この世の無常・・・
この世の無常・・・。
無情という言葉はよく使われる、思いやりがないこと、なさけ心のないことを言う。あるいは非情とも言いう、精神や感情などの心の働きのないこと。ところが無常という言葉はあまり使われない。
無常とは、定まりのないこと、一切のものは生滅して常住でないこと、人生のはかないことを言いう。人の死去したことを無常の風が吹くなどと表すようだが、無常という言葉は日常的にあまり語られない。
「明日に紅顔ありて夕べに白骨となる」ということわざのとおり、生身の人間だから、突然に命を落としてしまうことがある。自分には無常の風は吹かないということはない。儚いのが命である。この世は無常、肝に銘じておきたいものである。
そして「青柿が熟柿弔う」という言葉があるが、お若いのに気の毒なことだと、若くして亡くなられた人の死を惜しんでいるが、いずれ自分も遅かれ早かれ死んでいく運命にある。
「無常憑(たの)み難し、知らず露命(ろめい)いかなる道の草にか落ちん」だからこそ「此の一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり」と命を無駄使いしないようにと道元禅師は教えられた。我が身は宝物、大切にして意義ある日々を生きたいものである。
「日々欲望にふりまわされ、欲望を追求する生活であるが、いかに自我欲望をおさえる努力をするかが、自分を大切に生きるということでもある。おたがいに心して日々生きていくことを、大切だと思う。」
実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。
青柿が熟柿弔う=まだ十分に熟していない青いカキが、自分も同じ運命にあることに気付かずに、熟して木から落ちたカキを見て同情すること。(日本辞典)