人間の神経のこと
今日の名言
政治家とは情熱と判断力の二つを駆使しながら堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。
ヴェーバー『職業としての政治』
冬草にふかくも入るる腕かな きちせあや
季語は「冬草」。こういうことを詠めるのが、俳句という文芸ジャンルに許された特権だろう。あやまって何か落したのだろうか。枯れてはいるが丈の高い冬草のなかを、作者は手探りで探している。なかなか見つからないので、もっと奥の方かなと「腕(かいな)」をなお「ふかく」伸ばしてゆく。
手を動かすたびに、脆そうに見えていた枯草が、しぶとく腕にからみついてくる。このときに作者が感じたのは、草の意外な強さに反発している自身の「腕」の存在だった。ああ、私には腕があるのだ……、と。
日常生活では、怪我をするとか余程のことでもないかぎり、私たちは腕の存在など忘れて暮らしている。腕に限らず、五体の全てをとくに意識することはない。その必要もない。けれども、何かの拍子にこのように、ふっとその存在を知らされることはある。
たいていの人はすぐに忘れてしまうが、作者はそのことをきちんと書き留めた。特別な感動を受けたり感興を催したというわけでもないのに、しかし、このことに気づいたのは確かだし、その様子を含めて書いておくことにしたのだった。
普通にはまず書き留めようという気にもらない些事を、作者には慣れ親しんだ俳句という表現様式があったがゆえに、このように定着できたのだ。このことに、私は静かな興奮を覚える。俳句があって良かったと思うのである。『消息』(2003)所収。(清水哲男)
人間の身体の何処の部位であっても「血」は通っているところには、神経も付随している。その箇所が傷めると血は流れ、痛いと感ずる。髪の毛一本でも故意に抜こうとすれば、痛いと感じる。
普段は、存在すら忘れてしまっている手の甲にちょっと腫れたので、昨日整形外科医に行って見てもらった。ガングリオンという、注射を患部射して、処置は終わった。たった1分だった。
痛くないと、異常に気がつかないこともある。癌などであるが自覚症状がない内に侵されていることがある。これは命に係わることもあり、非常に怖い。しかしこういう神経が察知出来ないことがあるのも人間の身体だ。
普段から、健康診断をうけて、いつも健康チエックが大事である。また風邪などで、潜伏期間があって、ある期間が過ぎると発症すると言うこともあり、人間の神経だけで防御するのは難しい。
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