次兄の告別式を終えて
今日次兄の告別式を執り行った。大勢の弔問に訪れていただいた。次兄は、長い闘病の末、薬石甲斐なく84歳の生涯を閉じたのである。結婚し二人の子供五人孫に恵まれたのである。その生涯は幸せと思っていただろうか、それとも苦しく、辛い人生と思って人生を終えたと思ったのだろうか、残念ながら聞き損ねてしまった。
後は残った遺族や周りの人の評価に任せるのみである。「虎は死んで皮残し、人は死んで名を残す」という言葉がある。果たして寅年に生まれ、寅年に亡くなった兄はどうだったのか?
「どうせ瞬きするほどの人生ならばせめて美味いものを食べられるだけ食べて、やりたい放題好きかってなことをして、それで結果的に野垂れ死にしようが俺の勝手じゃないか。放っておいてくれよ!」と、考えたこともあるが・・・。
しかし、仏教の教えは、「全てはあるがままの姿であり、それがあなたの姿であり、この世には、たとえて言えば仏もいれば鬼もいる。好気性菌もいれば嫌気性もいる。そしてそれらはますますそのように進化を続ける。その縁者を巻き込みながら」と・・・。
キリスト教の最後の審判ではこの世ではどんなに立派な服を着て死のうが心の罪を犯した人間は必ずそこで断罪されると説いている。
萬徳円満な釈迦は死の床に際してその涅槃図に伝承されているように誇張した表現になってはいる、いわゆる鳥や獣までが駆けつけて泣いたと表現されている。
そして、私は考えた。これからも、永く人々の良い話題となり、せめて家族や子孫らに語り継がれるように「名を残す」には、今何をすれば良いのか。じっくりと考えねば…。