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2010年5月23日 (日)

日本再生の鍵

06oga_toga11 23日・・小雨降る朝となった。テレビや、新聞では、暗いニュースばかり、政治・経済の行く先不透明さは増し、嘆かわしい事件多発・日本国民の不安は深まるばかりである。日本再生のシナリオはあるのか?やはり再生の鍵は教育にあると思うのだが・・・

斉藤孝著「日本を教育した人々」から・・・日本を立て直すのは、経済発展でもなければ、政治改革でもない。日本人そのものの教育を見直さなければならないだろう。
「教育とは何か」、原点に立ち返って考え、近代日本を作った人たちがどのように教えてきたか考えてみた。日本の歴史燦々と輝く、吉田松陰、福沢諭吉、夏目漱石、司馬遼太郎の教えを考えてみた。

第一章・・・松陰が伝えようとしたのは、いま自分がどういう世界に生きて、何をしなければならないか、何を使命として生きなければならないかという意識だった。その使命感に対するセンスがなければ、学問をしても意味がない。もし学問をする意味があるとすれば、そのような使命感を自覚するところにある。

吉田松陰は、何をしなければならないのかを、熱く語った教師で、その熱によって心が揺さぶられ、志が生まれていったようだ。こういう熱く語れることは、教師の大事な資質なのだ。

第二章・・・諭吉にとっては、知識がモラルに結びついているのは当たり前のことだった。なぜかというと、学問する目的は独立の維持・確保にあるわけで、「不羈独立」を実現するための学問といえば、モラルを抜きにはまったく考えられなかったからである。

福沢諭吉の教育は「個人の独立」「国家の独立」が大きな柱だった。その独立するための大きな力が、「学問」でした。その学問は、専門的、技術的な知識だけではなく、人間としてのモラルが中核になった。

第三章・・・漱石の小説が、「自分はどうしたらいいのだろう」と悩む主人公を登場させたとしても、それは淑石の悩みというよりは、これから多くの日本人が背負っていくであろう悩みを先取りして描いたに過ぎない。いわば漱石は、おのずと「悩み方の教育」を施していたとも思える。

夏目漱石は、悩みを通して、人間に対する理解を教えた。自己中心的な考えから離れるためには、相手はどのように考えるかという人間理解が必要で、漱石はそれを小説に描き、今もなお古びず、多くの読書を得ている。

第四章・・・司馬遼太郎は、「自分は日本人だ」と誇りをもって言える拠り所を自ら見出そうとし、そういうものがなければ、新しい日本をつくっていくエネルギーが出ないのではないかとも考えたのだろう。

日本人は、真面目で高い倫理観や労働観を持ち、それが近代国家を後押しをしてきた。
その「明治の日本人」を消化しながら、気概を持った人間を描き、明るい日本人を描こうとした。司馬遼太郎は、昭和初期から戦争が終わるまでの日本人は、熱にうなされた「被日本人的」だったと認識している。今の日本人は、司馬遼太郎の描いた「日本人の品格」を持っているのだろうか?。

抽象的な観念論ではなく、具体的に人物を通して伝えられる教育論は、説得力がある。
著者の熱意も伝わってくる。いまの日本は、大学に入るための教育、いい就職とお金もうけのための教育になっている。人間を作るという教育からは程遠いと言わざるを得ない。

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