人間形成と道徳教育
人間の子育ては他の生き物とかり違っている。親が子を育てることについて、自然の生きものの場合は、その子が自活して生きていくことが出来て、子孫を残せる能力があればそれでいいのだが、ところが人間の場合は、親は子に「立派な人間になりなさい」とか「世の中に役立つ人になりなさい」などと言い続けて育てる。そして「つまらない人間」であるとか「役に立たない人」になって欲しくないと言う。
「世の中に役立つ人」といえば漠然とイメージが描けそうだが、「立派な人間になりなさい」と言われても、立派な人間とはどういう人なのか、その人物像が親も子もはっきりとしていない。けれども、学力が優れていなければということで、学力の向上のために、しっかりと勉強しなさいと親は子に言う。「世の中に役立つ人」になることを願うのならば、ことの善悪が判断できる能力が必要だが、家庭での子育てで、やかましく教える親は少ないようである。親は子に善悪を教えることより学力の向上を求めるからだと思う。
「立派な人間になりなさい」と言われて、親のすすめで進学校をめざす生徒が多いようである。ところが選抜されて集まった学力上位の生徒が集まる進学校では、学力の差が生まれてしまう。成績上位のものは有名大学をめざすが、どうしても成績が上向かない生徒は落胆して自信を失っていく。人が成長していく過程において、進学の勉強ばかりで「立派な人間」とは何か、生きる意味を学ぶことがない。
人間として成長する上で、子は、何を求めてなんのために学ぶのか、深く考えることもなく、わからないままに「いい子」ぶって親の安心を得るために進学用の学びをしているようである。親も学校も生きる意味とはの問いかけを子にしない、子供は「立派な人間像」を画くことなく漠然とした進学用の勉学のみ励むことになる。 「立派な人間になりなさい」と親は言うが、進学時は学力向上のみが関心事となり、生きる意味を家庭でも学校でも教えない、子は精神的にひ弱になり、強靱な生きる力が具わっていないから、世の波にのまれてしまい勝ちになる。 そこで学校教育で昔で言えば「修身」であるが「道徳」が大事で、家庭・学校・地域が一体になって教えることが重要である。 道徳の内容は,四つの視点で示されている。自分自身,他の人,自然崇高なもの,集団や社会である。それは,かかわりを意味している。すなわち,道徳性(人間らしい心)は,いろいろなかかわりを通して身につけていくものなのである。 そして大事なのは、「人間形成である」人間形成とは、人間は遺伝子で形成され遺伝子情報によってある程度は決まっている。しかしながら、性格や個性などは遺伝子だけで形成しているわけではない。人格形成は環境と教育がつくりだすのである。これは、一卵性双生児は全く同じ遺伝子であるのにもかかわらず性格や趣味などの性質がことなることからわかる。
- 環境が人間を変える力を持っている
- 教育が人間を変える力を持っている
したがって、インターフェイスが非常に重要であることがわかる。インターフェイスは環境であり、そのインターフェイスで人間は変わる可能性を持つということである。(情報のやり取りを仲介する)
そうして、個性豊かで、createな人間になり、本当の世のためになる人間が育つのである。
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