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2008年9月 3日 (水)

撥釣瓶井戸と釣瓶井戸

今日の名言

詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。

『萩原朔太郎詩集』「月に吠える」序

05ainokura11新涼の水汲み上ぐるはねつるべ 岩佐東一郎

長い横木の一端に重石をとりつけ、その重みでつるべをはねあげて水を汲みあげるのが撥釣瓶(はねつるべ)。そんなのどかな装置は、時代劇か民俗学の時間のかなたに置き去られてしまったようだ。私も釣瓶井戸は見ているが、撥釣瓶井戸の実物は幼い頃に見た記憶がかすかにあるていど。

もはや朝顔に釣瓶とられてもらひ水という千代女の句で、知ったふりをするしかない。秋になって改めて味わう涼しさは、ホッとして身がひきしまる思いがする。「新涼や/水汲み・・・」ではなく、「新涼の水汲み・・・」で「新涼の水」を汲みあげているととらえている。冷やかに澄みきった井戸水であろう。ただの井戸や川から汲むのではなく、撥釣瓶で汲みあげるという設定によって空間が大きくなり、ゆったりとした動きも加わった。

のどかにしてすがすがしい動きに加え、かろやかな音さえ聞こえてくるようである。それにつれて人の動きも同時に見えてくる。水を汲みあげるという作業のなかに、人々の生活の基本が組みこまれていた――そんな時代があったことを、この句は映し出している。新涼と水をとり合わせた句は少なくない。

西東三鬼には新涼の咽喉透き通り水下るの句がある。東一郎は昭和十年代、北園克衛、安藤一郎、岡崎清一郎、他の詩人たちとともに俳句誌「風流陣」の同人だった。ほかに月の梅うすうすと富士泛(うか)べたりの句があり、句集に『昼花火』がある。『昼花火』(1940)所収。(八木忠栄)

釣瓶井戸と撥釣瓶井戸の思い出がある。地名も、なになに谷戸と呼び、生活様式がまるで、今の上下水道の完備している生活環境では考えられない。山あいの大木の木々の中に草葺屋根の家の裏庭に四角い井戸がある。覗いてみると3・4メートル下に水が溜まっている。それを撥釣瓶(天秤棒で片方に大きな石を結わいて片方はバケツをつけてくみ出す仕組みである。それと、井戸の上に、屋根の付いた4本柱の滑車をつけて、ロープで汲み上げる釣瓶井戸となって来た。

風呂に水を汲むのであるが、どこの家でも井戸の近くに風呂小屋があって、持ち運びが楽な方法だったと思う。大雨が降ると、水が濁った。そして、雨蛙が泳いでいたりした。また大風が吹くと、木の葉が浮かんで取り除くのである。

時々子供が落ちたり、飛び込んで自殺したと聞いて怖くなったりした覚えがある。そして私の家を新築した45年前に井戸を自分で掘った。手漕ぎの井戸である。でも、今は、上下水道が完備している。

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