火と人間生活
今日の名言 「知は力なり」。とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力をもっていない人もあるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の威力を揮(ふる)う人もある。 |
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』 |
花火見る暗き二階を見て通る 池内たけし
花火見るでは切れない。花火を見ている顔が並ぶ暗い二階を見て通るという内容。顔は見えないかもしれない。顔が見えなくても花火を見ているであろうことは声でわかるのかもしれない。もし「見る」で切れるとするならば、作者は花火と暗い二階を同時に(或いは連続して)見ていることになる。同時に見るのは無理だし、連続して見てもそこに詩情は感じられない。これはやはり花火を見ないで二階を見ているのだ。花火を見ているのは二階の人。
花火を見ずとも音は聞こえる。花火の炸裂音の中で作者は暗い二階を見上げる。花火に浮き立つ世の人々を冷笑的に見ているのか。花火賛歌ではない内面的な角度がある。何か人目をひくものの前でそこに見入る人を見ている人が必ずいる。
見る側に立つのはいいが、見られる側に立つのはなんとなく気持ちが悪い。見ている側に優越的な気持ちを持たれているようでもあるし。もし逆の立場で、二階で花火を見ている自分が下から見られていると感じたら、いっそう楽しそうに花火見物の自分をみせつける奴と、どこ見てんだよと睨み返す奴がいるんだろうな。僕はやっぱり後者だな。楽しんでる顔を冷静に見られるのは嫌だな。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)
火は、この地球が宇宙の存在したビッグバーンが起きた時以来から、火・水・酸素がして生物が生きられる条件がのちに人間はじめ多くの生物地球上うまれた。それ以来火は恐ろしい、爆発によって地球上に進化して今がある。
だから、火は、進化をしていく過程で、上手の利用してきたもので、使い方を間違えれば恐ろしいものとなる。花火はその恐ろしい火を最も人間が何億年前から引きついているDNAのようなものである。
普段は、火がなければ、生活できない。また、むかしから人間社会に災いをもたらす様な神霊を、「荒振神」(アラブルカミ)と呼び、畏れ敬う信仰があった。火は、全ての物を焼き尽くすものであり、又食べ物を調理するためには、人間には必ず必要なものである。古来から人間は、火に対して畏れの気持ちと感謝の気持ちを持ち、家の守護神として、又作物の神として信仰した。激しい霊威、神威をもたれているので、火の神、竈の神を荒神と呼んでいる。
そんな、火を利用して空に打ち上げ花のように見せて、人々を喜ばすのは、そこに人間の生きるための知恵で、作り上げている。そんな事を思って、書いてみた。
今日もどこかで花火大会が開かれるだろう。
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