崖の上の柿
今日の名言 子供は苦労を和らげる。しかし不幸を一段とつらいものにする。子供は人生の煩(わずら)いを増す。しかし、死の思いを和らげる。 |
『ベーコン随想集』 |
木守柿万古へ有機明かりなれ 志賀 康
柿の実をすべて採らずに一つだけ残しておく。来年もよく実がなりますようにという願いからか、あるいは全部採ってしまったら鳥たちが可哀相だからか。これが「木守柿」。
木のてっぺんに一つぽつんと残された柿は、なかなかに風情があるものだ。作者はこれを一つの灯のようにみなし、蛍光のような有機の明かりとしてではなく、ほの暗い自然のそれとして、「万古(ばんこ)」すなわち遠い昔をいつまでも照らしてくれよと祈っている。
私はこの句から、シュペルヴィエルの「動作」という詩を思い出した。草を食んでいる馬がひょいと後ろを向いたときに見たもの。それは二万世紀も前の同じ時刻に、一頭の馬がひょいと後ろを向いて見たものと同じだったというのである。この発想を生んだものこそが、木守柿の明かりであるなと反応したからである。
つまり、揚句における木守柿は、シュペルヴィエルにおける詩人の魂だと言えるだろう。魂であるからには、有機でなければならない。作者もまた、かくのごとき詩人の魂を持ちたいと願い、その祈りが木守柿に籠められている。
近ごろの俳句には、なかなか見られない真摯な祈りを詠んだ句だ。他の詩人のことはいざ知らず、最近の私は無機の明かりにに毒され過ぎたせいか、この句を読んで、初発の詩心を忘れかけているような気がした。詩を書かねば。『返照詩韻』(2008)所収。(清水哲男)
崖の上のポニョではないが、むかし崖の上の家があって、と言うより大正12年(1923年)の関東大震災で山が崩れて崖となっていたのだろう、かろうじて家は大丈夫で残っていたのだ。その家と夕日にあたった木守柿が子供心に、印象的に目に焼きついている。
崖に藤つるがあって「アーアァー」何てターザンごっこで藤つるにしがみ付いて遊んだところでもある。今は開発がなされて、もう跡かげばない。
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