要領の上手な人悪い人
昨日、地域にイベントを、役員が10人足らずで、恒例となっている「敬老の集い」を行なった。私は要領が悪いと反省するのだが、何とか大過なく終らせる事が出きほっとしているが、責任感があってのことか、また、準備を任され心身とも疲れた。(旨くいって当たり前、ちょっと失敗したら大目玉である。)
そこで要領よく生きるということを改めて考えて見た。
要領よく生きてきた人
私も馬鹿を扱うよ
知識や知恵があれば、
仕事のやり方を分かっている人なら、一見手抜きをしているように見えるのを「要領がいい」なんて言わない。なぜなら手抜きが出来ると言うことは、仕事の本質を捉え、効率的に作業をやっている証拠だからだ。本当に手抜きをしていれば、当然結果に表れる。
同じ結果ならば、作業は楽で短い方がいいに決まってる。「アイツは要領がいい」等と陰口をたたく者は、大抵は自分の非効率さを棚に上げている「給料泥棒」である。そしてそのことを指摘すると「俺だって一生懸命努力してるんだ」。
その相手がそつなくこなせる点を見て、自分はそれをできないという劣等感が刺激され、うらやましいと思う反面、自分の欠点があらわになるので、それをかばおうと自己防衛機能が働いて、相手を世渡り上手で嫌な人と攻撃する。嫌な人と相手を低い評価をする事で、自分の自尊心を保持することができ、心のバランスを保つということだ。
世渡り上手という定義にもよるけど、相手が本当に卑劣な手段で人の足をひっぱるとかなら否定されるけれど、自分の評価を高めるため、周りとそつなくやっていくためにしていることなら、認められるし評価もできる。
ひがむ人は概して努力不足なところがよく見られる。怠慢であったり、努力の方法が分からなかったり、努力することが分からなかったりする傾向がある。ひがんでいる人の顔の表情はネガティブな感情でゆがんでいることが多い。
世渡り上手な人がいてねたむ気持ちが芽生えたら、少し距離を取ればいいと思う。いい部分は取り入れてみればいい。そして努力してみる。人はそれぞれ。得意なこと、不得意なことがあるから・・・。
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