善悪の判断
それは「損得ではなく、善悪で行動する」ということです。 判断基準が「損得」ではいけないということです。
自分にとって得だからやっておこうとか、こんなことしても損するだけだからやめておこう、という考え方には常に「私心」が付きまといます。私心が勝るところに、公共性は生まれません。
私心や私欲、損得勘定を持っていては、人の心を理解することはできません。「善悪の判断」を支えるものは何なのか、一体何に照らし合わせて善悪の判断を下せばよいのでしょうか…
もめ事や警察沙汰を裁く裁判には、法律があります。法律に照らし合わせて、これは正しい、これは間違い、と判断していくわけです。
では善悪は、何を基準にすればよいのでしょうか…
それは、理念や方針ということを超えて、その人、まさにその人間が、何を考えて、何を正しいと感じ、何を理想として目指しているのか、という、「人生・生き方の理念」そのものである、ということです。
世の中の常識や倫理観というものは、明文化されて何かに記してあるわけではありません。 それぞれの人が生きていく中で、「どうすればお互いがいやな思いをせず、平和に、穏やかに過ごしていけるのか」ということに取り組んだ結果、暗黙の了解として生まれてきたものが、常識や倫理観です。
そこには、「人としてどう生きるべきか」「より良い人生とは何なのか」という、それぞれの人が意識的・無意識的に持つ、哲学的・観念的な「人生観」が大きな影響を及ぼしていると考えられます。
つまり、「どう生きるのか、どう生きたいと考えているのか」ということに尽きるのです。
そのそれぞれの人生観・生き方の理念を持って、多くの人びとの願いをくみ取り、判断し、導いていくことこそが、指導者と呼ばれる人の使命となるのです。教育に携わる人間は、人柄・人格・人間性・人間力を向上させなければならないのです。
思いやりの心、深みと広がりを感じさせる、味のある人間力を持ってこそ、説得力のある善悪の判断を下すことができるのです。
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