現代のお墓事情
今日の名言 人生を大切に思うと言われるのか。それならば、時間をむだ使いなさらぬがよろしい。時間こそ、人生を形作る材料なのだから。 |
『フランクリン自伝』 |
葬儀に出かけるために、喪服に着替えた。しかし、家を出るにはまだ少し時間がある。煙草を喫う人ならばここで一服となるところだろうが、作者はガムを噛んで時間をつぶすことにした。煙草でもガムでも、こういうときのそれは、べつに味を求めて口にするわけではない。
ただ漫然と時間をつぶす気持ちになれなくて、何かしていなければ気がすまない状態にある。そしてたまたま手近にあったガムを噛んだのだが、噛めば噛んだで、口中の単純な反復行為は、噛んでいないときよりも、故人のあれこれを思い出す引き金のようになる。
まあ、一種の集中力が口中から精神にのりうつってくるというわけだ。いっそうの喪失感が湧き上がってくる。その意味で、喪服とガムはミスマッチのようでいて、そうではないのである。煙草を喫うよりも、噛みしめる行為が伴うので、余計に心には響くものがある。時はしかも秋の昼だ。外光はあくまでも明るく、空気は澄んでいる。
人が死んだなんて、嘘のようである。葬儀に向かう心情を、あくまでも平凡で具体的な行為に託しながら捉えてみせた佳句と言えよう。おそらくは誰だって、比喩的に言えば、ガムを噛んでからおもむろに葬式に臨むのである。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
最近、お墓事情が変わってきて、社会的現象が起きているようでテレビ・雑誌などで取り上げている。まず、お墓の値段が高い、管理費が高い、場所が遠くなる、などであるが何と言っても、先祖代々でお墓を守っていくとか、お寺の付け届け等が面倒である。などの理由がある。
したがって、遺骨を固め剤を混ぜて固め、例で20×60×120の長方形に化粧プレート化し、そこに故人の名を記す。そして、家の好きなところに置くという。また、遺骨を粉末状にしコップのような容器に入れて部屋の故人が好きな場所だったとこの置くという。
そのような、方法だと、費用が20~30万円で出来る。そして、お墓の掃除とか、お墓参りとか、お寺に行く必要がない。何と言っても先祖のお墓を守るという現代意識がなくなってきている世情である。
まあ、平面的なお墓を作っていったら、土地はなくなり、立体的に土地利用しないと、無理である。
もうそろそろ、そんな事を真剣に考える年になったんだ、と、思うと寂しい夕暮れ時のようだ。
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