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2012年6月 9日 (土)

身体より命を大事にする生き方

10ichige_akitakoma11 「五木寛之のきょう一日」という本に、「身体より命を大事にする生き方」がある。

「人は何のために生きるのか」と、問う声があります。「生きるために何をするのではない。何かをするために生きるのだ」と励ます声もあります。要するに、ただ漠然と生きている人間には意味がない、というわけでしょう。

世を去るとき、自分が自分が生きてきた歳月を、振り返る。そしてこれだけのことをなしとげたのだ、と満足して死ねる人は幸せです。

しかし私はそんな堂々たる人生にあこがれる気持ちは毛頭ありません。悔い多き、恥多き自分の過去を、情けなく思いながら、苦笑しつつ死ぬほうがよほどいいと思います。

生きる、ということだけでも大変なことです。ブタのように生きようと、トラのように生きようと。関係がない。森に散る一枚の木の葉にも、命はある。人が一生をどう生きたか、などということは大したことではありません。五年だろうと五十年だろうと、生きたという事実に価値がある。

寝ていようが、遊んでいようが、怠けていようが、働いていようが、生きているということは、それだけ大変なことだ。まして放射能があたりに満ち満ちている時代に。

そんなこというのは、教育上よろしくない。と、しかめ面なさる方もいるでしょう。人間の世界は、無慈悲でかつ、非合理なものだ、と私は信じています。だからこそ、この世にけなげに生きる命が尊く思われるのです。

生きているこの命を大事にする。養生とは、そこから生まれる態度です。「あす死ぬとわかっていても、するのが養生」という考え方は、そういうことではないでしょうか。

まして、現在、私たちはかってないほど不安定な時代に生きている。歴史のなかで、何百年に一度、いや、何千年に一度という危うい時代に直面いるのです。

明日はどうなるのかわからない。だからこそ、宇宙から見ればゴミのような自分の命にこだわる。健康法は、身体を大切にする方法です。それに対して、養生は、命を大事にする生き方です。

ほんのちょっの違いではあります。だが、そのちょっとの違いに、何かがある。そう思って今日も養生につとめてきました。あれほど健康に気をつかっていた父親は、早く世を去りました。それも天命だと自分にいいきかせつつも、残念に思わずにはいられません。

今日義兄が末期がんで医者からもう何があっても可笑しくないという。明日なのか十日後なのか予断は許されないとの話を聞いて、ふと考え書いてみた。

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コメント

人は何のために生きるのか。これは、私もうつ病のとき、真剣に考え、悩んだことがありますが、いろんな本を読んでも答えが見つからなかった覚えがあります。その答えを教えてくれた人生の師匠に出会わなければ、自分の生きる道は見つからなかったかもしれません。本当に、大切なことですよね。

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