他力と自力
仏法では、“他力本願”というと、「他力」は「阿弥陀如来の力のみ」を指し、「他力本願」とは「阿弥陀如来の力によってなされたお約束」ということであり、また他力本願のはたらきによって、強くたくましく生きていける。その他を“自力本願”というそうだが、どう違うのかと言うと、「他力」を“他からの助力をあてにすること、また、「自力」を自分ひとりだけの力と解釈するのは間違いである。
つまり、自力は、自分の修行の力でさとりを得ようとすることなどと考えるのは間違いであり、「自力」を自分の力、己の力と解釈するのではなく、「自ら備わっている力、生まれながらに頂いてている力」と理解すべきものなのである。
生まれたばかりの赤ん坊が、誰も教えたわけでもないのに、母親の乳をのむことを知っている。これは自ら備わった力であり、強いていえば、これが自力である。
人間、自分ひとりの力など、本当に小さなものである。もし、自分ひとりの力で生きていると考えるなら、間違いであり、正しい意味の自力とは、「自分に働きかけている自然の力を自覚させられること」である。
自然は、目に見えない真理が目の前の現象にそのままにあらわれている。たとえば、リンゴが木の枝から落ちる現象に、そのまま万有引力が自力である。仏法に他力と自力の対立があるのではない。自力というのも仏力の名であり、他力と呼ぶも仏力の名である。
ご飯を食べる時、正座し、背筋を伸ばし思わず手を合わせる。また何かいいことがあった時に、「ありがとう」という。誰に向かって言っているか分からないが「ありがとう」を言うように人間はできていると思う。
懺悔という言葉があるが、ひそかに自分の内面の悪い思いを見つめ、正すのが「懺悔」である。今日、自己主張の時代に、一番忘れられている概念ではないだろうか?青葉・若葉の季節である。生かされて生きていることの実感をかみしめたいものである。
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コメント
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私の自論からいえば、結局 祈るということは 自力で他力でも あると思う。結論と相違の解釈~
自力といわれたほうが いい時がある
他力といわれた時のが いい時がある
自力とかのが カッコいいかなぁ?
尾崎豊さんの 僕が僕であるために という歌詞が浮かんできました宗教研究会(名前検討中
この世界が 自力と他力とで みんなで 幸せにできたら いいですね。
投稿: 村石太スカイ | 2012年4月23日 (月) 21時16分