石榴の思い出
今日の名言 私は彼を深く愛している、だから一緒ならどんな死にも堪えられる、しかし、一緒でなければ、たとえ生きていても生きていることにはならない! |
ミルトン『失楽園』(下) |
このように詠んだ作者の「ふるさと」とはどこなのか。出生地ではないけれども、「赤坂は私にとってふるさと」と滋は書いている。その地で幼・少年期を過ごしたという。「赤坂という街の人品骨柄は、下下の下に堕ちた」と滋は嘆いた。
詠んだ時期は1960年代終わり頃のこと。その後半世紀近く、その街はさらに際限なく上へ横へと変貌を重ねている。ここでは、久しぶりに訪ねた赤坂の寺社の境内かどこかに、唯一昔と変わらぬ様子で赤々と実っているざくろに、辛うじて心を慰められているのだ。
昔と変わることない色つやで光っているざくろの実が、いっそう街の人品骨柄の堕落ぶりを際立たせているのだろう。なにも赤坂に限らない。この国の辺鄙だった「ふるさと」は各地で多少の違いはあれ、「下下の下に堕ちた」という言葉を裏切ってはいないと言えよう。
いや、ざくろの存在とてあやういものである。ざくろと言えば、私が子どもの頃、隣家との敷地の境に大きなざくろの木が毎年みごとな実をつけていた。その表皮の色つや、割れ目からのぞくおいしそうな種のかたまり――子ども心に欲しくて欲しくてたまらなかった。
ついにある夜、意を決してそっと失敬して、さっそく食べてみた。がっかり。子どもにはちっともおいしいものではなかった。スリリングな盗みの記憶だけが今も忘れられない。滋は壮絶な句集『癌め』を残して、1997年に亡くなった。
弔辞を読んだ鷹羽狩行には「過去苦く柘榴一粒づつ甘し」の句がある。『絵本・落語風土記』(1970)所収。(八木忠栄)
ざくろかー!、石榴の木が家にあったが、43年前に家を建てたとき、兄が庭に植えてくれたのだが、3年前に20センチぐらいの根元に虫が入り枯れてしまった。
木肌が皮のようになっていて、剥がれて落ちる。花ビラが八重?そして実が実るのであるが、殆ど食べたことがない。虫に食われてしまうからだ。小さな葉が秋のなると落葉となって庭を汚す。だから良い印象はない。
しかし、ある割烹料理屋に、両親を連れて行ったとき、石榴の素材を使った料理を頂いた。仲居さんに、説明されて分かったのだが、珍しく美味しかった記憶がある。そうだなあ、もう十何年前になるかなあ・・・。
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