大切な命をいただいて生きている
「大切な命をいただいて生きられる」
愛犬家には家族同然に犬を可愛がっています。でも、一方で人間は食事で肉を食べます。同じ動物の命でも一方は最後まで可愛がって育て、一方は命を途中で断ち切った動物の肉を食べているわけです。
お店にパックで売られている肉を食べることはできても、今まで可愛がっていた家畜を、自分の手で動物の命を絶たなければならないとしたら、私は肉を食べることを止めてしまうかもしれません。
でも、それは言い方を変えれば自分の手を汚すことが嫌なだけ、きれいごとだけで物事をとらえているに過ぎません。深く考えると難しい問題だと思いますが・・・。
私は動物や植物など多くの命をいただいて生きてきたし、これからも多くの命をいただいて生きていく。だからこそ、動物や植物を含めて自他のすべての命を大切にし、その命をいただくときは感謝の気持ちをもち、無駄にしないように大切にいただく・・・。
昭和35年頃まで、実家の農家では、ニワトリが歩き回り、家畜小屋にヤギ、ウサギやウシを飼っており、これら家畜の世話は子どもの仕事でした。 ウシはコウシを産み、コウシのために出す牛乳を人が絞り、牛乳加工会社に売って生計を立てていた。コウシは少しの母乳を人の手で与え、大きくなったら肉牛として売っていた。
また、庭先で父親がニワトリを捌いて、お客さんの来訪時や暮れのご馳走に振る舞うこともあった。この時代を過ごした人はニワトリには可哀想な思いを残しながら美味しくいただいたものでした。
今では、地方に暮らす子どもたちでさえも、絵本で見るが、生きているウシやブタを見たこともない、触れたこともないという子どもが多く、彼らの命をいただいて出来た食肉は、肉屋さんの冷たいショーケースの中にきれいに並べられて、あるいはスーパーマーケットできれいにパックに盛られて販売されています。
今朝、あるいは数日前まで、私達人間と同じように温かい血が全身を巡って生きていた彼らを想像することは難しいのではないでしょうか。焼肉屋さんではコンロの片隅に黒焦げにされた肉の山を見ることが多く、家畜から直接命をいただく仕事をしている身には大変悲しい思いです。
私たちは家畜の命をいただいて食肉を食べることで命を永らえ、命をつないでいくだけでなく、皮や医薬品の一部など、家畜から多くの恩恵を受けているのです。
長野県職員の熱い想いが、職員自らの手によって作られた「ブタさん命をありがとう」というDVDがあるそうです。
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