これくらいは」 とか 「面白半分」 といった安易な動機であっても、ルール違反は許されるものではありません。一人ひとりがルールを理解し、ルールを大切にする心を身に付けてもらいたいものです。

さらに、友達がルールを知らなかったりルールを無視しようとしていたりしたら、間違いを教えてあげることができる人になってもらいたいと思います。

守ろうよみんなの好きな町だから

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町の広場が汚されて困っています。

地元住民の手作りの広場…「片倉時田まちの広場」(2009年6月21日に正式にオープン)があります。この広場は、町会のみなさまが管理しているのです。

そのとなりに、2010年12月6日に大型スーパーが開店と、同時に周辺の整備がなされ,風景が変わりました。 地元住民は毎日の食料品などの買い物が近くに出来て、喜ばれています。そして、昨年(2015年)12月にオープンの日帰り温泉が出来ました。

片倉時田まちの広場は、町会主催の盆踊り、防災訓練などと、老人会のグランドゴルフ、ゲートボール、輪投げなどの市民が気軽に楽しめる場所です。日当たりは、抜群であり、子供からお年寄りまでコミニケーション、ふれ合いの場に最高です。

しかし、最近のゴミの不法投棄・犬の糞・器物損壊(散水栓の破損)などと、やってはいけない花火・バーべキュウなど…自己中心のマナー・モラル・規範意識などの低下による行為が後を絶ちません。

それらを改善していくために、小学生にポスターを書いてもらい掲示したり、地域の皆さんで防犯パトロール・八王子市の青パトロールの巡回・担当交番(みなみ野交番)パトロール強化・南大沢署にも話しかけたり、片倉地域安全センター・スーパーの店長などにも、実情を認識してもらい、大きな・事件・事故につながらないように、努めています。

昨日の朝は、広場の休憩所で、酒盛り?私たちの町会の所有物である、長椅子・机・コンパネ(盆踊りに使用)・机などまで散乱させ、ペットボトル・ビールの空き缶・紙・ビールの包装のダンボールなど、大量に放置されていました。片付けに、1時間掛かりました。

広場は誰でも何時でも利用できますが、何時もきれいで、気持ちよく使ようのご協力願います。後の人が気持ちよく使うように、ゴミなどは家に持ち帰るようにして下さい。

「ルールを守って、誰でも気持ちよく使えるようにしよう。」

2016年5月 4日 (水)

今ある命に「有り難う」

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私が存在すのは、もう、とうに亡くなっている両親・そして先祖から命を引きついて頂いたから…自分がある…「思いを新たにして」…感謝の気持ちで、月/2回墓参りをしています。そして毎日、眠るとき今日も無事に終り「有り難う」の感謝の気持ちで眠ることにしています。

私自身、二人の子供を授かり、先祖代々から受け継いだこの連鎖を切らすことなく継承できたことに誇りを感じています。そして、二人の子供からそれぞれが、二人で、四人の孫がいます。

「有り難いこと」

一人ひとりの人間が存在することは、この世でたった一つの、真に奇跡的な存在なのです。それだけ、今ここに頂いている命は、非常に「ありがたい」ものであり、何か見えざる力によって私たちが、存在している「生かされている」と思わずにはいられないのです。

そもそも、「ありがたい」とは、「有り難い」と書きます。偶然なのです。偶然なことで、奇跡のようなことに対して不思議と感謝の気持ちを感じます。

「有り難い」という言葉があるのであり、人間という存在の奇跡を思うと、人間が生きていることに対して「有り難い」という思いを感じずにはいられないし、人は「生かされている」と思うのです。

こうして奇跡的な細胞の組合せで私のもとに命を授けて下さったことに、ご先祖様や神仏すべてにありがたさを感じ、私の子供・孫も、そして私自身も、「生かされている」のだということを痛感するのです。

人が「生かされている」ことの「有り難さ」を真に受けとめることができれば、天から与えられた使命を持って生かされた以上、万物を調和し、より良い社会を作っていき、次の「有り難さ」を生むための連鎖のつなぎになろうと努力するのではないでしょうか…

私たち人間は、「生きているのではなく、生かされている」

私たちは「生きている」という表現をよく使います。食べたり、体を鍛えたりなど、自分の意思や力で人生を進んでいるため、生きているような気がします。

「命」あることにに対し感謝し生きる。

本当に自分の力で生きているのではなく、心臓は、自分の力で動かしているわけではなく、勝手に動いています。皮膚の新陳代謝も、自分の意思とは関係なく、勝手に行われています。

眠っているときは呼吸しますが、自分で意識をしているわけではありません。命の元をたどると、私たちの体の設計図「DNA」に辿り着きます。

DNAとは、人の体を作るための設計図です。

そんなDNAですら、人間が作ったり設計したりしたわけではありません。私たちの原点をたどると、大いなる神秘的な力に気づきます。生まれたときから当たり前のようにある命と肉体ですが、実際のところ「生かされている」という状態なのです。

2016年5月 3日 (火)

美しく輝き続ける人

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むかし、親から小学校に上がる頃…「偉い人になりなさい」と言われた事を思い出します。

