青梅の思い出
今日の名言
悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。 |
ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』(下) |
累々として今生の実梅たり 廣瀬直人
見事な句と思う。累々というのだから実梅が地に落ちている情景。「たり」には一個一個の存在感が意図されている。「今生」つまりただ一回きりの自分の生の或る瞬間の風景として実梅を見ている。品格も熟達の技術も一句の隅々まで行渡っている。
ところで、今生の或る瞬間の風景として、たとえば自転車や自動車やネジやボルトやパソコンやテレビや机や椅子が「累々」としていては「今生」を意識できないか。できないとするならばなぜかというのが僕の中で持続している問題意識。
「今生」の実感を引き出すのに「実梅」が持っている季語としてのはたらきや歴史的に累積してきた「俳句的情趣」が不可欠なのかどうかということ。特段に自然の草木の中に身を置かずとも僕らが日常見聞きし感じている万象の中にこそ「今生」の実感を得る契機は無数に用意されているのではないか。
病床六尺の中にいて「今生」の実感を詠った子規が生きていたら聞いてみたいのだが。『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)
累々と 葉影に生まれし 実梅かな
もう少しで梅もぎができる。二月に花が咲きそれから100日すると実梅となる。梅酒づくり、梅干しにしたりする家があるが、毎年だから多くはいらないのだが・・・。
梅の木肌は荒れていて素手では登れない、子供頃梅ノ木に上って、シャツ破いてしまって母に怒られた思いがある。何も食べるものがない年代では青梅を取って食べた。その頃、衛生状態も良くなかったかもしれないが、「疫痢」「赤痢」で子供が亡くなった話を聞かされた。「青梅」の季節になると、「子供の死」という、イメージがある。
梅が熟れて黄色くなって実生の木となったものを、本家からもらって、植えたが4メートルぐらい大きくなった。しかし、30年経った頃、どんな訳か分からないが枯れてしまった。残念だった。
あぁそうそう、梅といえばこの頃、竹の皮で、梅干の包んで、しゃぶって遊んだこともあった、その味を覚えていている。懐かしいなぁー。
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