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2008年8月11日 (月)

廃家にしたくない

今日の名言

武士はいざという時には飽食(ほうしよく)はしない。しかしまた空腹で大切な事に取り掛かることもない。

森鴎外『阿部一族 他二編』

05ainokura11 家はみな杖にしら髪の墓参 松尾芭蕉

墓参はなにも盆に限ったことではないが、俳句では盆が供養月であることから秋の季語としてきた。芭蕉の死の年、元禄七年(1694年)の作である。句の情景は説明するまでもなかろうが、作者にしてみれば、一種愕然たる思いの果ての心情吐露と言ってよいだろう。

芭蕉には兄と姉がおり、三人の妹がいた。が、兄の半左衛門には子がなくて妹を養女にしていたのだし、芭蕉にもなく、あとの姉妹の子も早逝したりして、このときの松尾家には若者はいなかったと思われる。残されて墓参に参加しているのは、年老いた兄弟姉妹だけである。

それぞれが齢を重ねているのは当たり前の話だから、あらためてびっくりするはずもないのだけれど、しかし実際にこうしてみんなが墓の前に立っている姿を目撃すると、やはりあらためて愕然とするのであった。

この句の「みな」の「杖」と「しら髪(が)」は老いの象徴物なのであって、白日の下にあってはその他の老いの諸相も細部に至るまで、あからさまにむき出しにされていたことだろう。松尾家、老いたり。朽ち果てるのも時間の問題だ。

このときの芭蕉は体調不良だったはずだが、、猛暑のなか、かえって頭だけは煌々と冴えていたのかもしれない。矢島渚男は「高齢者家族の嘆きを描いて、これ以上の句はおそらく今後も出ないことであろう」(「梟」2008年8月号)と書いている。同感だ。(清水哲男)

時代と言うものは、無情である。我一族もの象徴である、生家は無人となってしまった。大正時代の家は昭和36年ごろ改造していて、その後昭和50年代に区画整理がありスッカリ私の10代の頃のイメージがなくなって、姿は変えているが、大正時代からあった場所に今も存在するのである。それにしても、貧農だったが、屈託がない家族だったなあ・・・。

 だが、小学唱歌にある。故郷の廃家二番の歌詞を思い出す。

昔を語るか そよぐ風 昔をうつすか 澄める水 朝夕かたみに 手をとりて 遊びし友人(ともびと) いまいずこ さびしき 故郷や さびしき 我が家や

しかし、私達の先祖の魂はこの地にある。私が丈夫でいるうちは誰も管理す人がいないような生家にはしたくない。最低限の除草していこうと思う。それにしても、なんだか勘違いしていた「LONG LONG AGO」曲で「かきに赤い花が咲き」は“柿”ではなく“垣”であったとは、つい最近知るとは、なんだか恥ずかしい。        

【訳詞】古関吉雄

1.かき(垣)に赤い花さく いつかのあの家             
  ゆめに帰るその庭 はるかなむかし       
  鳥のうた木々めぐり そよかぜに花ゆらぐ   
  なつかしい思い出よ はるかなむかし      

2.白い雲うかんでた いつかのあの丘
  かけおりた草のみち はるかなむかし
  あの日の歌うたえば 思い出す青い空
  なつかしいあの丘よ はるかなむかし

昔の小学校の音楽の時間で教科書が一人一人なく二人で一冊で見ていたからだろう。かきといえば「柿」しかイメージがなく「垣」とは全く想像しなかった。しかし、柿が何で赤い花が咲くのだろうとは、不思議だなあ・・・とは思っていたが、この歌もその時だけで忘れてしまっていた。

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