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2009年3月16日 (月)

タンポポとおき去りのボール

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今日の名言

どこの国だってほんとうの善人は多くない、はなはだ少ない。美しい人も多くはない、はなはだ少ない。
しかしいないことはない。ただそういう人にめったに会うことができないだけだ。
武者小路実篤『友情』

花の夜をボールふたたび淵を出で 竹中 宏

野球のボールか、テニスのそれか。夜桜見物の折り、作者がふと川面に目をやると、夜目にも白いボールが浮いてゆっくりと流れていく。作者が目撃した実景は、ただそれだけである。しかし作者は瞬間的に、このボールが長い間川淵に引っかかっていて、それがいま「ふたたび」動き出したのだと思えたことから、俳句になった。

では、何故そう思えたのだろうか。無理矢理に想像してこじつけたわけではない。ごく自然に、そう直覚したのだ。この直覚には、間違いなく世代によるボールへの価値観が結びつく。作者と私とはほぼ同世代だが、私たちが小さかった頃、敗戦後まもなくの頃のボールは貴重品だった。

野球の試合中でも、何かのはずみでボールが川に落ちると、もう試合どころではない。全員が川まで駈けていって必死にボールを掬い上げたものだった。が、ときどきは、いくら目を凝らしても見つからないことがある。おそらくボールが、川淵の屈まったところに引っかかってしまったに違いないのだ。

こうなると、まず見つからない。それでも未練がましく、しばらくは全員でぼおっと悔やみながら川面を見つめていたものだった。この句の実景を目にしたときに、作者の脳裏をすっとよぎったのは、たとえばそんな体験だったろう。だから「ふたたび」なのである。

まさか「ああ、あのときのボールだ」と思ったわけではないけれど、ここにはそれに通じる思いがある。ほっとしたような、「なあんだ、こんなところにあったのか」と納得したような……。

束の間の非日常的な「花の夜」に誘われたかのようにボールが淵を流れ出て、作者に思いがけない過去の日常をよみがえらせたということになる。私などの世代にとっては、まことにいとおしい時間と空間をもたらしてくれる句だ。俳誌「翔臨」(第64号・2009年2月)所載。(清水哲男)

 蒲公英と ボール寂しく 残される

子供たちが帰った後、公園を掃除していたら、忘れたのだろう、白い野球ボールが落ちていた。そこにタンポポの黄色い花が咲いていた。何ともその取り合わせが万感心にくるものがあった。

私の子供時代何も無い時代で、ボールの価値観は、今の子供たちと大分違う。ボールがなくなっても、探し方や、ちょっと諦めが早い。物を大事に仕方も違う。いわゆる価値観の相違である。公園の遊具の使い方、ゴミの始末など親の躾が疑われるばかりである。

東京江戸川区南葛西に住んでいる孫は、野球が好きなようである。ルールを守ってこそ野球が面白い。公共の施設や物をを大事に使う躾はどうだろう。ちょっと心配になった。

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