千の利休
今日の名言
多く説くからとて、そのゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨(うら)むことなく、恐れることのない人、――かれこそ〈賢者〉と呼ばれる。 |
『ブッダの真理のことば・感興のことば』 |
大男にてもありける利久の忌 相生垣瓜人
利休忌(利久忌)は、旧暦二月二十八日。今年でいうと、三月二十四日にあたる。そして利休の身長は、残されている鎧から推測すると180・位だったらしい。
利休、茶道、侘び茶という連想から、こじんまりと枯れた雰囲気の人物像を勝手に想像してしまっていたが、考えてみれば戦国時代、お茶を点てるのも命がけであり、利休にしろ始めからおじいさんだったわけではない。
それにしても、秀吉の身長が、通説の140cmは不確かとはいえ、少なくとも小柄だったことは間違いないとすれば、二人の心理的関係の別の側面も想像される。
この句は、利休は大男であった、という、ちょっと意外とも思われる事実を、やや詠嘆をもって詠んでいる。それを知っていれば、そうなんだよね、と思いながら、知らなければ、へえそうなんだ、と思いながら、利休の生涯にそれぞれがふと心を留めるだろう。
正座と和菓子が大の苦手で、茶道はとても近寄りがたいが、利休という人物にはちょっと興味をひかれるのだった。「新日本大歳時記 春」(2000・講談社)所載。(今井肖子)
ウィキペディアより・・・1951年、利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。七十歳であった。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる辞世の句が残っている。
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
じんせいしちじゅう
咄、ナニクソ、我が這
霊妙、活機、仏もなく
利休の時代から400年、こんにちの茶の湯の流れは、その多くが利休に源を発しているともいえる。また同時に、現在、茶の湯が日本の代表的な文化の一つとしてあげられ、人々に受け入れられているのは、利休が大成した茶の湯を、その後世の人たちがいかにして継承してきたかということも重要な要素となる。その生涯と茶の湯を、そしてその茶の湯が今日まで受け継がれてきた「千の利休」の、表千家の文化の歴史がある。
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