八月というと
今日の名言 自負、嫉妬、貪婪(どんらん)は人の心に火を放てる三の火花なり。 |
ダンテ『神曲』(上) |
原爆忌は夏季だが、立秋を間に挟むので、広島忌(夏)長崎忌(秋)と区別する場合もある・・・というのを聞きながら、何をのん気なことを言っているんだろう、と思った記憶がある。
もちろんそれは、何ら異論を挟むような問題ではないのだけれど。原爆投下、終戦、玉音放送から連想されるのはやりきれない夏だと母は言う、だから夾竹桃の花は嫌いだと。
昭和二十年八月六日、愛媛県今治市に疎開していた母は、その瞬間戸外にいて、一瞬の閃光につつまれた。その光の記憶は、六十三年経った現在も鮮明であるという。
その時十三歳であったと思われる作者に、どんな記憶が残っているのかはわからないけれど、輪郭が際立ち始めた八月の月の光と、原爆の、想像を絶する強烈な光は、かけ離れているようでどこか呼応する。
八月という言葉の持つ重さが、その二つを結びつけているのだろうか。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(今井肖子)
八月と言うと、私達の夫婦で誕生日である。私が七日。女房が二十四日である。特に昔から特別な行事はしていないが・・・。
それより、何と言っても解説者が言っていたが、十五日の玉音放送のあった日と十三日のお袋の立ち日である。まず終戦記念日であるがその日は、昨日のような焼け付くよう太陽であった。「玉音放送ってなに」お袋に聞いたが、天皇陛下がラジオで重大発表がるという事だった。
その当時ラジオはどこの家にもなかったが、我が家の貧乏百姓に何故かあった。しかし、あんまり聞いた事は覚えていない。しかし、終戦直前に昼の12時に大本営発表の「我日本軍は・・・。」とか、「空襲警報発令、敵機B29編体は富士山目がけて飛び90度向きを変え東京市街を襲う、恐れあり・・・。」そんな放送を聞いた。
その日は、近所の方が5・6人集まった。「アッ清ちゃんがいない。」どうしたんだろうと誰かが言っていたが、「ああそうだ、防空壕を掘っている」、呼んで来いと言って、近くの土手で防空壕の穴を掘っていた。みんな揃った。ラジオはノイズが入って、波の上からのよう「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」と天皇陛下の声が聞こえた。聞いている大人の人は帽子をとり、姉さんかぶりをとって直立不動で立って聞いていた、その目から涙が見られた。
そして、終戦4年後の昭和二十四年八月十三日、お袋が四十八歳生涯を閉じた。私が十二歳であった。胃潰瘍で吐血して、暫く、療養したが【当時は町医者で、胃薬と信人者(祈祷師)と言って、お米を持って、病気が治るように祈って貰う。】従兄弟で東京の日大病院で看護婦をやっていたキヨちゃんに時々見てもらっていたが、薬石甲斐なく?自宅で亡くなった。丁度その時、川に泳ぎに行っていたので、直ぐ上の兄に呼ばれ「母ちゃんが死んでしまった」といわれ、裸で夢中で走った。みんなお袋の枕元で声を出して泣いていた。
また、忘れる事の出来ない現実が六日に広島、今日九日に長崎に、世界で始めての原子爆弾が投下され、広島が当時と戦後をあわせて235000人・長崎が75000人であるそうだ。当時、近所のおじさんが兵隊で広島に駐留していたそうで、復員して来て、原子爆弾の威力ときのこ雲の話を真剣に聞きいっていた。
と言う訳で私の「八月は私の人生でも、激しく戦った月でもある。」
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