
昔の子供時代、誰でも、自分そのもので生きていた時代があった。「自分らしさ」というのを気にすることもなく、そんな発想自体も持つことはなく、ただ、自分の気持ちを感じたままにそのまま出して、自分を隠すということを全くしなかった時代があった。「寂しい」と感じた時にはお母さんの側にくっつき。「気に入らない」ことがあれば、泣きわめき、「嬉しい」ことがあれば、ピョンピョン飛び跳ねて感情を表現した。
そのように、自分を隠すことなく、心の感じるままにそれをそのまま表現していて、まわりの人達にそれを受け入れられていた。ところが、大きくなってくると、いつでも全てを受け入れられるというわけではない。
例えば、お出かけに連れて行ってもら嬉しくて、電車の中で騒いでいると、お父さんやお母さんに「電車の中では静かにしなさい!」と怒られることが出てきる。
電車の中という公共の場でのルールを教えているのだが、小さな子供には、そんな事情は分からない。子供にとっては、「怒られた」「怖かった」「悲しかった」「嫌われた」といった部分しか残らず、大好きなお父さんやお母さんに愛されなくなることを怖れるようになる。
次の機会に、その怖れから、騒ぐのを我慢して電車の中で静かにいると、お父さんやお母さんに誉められるような経験があると、「我慢をすると誉められるんだ」「我慢をしないと怒られるんだ」といったように、我慢して自分を抑えるということを通して、お父さんやお母さんの愛を得ようとし、自分の気持ちに自制心が生まれる。
そうして、協調性や、周りの人の気持ちを分かるようになるとに、自分の気持ちを表現することを失ったり、自分の気持ちを抑えたり隠したりすることで、いつしか、自分の気持ち自体も失っていく。このように、小さな子供なら理解できなくてあたりまえ、誤解しても仕方がないといってもいい誤った思い込みによって、「自分らしさ」を失ってしまう。
そうして、意識的、無意識的にかかわらず、自分らしさを隠していくことで、同時に、自分の持つ魅力の部分をも隠してしまうことになる。
これらを「躾」と言うことになる。子供の躾とは、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞いができるように、訓練することである。
子供の個性を生かしながら、社会・集団の慣習を踏まえて、独自な能力を示していくことが、人間社会の発展に繋がっていくことであり、躾は、子供自身の個性を大事に育てていくことだ。
グローバル化した現代社会では、生まれ、育ち、など慣習が違う人たちとの交流や生活を共にすることもある。理解して、新しい価値観を見出し、共有しながら生きることになる。
いま、問題となっている、思想・宗教・信条を否定して暴力や争いが絶えない社会がある。「共存・共栄」の意識を持って平和な社会を構築に人間の知恵で造り上げいくことが大きなテーマだ。子供を持つ親はこれらを、考えて自分の子供を躾・教育して欲しい。