正しいとは…
国会で法律を決める…例えば、いま安保法制の集団的自衛権が審議されていますが、何が正しいか…正しくないのか…審議している過程から考えてみました。
3人の憲法学者は違反していると明言しているの対し、安倍晋三首相は「憲法の基本的な論理は貫かれていると確信している」と反論しました。
本当のことで「真理」という言葉があります。「真理」とは、絶対に定義が揺らぐ事のない普遍的な事象・思考」の事です。
「人はなぜ幸せを求めるのか」ではなく、求めるものを「幸せ」と呼んでいるだけです。
「真理」と言うと科学、宗教、哲学など、日常世界や個人の判断を超えた普遍的なもの、というイメージがありますがそれは幻想です。
日常の中にも「正しい―正しくない」という構図は働いていて、人は常に何かを選びながら生きています。それは真理を自分で選んでいることであり、真理はすべての日常の中にあります。
人間は欲の連鎖で生きています。おいしい物が食べたい→お金がたくさん欲しい→給料がいい安定した仕事に就きたい→などなどです。
人はなぜ「それらを」求めるのでしょうか…一番単純に答えれば、それは「生がより充実するから」でしょう。もちろん、そのためには自分の人生がよりよいものになり得る、という可能性が前提条件として必要です。
相対的真理と絶対的真理
私は、自然界における人間以外の動物にとって、本能に従って生きていく事が「真」であり、本能の全てが「真」です。したがって、それらに「偽」は存在しません。
「真」も「偽」も人間特有の認識・判断・評価です。真理とはその条件によって変わりうると思います。
では、人間特有の「真」とは何か?それは、「主観」と「客観」の一致した状態です。ならば、「真理」とは、「真の論理」とは?それは、論理と事実・現実との一致した状態、とい事です。
真理とは「事実または現実性との一致…真理として証明される、または受け入れられている。現実または現実性」のことです。
本当の現実などというものはなく、認識と意見だけが存在するのだと言う人もいるでしょう。その一方、何か絶対的現実、または真理があるはずだと論じる人もいるでしょう。
「絶対的真理」だと思ったところがさらに詳しく条件が求められて、「相対的真理」との統一が進むと言うことがあるかも知れません。
しかし、だからといって、「真理」でなくなることになるのではありません。より正しく「真理」が深められたと考えられます。
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