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2011年6月20日 (月)

喫茶去(きっさこ)

06_12801 喫茶去・・・よく目にし、聞く言葉である。その由来と持つ意味は、誰に対しても分け隔てなく、おもてなしをするという。禅の心である。現代社会にも尊い教えであると思う。

朝日カルチャー「禅語教室」より・・・
禅語の中で最もほっとさせられることばが「喫茶去」である。去の字は喫茶の強調の助辞であり、去るという意味はない。「お茶を一服如何ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」と云う程度の意味に過ぎないが、「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心を日常に生かせるだろうか。 中国唐時代の有名な禅僧の趙州和尚の話である。

その趙州和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。
趙州「曽(か)って此間に到るや」お前さんはかってここに来たことがおありかな?
「曾(か)って到る」はい、以前にも参りました。
趙州「喫茶去」さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい。

またあるとき別の修行僧がやって来た。
趙州「曾(か)って僧「曾(かって到らず」いいえ、ここに来たことはありません。
趙州「喫茶去」さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい。

これを聞いていたこの寺の院主は「和尚は曾ってここに来た者にも、はじめての者に“お茶をどうぞ”と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」とたずねた。
趙州は是れに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主は思わず「はい」と答えたその瞬間、
趙州はまた「喫茶去」まあ、お茶でも一服召し上がれ、
このとき院主は、はっと悟ったという。
このなぜ悟ったかの追体験がこの禅問答の意図である。

それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに他ならない。

そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。

この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けとして尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきたことだろう。

私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。

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