和顔愛語
和顔愛語とは、「仏語」で、たとえお金や物を持たない人でも、笑顔(和顔)や優しい、いたわりの言葉(愛語)を施すことで、これも立派な布施行という。
また、「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉で、「和顔」は、やわらかな笑顔「愛語」は、やさしいことばすなわち、この言葉には笑顔で愛情のこもった言葉を話すという意味である。
昨夕、覚せい剤取締法違反で、起訴された女優の酒井法子被告が拘置先の警視庁東京湾岸署から保釈さた。テレビのニュースで見た。
多くの報道陣に囲まれ、湾岸署の玄関で頭を深々と下げ、謝罪をした。罪を犯して大きさは、彼女なりに痛感し、反省しているようだった。顔の表情から、反省の真剣さが感じ取れた。必死で涙を抑えた話し方が印象的であり、安心したのか笑顔さえ感じられる表情に見えた。
思い出したのが「和顔愛語」である。「和顔愛語」というと、よく行くスーパーでレジをしている店員である。お店の幹部から、教育されていると思うが、いつも、「いらっしゃいませ~」「何円のお返しです」「ありがとうございました」と笑顔で、可愛らしい声で話されると心が和んでしまう。
感じのいい方だな、素敵だな、見習わなければといつも思うくらいである。どんな人にとっても「人生は苦なり」。日常の出来事は、放っておけば苦虫つぶしたような顔になることばかりである。それでも笑顔でやさしい雰囲気なのは、笑顔絶やさず、気持ちよくお客さんと接しようと、常に心がけておられるのだ。
この笑顔と優しい言葉で、大事な運命が決まることもある。笑顔の素敵な人は、男性、女性を問わず、惹かれてしまう。心からの笑顔はうつくしいし、気持ちが安らぐ。笑顔に出会うと幸せになれる。「笑顔は幸せへのパスポート」というキャッチコピーを見たこともある。嫌なことばかり続く毎日であるが、和顔愛語を努力して実践するようにしたい。
人は必ず何かを信じて生きている。「信じる」を言い換えれば、頼りにしたり、あてにすることを言う。妻は夫を、夫は妻を信じ、親は子供を頼りにし、子供は親をあてにして生きている。自分の身体や命もそうであり、財産や名誉、社会的地位など、必ず人は何かをあてにして暮らしている。だから生きるということは信じること。神や仏を信ずることだけが信心ではないと思う。
しかし私たちは、ただ生きるのではなく、幸福を求めて生きている。苦しみや悩みはなぜ生まれるかというと、信じていたものに裏切られた時に起きてくる。夫を信じ切っていた妻が、夫に裏切られたり、健康な人が病気にかかり健康に裏切られたりするから苦しむ。それが深く信じていればいる程、裏切られた時の苦悩や悲しみ、怒りは大きくなってしまう。
結論から言うと、裏切らない、変化しないものというのはこの世にはない。裏切られたと嘆き悲しむのは、ちょっと馬鹿らしく思えてくる。これに気付くことがもしかすると和顔愛語の始めなのかも知れない。
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