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2008年8月28日 (木)

庭鳥のこと

今日の名言

時間は過去を忘れさせる三途の川の水だといわれるが、旅の空気もそういう種類の飲みものであって、そのききめは時間の流れほどには徹底的でないにしても、それだけにいっそうてっとり早い。

トーマス・マン『魔の山』(上)

05ainokura11行く夏を鶏の匂いの父といる 南村健治

ずっと昔、近所の人に連れられて山深い田舎に遊びに行った。楽しく過ごしたのだけど、夜の暗さと家の内外に濃く漂っている匂いにはどうしても慣れることができなかった。おとなになって園芸用の鶏糞の匂いをかいだとき、むかし寝泊りした農家の記憶がよみがえってきた。

あの家に漂っていた匂いは土間のすぐ脇にあった鶏小屋の匂いだったのだろう。朝になるとおじさんが木の柄杓のようなもので、まだぬくい卵をとってきて掌にのせてくれた。闘鶏用の鶏も育てていて、一回負けた鶏は使い物にならないので潰して食べると言っていた。

卵を採り、鶏糞を畑に撒き、いらない鶏を潰して食べるのはその家の主人にとってごくありふれたことだったのだろう。「鶏の匂いの父」はそんなふうに鶏とともに生活してきた人の匂い。

作者とともに晩夏の時間を過ごしている父は回想の父なのか、現在の父なのか。どちらにしても夏が過ぎれば鶏の匂いのする父は残り、匂わない息子は別の場所へと帰ってゆく。そうだとしても、一緒にいる今はとりたてて話すこともなく二人ぼやっとテレビなんぞを見ているのかもしれない。『大頭』(2002)所収。(三宅やよい)

鶏(にわとり)と言えば、庭鳥で農家の庭は広い、その広い庭は、大事な作業場であった。籾を筵で干したり、脱穀などをする。そこに、放し飼いで鶏が5・6羽餌をついばんでいる。そんな光景が思い出される。親父が、鶏は夜露にあたると、強くなると言っていたが、雄鶏の一羽が、籾をついばんで、困るので、おっぱらたら、草葺屋根の棟まで飛んでいった。

まるで野鳥のようになったしまった。しかし、親父は平気な顔でいた。夕方日が「暮れれば何時ものねぐらにかえるよ」と言って、私の心配は吹っ飛んだ。

朝、納屋の奥から、第一声で時を作ったと思ったら、隣の家・あちこちの家から鳴き競いである。「コケ・コッコウ・ヨガ・アケタ!」と鳴きだすと。前の山の頂に朝日が昇り、人が起きだし一日が始まるのである。

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