猫の今昔
今日の名言
女の子は、結婚がなによりもお好きだが、たまにちょっと失恋するのも、わるくないと見えるね。 |
オースティン『高慢と偏見』(上) |
猫の恋太古のまゝの月夜かな 宇野 靖
ここ一、二年、一階に住む妹の家に毎日猫がやってくるようになった。野良もいれば、首輪をした飼い猫もいて、ふらりとやって来ては、餌を食べていなくなる。幸い「野良猫に餌をやっては困ります」という話がご近所から出ることもなく、猫の方もこの界隈を渡り歩いてゆるゆる過ごしているようだ。
でも、そのわりには特にここ数年、春になっても夜は静かな気がする、恋してるのか、猫。ともあれ、月を仰ぐ時、海を見る時、山頂からさらに遙かな山々を見渡す時、太古の昔から変わらない風景なのだという感慨と共に、自らのヒトとしての本能を呼びさまされるような気がする。
作者も、そんな気持ちになったのだろうか。ざわざわと内なるものの波立つ春の夜。掲出句は、「ホトトギス雑詠選集 春の部」(1989・朝日新聞社)にあり、昭和十二年に掲載されたもの。昭和十二年といえば、河東碧梧桐が亡くなった年だな、ということを、以前どこかで観た、碧梧桐の猫の絵のくっきりした墨の色と共に思い出した。(今井肖子)
猫は昔も今も、数は変わらないのではないかと思う。しかし、今のほうが存在を強くしてならない。なぜならば、ちょっとしたスパーにいけば、猫の餌の缶詰が売っている。簡単に飼うことが出来るからと思う。ただし、ねずみを捕るような光景は見ることが出来ない。
昔の農家の作りでは、隙間だらけで猫は何処からでも出入り自由であって餌は、ご飯、おかかをかけただけの物だった。動物性タンパク質の補給でねずみを食べるしかなかった。
よくねずみを捕って、座敷でもてあそんだ最後に頭から食べる光景を見ることがあった。畳を汚して、母親に掃除をさせられたことがあった。だからねずみ退治に猫を飼うというイメージだった。今は、缶詰の餌で栄養よい。自然と餌を捕ることをしないで済んでしまい、本性を現さない。
猫を飼うには、猫の性格をよく知る事である。猫の性格は、完全に人間に馴れないのだ。一日のうちでも、喉をゴロゴロ鳴らし甘えるかと思うと、時に野生に戻る事がある。しかし床に泥足の跡を残して行くのには閉口してしまう。春になると発情する縁の下で唸りが聞えて来るころだ。
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