真実と言うこと
真実=嘘のないこと、本当のこと。と辞書にはある。人間は何処まで真実を貫き生きられるのか、最近その事で、悩んでいる。ちょっと頭を整理してみた。
この如来(阿弥陀如来)を、一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つもあるべからざるものなり(蓮如上人)とある。
泣いても笑っても真実の道は一本だけで、弥陀の本願以外に、真実の幸福はありえない。
真実は一つだと言うが、9月の爽やかな空気の中、澄み渡った青空を眺めながら、「すがすがしい天気だなあ!」と両手を広げて天空仰いでみると、真実は青空の存在そのものである。
万人にとって真実は一つであると仮定すれば、「むなしい青空だ…」と溜め息をつく人がいる以上、真実は青空の存在そのものであり、それを眺める人の気分は、たまたまその時その人がそのように感じたという事実に過ぎない事なのだ。
人間が生きるということは、無味無臭の真実に主観的な価値を与える、営みとしてとらえることができる。海に沈んでゆく巨大な夕陽には、美しさも哀しさもない。見る人がそれに美しいという価値を与えて感動したり、哀しいという価値を与えて涙したりしているだけである。
このように眺め渡すと、人は自分をとりまく事象に主観的な価値を与え、与えた価値を対象の属性と受け止めて一喜一憂しているのではないだろうか・・・。
しかし、平和を希求する強烈な意志を、人間の楯となって表現するためにアフガニスタンに赴く人々を見るに及んで、むしろ真実は主観の側にあるのではないかと思う。
人を命がけの行動に駆り立てるほどの強い思いが真実である。とすれば、真実は人間の数だけあると考えた方がよい。そして本当の平和とは、自分以外の人々の真実を尊重するところにこそ存在する。
八ツ場ダムの工事継続・中止が、大きな問題となっているが、本当に多くの人の幸せのための真実が、関係する人間の価値判断で違う、その人それぞれの主観であるから人々の幸せを考えて集約するこことが大切だ。
真実は、時間が経って結果で判断する見方があるが、それすら主観の側に立って判断される。客観的には、最大公約数的に評価されるが、それが真実かとは言えない。
人間には、「三毒」=人の善心を害する3種の煩悩(ぼんのう)。貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)があるから、この世に生きている限り真実は希求することは出来ない?。
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