日本の社会はどこかが歪んでいる
少年犯罪少なくなっているいうが、猟奇的な事件・残忍な事件が起きるたびに、その原因を考えたとき「心の歪み」を挙げざるを得ません。
「心の歪み」「社会の歪み」ある意味、だれもが納得するフレーズで、落としこみ易い…しかし、事件の話題が世間から消えた頃、結局根本的には何も変わってないなと感じてしまうのもまた事実です。
社会全体を包含する大きな雰囲気というものは、果たして明るい方向に進んでいるのだろうか…私自身は、なかなか実感できずにいます。
「格差社会」が起因していると指摘している人がいますが、少子高齢化・核家族化などの社会構造の変革と規範意識の低下で、家庭での躾け・道徳教育が不足してしまっていることは、昔と比べて感じられます。
グローバル化した社会で価値観も違ってきたように思います。日本人の性格が見えづらくなってきていると思います。
人生を楽しむ
「人生を楽しむことが苦手」という外国人の評価があるそうです。
確かに、「楽しむ」…特に、誰かと一体になって楽しむことが、あんまりない…率直な思うのです。
自分の居場所を固定化させ安心したい、つまり「境界線を作りたい」欲求です。家族や学校というコミュニティだったり、1人の空間だったり…安定した固定的な場所に身を置きたいと言う思いがあります。
一方で、誰かと一体化したい、気持ちを共有したいという思い、つまり「境界線を取り払いたい」欲求も持つ…感動の共有などがそうで、もらい泣きなどはその現象の一つです。 そして、この一体化したい、境界線を取り払いたいという思いは、いわゆる「楽しむ」ことにつながるように思います。
スポーツでの一体感。お祭りでの一体感。何かを作り上げることで生まれる一体感。感動の共有。これらの体験はその場が楽しいことはもちろんです。
その体験自体が、体の中で大きなエネルギーを生み出しているようにも思います。私自身は、そこに一種の人間らしい大きなパワーの可能性を感じます。
一体化を美化しすぎれば、時に全体主義につながりかねないし、危険な側面ももちろんあります。しかし、スポーツでも文化でもなんでもいい。日本において純粋に「楽しむ」ことの可能性を追求することは、意味あることだと思います。
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