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2008年8月16日 (土)

暑いが、ちょっとだけ秋を感じる

今日の名言

若い御婦人というものは、はじめて男に求愛されると、心の中では受けいれようと思っていても、一応は拒絶するのが普通なんです。時には、二度も三度も拒絶することがあるものです。

オースティン『高慢と偏見』(上)

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           上の写真は昨年の10月頃写したもの

ぼろぼろな花野に雨の降りつづけ 草間時彦

花野というと、子供の頃夏休みの何日かを過ごした山中湖を思い出す。早朝、赤富士を見ようと眠い目をこすりながら窓を開けると、高原の朝の匂いが目の前に広がる花野から飛び込んで来た。それは草と土と朝露の匂いで、今でも夕立の後などに、それに近い匂いがすると懐かしい心持ちになる。

花野は、自然に草花が群生したものなので、夏の間は草いきれに満ちているだろう。そこに少しずつ、秋の七草を始め、吾亦紅や野菊などが咲き、草色の中に、白、黄色、赤、紫と色が散らばって花野となってゆく。この句の花野は、那須野の広々とした花野であるという。

そこに、ただただ雨が降っている。雨は、草の匂いとこまごまとした花の色を濃くしながら降り続き、止む気配もない。降りつづけ、の已然止めが、そんな高原の蕭々とした様を思わせ、ぼろぼろな、という措辞からするともう終わりかけている花野かもしれないが、その語感とは逆に逞しい千草をも感じさせる。

同じ花野で花野より虻来る朝の目玉焼とあり、いずれもイメージに囚われない作者自身の花野である。『淡酒』(1971)所収。(今井肖子

 真夏日に コスモス咲いて 秋こがれ

春に芽が出て、毎年大きく育つ、一回植えたコスモスが、花が咲き実が落ちて翌年の春の育つ、そのパターンが5年ぐらい続いている。しかし、春から夏になるまで雑草を取ったり、おろぬきをしたり、芯を止めたりしないと、いい花は咲かない。その世話を今日近所の方三人で午前中行った。

近くの湯殿川、河川管理通路である。植えている距離は約300メーターである。2日前の豪雨で2メーターにも背丈がなった枝は倒れてしまった。その枝を起こして紐で留める作業である。

ちょっと早い開花であるが、三分咲きと言ったほどに咲いている。コスモスの旬は10月~11月である。実生であるのでどうしても咲くのが早く七月頃から咲いている。

この所暑い日が続いている。もうそろそろ涼しくなって欲しいところ、あさの4時半ごろは何となくこのコスモスの花を見ると、涼しさを感じるのである。

河川管理通路は、少しだけど、朝の風、トンボの飛び方で、秋が感じる事が出来るようになった。

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