腰の曲がり
今日の名言 愛は愛せらるる資格ありとの自信に基(もとづ)いて起る。ただし愛せらるるの資格ありと自信して、愛するの資格なきに気の付かぬものがある。 |
夏目漱石『虞美人草』 |
体を二つに折り、頭を深く下げる身振りは、邪馬台国について書かれた『魏志倭人伝』のなかに既に記されているという長い歴史を持つ所作である。
武器を持っていないことを証明することから生まれた西洋の握手には、触れ合うことによる親睦が色濃くあらわれるが、首を差し出すというお辞儀には一歩離れた距離があり、そこに相手への敬意や配慮などが込められているのだろう。
掲句では「深く」のひとことが、単なる挨拶から切り離され、そのかたちが祈りにも見え、痛みに耐える姿にも見え、切なく心に迫る。引き続く残暑とともに息づく八月が他の月と大きく異なる点は、なんとしても敗戦した日が重なることにあるだろう。
さらにはお盆なども引き連れ、生者と死者をたぐり寄せるように集めてくる。掲句はそれらをじゅうぶんに意識し、咀嚼し、尊び、八月が象徴するあらゆるものに繊細に反応する。
〈かなかなや草のおほへる忘れ水〉〈こんなふうに咲きたいのだらうか菊よ〉〈兎抱く心にかたちあるごとく〉『風の忘るる』(2008)所収。(土肥あき子)
最近、お婆さん、お爺さんで、酷く腰の曲がった人が少なくなった。むかし、近所に腰の曲がったお婆さんがいて、その歩く姿は、両手を後ろに上げて、さながら、飛行機の練習機のようであった。子供達は、その歩く姿をまねして、「ブーン・ブーン」と歩き回った。
今で思い出すのだが、お婆さんの気持も考えず、何て悪いことしたのだろうと反省するのだが、今そろそろ腰の曲るのも、近いのではと心配するようになった。同級生も、だんだん欠ける(亡くなる)噂を耳にすると、なんだか寂しい思いがする。
そういえば、しょっちゅう野菜を買いに行く農家のお婆さんももの凄く曲がっている。歩く時は真下を見て歩くようで、3歩いて止まり、遠く(先)安全を確認し歩くのである。
腰の低い、お辞儀が丁寧、などの普通の人も、心がける事が大事である。人間の肝心要は腰である。態度で、第一印象が決められる。
« 介護職の確保へ | トップページ | 暑かったり、寒かったり異常気象? »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント