雲雀の思い出
今日の名言
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マルクス、エンゲルス『共産党宣言』 |
青空の暗きところが雲雀の血 高野ムツオ
高野公彦の短歌に「ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじやう)の空は暗きまで光の器」という一首がある。「雲雀」「青空」「暗い」というキーワードとまばゆいばかりの明るさと暗さが交錯する構成は共通しているが、表現されている世界は違う。
高野公彦の短歌は一羽の雲雀から空全体へ視界が広がってゆくのに対しムツオの俳句は空から雲雀の血へと焦点が絞り込まれてゆく。公彦の世界では暗いのは光の器になるまで輝いている青空全体であり、淡青の空の裏側に暗黒の宇宙を透視している。
それに対して掲句の場合暗いのは「雲雀の血」であり、空に舞う雲雀が一点の染みとして捉えられている。地上の巣を見守るため空に揚がり続ける雲雀の習性に宿命を感じているのだろうか。
青空の雲雀は俳句ではのどかな情景として描かれることが多いが、この句ではそうした雲雀を見る眼差しが自分を見つめる内省的な目と重なってゆくようである。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)
夏目漱石の「草枕」のなかに雲雀に対する描写がある。
雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いているか影も形も見えぬ 。只声だけが明らかに聞こえる。せっせと忙しく絶えまなく鳴いて居る。~略~空気が一面 に蚤に刺されて居たたまれない様な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を 鳴き尽くし、鳴きあかし、 又鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。
雲雀といえば、空が茶色になってしまう日が春先にある。麦畑の土ぼこりがまい上がる。そんな麦畑の中から、突然ひばりが鳴きながら殆ど垂直に登り始める。確かではないが高さ50~60メートルぐらいまで上がっているのだろう。そして暫くすると急降下し麦のかぶらに作った巣に入るのである。
むかし、親父がその雲雀の巣にいる雛を捕まえ黒焼きして、胃腸(下痢)の薬として飲まされた。何だか効いたような気がしたが、今で思うとちっと残酷な気がする。
郭公なくや雲雀と十文字 向井去来 こんな句を思い出した。
カッコウ科の鳥。全長28センチくらい。全体に灰色で、胸から腹に横斑がある。アジア東部で繁殖し、冬は東南アジアに渡る。日本には初夏に渡来。キョキョキョと鋭く鳴く。
この句は、中学生ころの国語の教科書にあった?と思う。広い麦畑の畦道を歩いていると、突然飛び立つ雲雀がいた近くの雑木林で「キョキョ」と鳴いている光景に出食わしたことがある。でも郭公の姿はかくにんできなかった。
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