平常心
「平常心」とは淡々として、全く心が動かないとか、動じないと言うことではないのです。
世間一般によく使われるようになったこの「平常心」という言葉は若干間違った解釈をされているように思います。
人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂、悩んだり苦しんだり、泣いたり、笑ったりしながら心は揺れ動くのが常です。
嬉しいときは喜び、悲しいときは涙するのは人として当然のことです。この揺れ動く自分のその心そのものが、我が心のそのときの真実の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化し現れるのが、人の心であり人間としての自然の姿です。
緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうとあせる心を起すときに不自然な心が働きが、かえって変調をきたします。
このままじゃいけない、何とか落ち着こう、泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になるのです。
ありのままの心、ありのままの姿を認め受け入れるとき、そこには自らが否定し、排除しようとした自分の心はなくなり、障害となる緊張感はなく平生の平常心があるのみとなるのです。
その原因は・・・「煩悩」があるからです。その煩悩は何処から湧き出て来るのかというと、比較する心から生れるのです。喜怒哀楽つまり、自分と誰かを比較している真理が働いているからです。
平常心は、そういった煩悩の世界を飛び越えたところにあるのです。簡単に言えば幼児の頃のような純真無垢の心の部分だと思います。
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