多様な判断能力を・・・
私は小さい時に川で遊んで冷えた身体を田んぼの稲の中で泥を身体につけると暖かくなるのでよく田んぼの中で遊んだ。その時、見つかり、叔父さんに捕まってしまった。その時の怖さはいまだに忘れない。家に帰って母親からも小言をいわれスッカリ、しおげてしまった。
今は叱らない大人が多い、私もその一人だが・・・だが、小さい子供だけで喧嘩をしていて、親がその場にいなかったり、の場に合わない行為があった時は他人の子供でも注意する。
中学生の男の子というと、私より身体が多きいし腕力でもかなわない。それが5・6人ともなれば、悪いこと思っていても一人では注意はできない。今日、たまたま会った、交番のお巡りさんに聞いたら、「そういう時は110番してください」と言われた。
しかし、「していいことと」「してはいけないこと」の区別がつけられない子供が多くなったようだ。判断の基準は「善悪」ではなく、「自分の周りにいるみんながしているかどうか」だ。
それは、日本の子供が、家でも学校でも「ああしなさい」「こうしなさい」と言われるままに「受け身」で、自分できちんと考えるゆとりを与えられずに育ってきたためだという、遊びも受け身で、創造性も自分で考えることも必要としないからだ。いわゆる指示待ち症候群?である。
将来子供たちも、自分の考えで行動しなければならない時が来る。そのとき周りを見渡して「善悪」を問うことなく、周りの仲間と同じことをする。「みんながやってるから」と言う理由だけで、悪の道にはいってしまう子供も多い。注意されることで、成長して行くのだ。
社会生活をする上で「善悪」をわきまえる判断能力は不可欠であり、子供の成長過程で躾として親が養うべきものである。人は生きていくあらゆる局面において、この「善悪」をわきまえる判断能力が常に試される。いじめは、この判断能力が養われず、十分に具わっていない土壌に生じる。
グローバル化した世界で、民族や宗教、さまざまな価値観を異にする人々と共に、地球規模で生きていかなければならない、「善悪」の判断については、人類共通の普遍的なことから、価値基準がちがうために、見解の相違が生じるものもあるから、多様な「善悪」についての判断能力を身につけるべきだ。
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