「偉い人」とは、よく分からないかったので「どういう人?と聞いたら…二宮尊徳・野口英世博士の名前を挙げたのです。

戦前の小学校の校庭には、必ず二宮尊徳の銅像が建ててありました。子供ながらに解釈したのですが、「尊敬する人」を持ち…その人を良く知ることだと思ったのです。

人間社会で生きていくためには、法律・ルールがあり、それを守る規範(法律・道徳・倫理が社会を構成することで…大事でことです。

規範意識を持ち、社会の一員として自覚をもつことで平和(安全・安心)に暮して行けるのです。規範意識とは、道徳、倫理、法律等の社会のルールを守ろうとする意識のことです。

「人は一代、名は末代」…

人は寿命が尽きれば一代で終わりですが、生前に残した業績や名声は後世まで残るもの、という意味です。後世に名を残すような生き方をしなければならない、という教えでもあります。

文化勲章・ノーベル賞を受賞するには、立派な業績はもちろん、人間的にも優れた人が選ばれるのです。歴史的にその名が残ります。

最近、野球・バトミントン・スノーボートなどの、スポーツ選手の不祥事が問題となっています。オリンピックで、その名を残す?優勝候補に挙げられるほどの選手が…とても残念です。

やはり人が生きるためには規範意識を高め、悪の誘惑に負けない強い信念を持て、目標に向けて頑張り、結果を残すことです。そして美しく、輝き続けることです。

2016年5月 2日 (月)

無縁社会について

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「無縁社会」…現代社会は無縁社会と言われます。

無縁社会」とは、家族、地域、会社などにおける人とのきずなが薄れ、孤立する人が増えている社会…

日本はもともと、親族、地域社会、会社などで比較的濃密な人間関係が形成されてきました。現代社会のこうした一側面を、NHKが「無縁社会」として取り上げたことで注目され…こうした関係は血縁、地縁、社縁などと呼ばれて、しがらみとなる一方で相互扶助のシステムとしても機能していたのです。

ところが近年、こうしたつながりが急速に失われ、社会から孤立している人が増えているという。背景には、核家族化・非婚化・長寿化による単身世帯の増加や雇用形態やライフスタイルの変化などがあるとされ、家族がいても音信不通になっていたり、地域との交流がなかったりして、病気などの緊急時にSOSを発することができない人も多いことが明らかになってきたのです。

家族や企業に期待されてきた支え合いの機能が失われてきており、新たな社会的なきずなをどのように育んでいくかが課題とされています。(知恵蔵2015の解説)

「有縁社会」を考える

経済的に低迷し、競争でギスギスした社会に、コミュニケーションを取り戻し、家庭、地域、職場、学校などで、一人ひとりをいかし、それぞれの持分をいかせる有縁社会になっていくために何をしたらいいのか?

家族、地域、会社において人との繋がりが薄れ孤立している人が増え、年間3万件にも上る孤独死件数はまさにこの社会を象徴していると言えます。

「縁」は、人間を人間たらしめている、決して失ってはいけないものです。ただそうは言っても、単純に無縁から有縁にパラダイムシフトを行うだけでは、現代日本の抱える問題が解決するとは思いません。

助けられ上手・世話焼き上手

好奇心を持つこと、他人に思いやりと興味を持つことが、「友縁」社会を作っていきます。肩の力を抜いて社会に一歩踏み出すことです。困った時に役に立つのは、自分が助けられ上手であることです。

上手に世話焼きする人。上手に助け手を引き寄せる能力のある人。と言っても、だれもがこれをできるわけではありません。

そこで、ある程度努力すればできるという方法を下記に並べてみました。該当する項目が多ければ、助けられ上手ということに…

考えたい具体的なこと

① 自分に向けられた善意は素直に受け入れる。

② 助けられたら「すみません」でなく「ありがとう」と言う。

③ さびしい時は「さびしい!」と声をあげられる。

④ 気軽に「助けて!」と言える相手を一人は見つけてある。

⑤ いざという時、頼りになる世話焼きさんが足元にいる。

⑥ 今のうちに人に尽くしておこうと活動している。

⑦ 助け合いを目的としたグループに加入している。

⑧ 趣味グループ、老人会などで助け合いを進める。

 

2016年5月 1日 (日)

強かに生きる

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今日から5月…夏も近づく八十八夜です。

あっという間に一年の3分の1が過ぎたのです、でも、まだ3分2あります。ものは考えようです。人生焦っても仕方がない…ちょっと、休憩するのも良し、ちょっと遅れを取り戻すか?人と比べるのではなく、自分の人生です。

自分で決めることです。

才能というと、人よりズバ抜けていて、世間全体が認めるような、能力というイメージがあります。

でも、世間でいう一流と言われるような能力でなくても、本人が、好きで、それをすると時間を忘れるくらい夢中になって、何よりも、楽しめるのなら、それはその人がその分野に才能があると言って、良いのではないかと思います。

人は誰でも、ほんの些細な日常の中に、才能の卵というか、人生の可能性の、種があると思います。その可能性に挑むことが大切で、昨日より今日、そして明日へと前向きに考えることだと思います。

一年を無駄に過ごすか、有意義に過ごすか心構え一つです。「粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しない…「強かに」生きて行きたいと思います。

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