「人間は考える葦である」と言うことは
湯殿川の河川管理道路を毎朝散歩している。静かで風もなく、葦が揺れている目を凝らして見るとマガモが2羽泳いでいた。そんな光景を見てパスカルの「名言」を思い出した。
「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの言葉。
「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実だが、、何故「葦」だったのか、という疑問が起る。もっと他のものでも良かったと思うが・・・。
これは、誰かの説明であったのか、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってしまう。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって風になびいてしまう。
しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に負けない、でも、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまったりする。
賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったと思う。
少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。
自然界の中で大変弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」つまり「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思う。
この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えてくる。パスカルは、40歳に満たないで亡くなっている。彼は、少年の頃から神童と言われたそうだが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去った。
自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「戦う」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云える。
弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルは連想したのだろう。
「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのだろう。
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