修業と修行
「修業」・・・奉公に出され、他人の飯をう。親方の家に止宿して師匠と起居を共にし、技術だけではなく、人間的な面も含めて修業をする。いわゆる親もとを離れて、他人の間で苦労を味わい、社会の経験を積む。むかし、大工・左官・理髪・寿司など多くの職人、徒弟教育という伝統的な教育システムで一人前と認めてられる制度があった。
むかしは女の人には花嫁修業というのがあって、お嫁入り前の一定期間、他家の女中となって調理や裁縫などを習ったものだ。また、どんな宗教にも厳しい「修行」というものがある。
修行・修業との違い、いったいこの二つはどのように違うのであろうか。「修業」は、初心者が次第に練習を重ね、最後に免許皆伝ということになる。ちょうど山を登るように、高い目標に向かって進むようなものだ。
これに対して宗教における修行の方向は水平方向であり、行く先は果てしない。修行の「行」には、どこまで続いても交わることのない平行線、というようなニュアンスがあるように思う。
宗教的修行には完成ということがない代わりに、出発点における求道の熱意のなかに、すでに目的は成就されているといえるであろう。
「修行」は、「修業」のように、弟子が練習を重ねてだんだんと師匠に近づいて行くのではなく、「修行」において師匠は、常に弟子と共にあり、弟子は師匠と対等である。
師と弟子のこのような構図は、学校教育における先生と生徒の関係の、理想的なあり方を示していると思う。そして、修行においては終わりはない、死ぬまで修行だ。
« 政治が変えらる | トップページ | 何処に行って同じ・・・ »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント