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2010年5月25日 (火)

普通が当たり前とは

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0008tyokai1 人と人のコミニケーションで「普通」「常識」の判断基準で悩むことがある。

これが「普通」といっても定義があるわけでもない。最大公約数的価値判断で考えて見ることが大事だと思う。だから、国・地方・宗教などで昔から培われた習慣や、生きる術であり、いわゆる歴史と文化である。時代によって進化していくことだ。

普段の日常生活で考えて見ても、人それぞれに様々な考え方がある。背景にあるものは、価値観、生き様など、他人とまったく同じということはありえない。ですから本当の意味での全人類共通のスタンダードというものはないと。

また、「普通」によく似た言葉で「常識」というのものが、これも同じく真の共通項などない。だが、それをあると認識し会話・付き合いをした方が、都合がいい場合が多い。最大公約で落としどころと判断する、いわゆる暗黙の了解となり、「よし、今回はそういうことにしておこう」と折り合いをつけて、「普通」とか「常識」とかいうことだ。

「普通」・「常識」といったものは、科学的に決着をつけることより、「神が見てる」を前提にしておく方がうまくいくみたいなことってある。

一応法律という共通の指標が存在するが、それが人々の行動を決定づける、あるいは動機づけるものとして万人に常に働いてることではない。むしろ一般に常識とされることの中には違法性の高いものもある。

また、国が変われば規則も変わり、法律は「普通」や「常識」にはならない。人々は常に自分基準で、それを「普通」として生きる。したがって、自分以外の人は多かれ少なかれ「どこか変だ」と思うことになる。

普通じゃないことは特別なことではなくって、ただ自分と違う点があるというだけのことなのだと思う。超人的な肉体・精神を持っている人でも、一般社会人と生活していることで、とりたてて特別なことではない。

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