ヒキガエルと雨蛙
今日の名言 反論し論破するために読むな。信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい。 |
『ベーコン随想集』 |
蟇ひたすら月に迫りけり 宮澤賢治
見るからにグロテスクで、人にはあまり好かれない蟇(ひきがへる)の動作は鈍重で、叫んでも小石を投げつけてもなかなか動かない。暗い藪のなかで出くわし、ハッとして思わず跳びすさった経験がある。その蟇が地べたにバタリとへばりついているのではなく、「月に迫りけり」と大きなパースペクティブでとらえたところが、いかにも賢治らしい。
ピョンピョンと跳んで月に迫るわけではない。バタリ・・・バタリ・・・とゆっくり重々しく迫って行くのだろう。「ひたすら」といっても、ゆっくりとした前進であるにちがいない。蟇には日の暮れる頃から活動する習性があるという。
鈍重な蟇と明るい月の取り合せが印象的である。もしかしてこの蟇は、銀河鉄道でロマンチックに運ばれて行くのだろうか。そんな滑稽な図を考えてみたくもなる。賢治に「春―水星少女歌劇団一行」という詩があり、「向ふの小さな泥洲では、ぼうぼうと立つ白い湯気のなかを、蟇がつるんで這つてゐます」という、蟇の登場で終わっている。
賢治は少年期から青年期にかけて、さかんに短歌を作ったけれども、俳句には「たそがれてなまめく菊のけはひかな」という作品もある。彼の俳句については触れられることが殆どなく、年譜に「村上鬼城『鬼城句集』が出版され、・・・・愛好して後半作句の手引きとし揮毫の練習に用いた」(大正六年・二十一歳)と記されている程度である。蟇といえば、中村草田男の代表句の一つ「蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし」を思い出す。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
4・5年前、庭の草むらにいる事があったが、どうも気持がいいものでない。前の川にはまだいるらしい。姿は見えないが「ガオーガオー」と鳴き声を聞くことがある。
蛙と言えば、最近は殆ど見かけない。何処でも見られた、アマガエルは雨が降り出そうとしている空模様になると、あちこちから聞えてきたものだ。昨年の夏、街路樹の楓の葉にいたのを見た。無意識に「アッ雨蛙!」と叫んでしまった。
アッそうそう昔、お蚕をしていた頃桑摘みをしていて、桑の葉によく見かけることがあった。その色はグリーンと言うか青いというか、蛍光色だ。
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