躍動する夏
今日の名言 どこの国だってほんとうの善人は多くない、はなはだ少ない。美しい人も多くはない、はなはだ少ない。しかしいないことはない。ただそういう人にめったに会うことができないだけだ。 |
武者小路実篤『友情』 |
客観写生といわれる方法から従来の俳句的情趣を剥ぎ取ったらどうなるかという実験的な作品。ものをそのまま文字に置き換えて「客観的に写生する」ことの論理的矛盾を嗤い言葉から発する自在なイメージを尊重するようにとの主張から「新興俳句」が出発したが、その「写生」批判は実は、従来の俳句的情趣つまり花鳥諷詠批判が本質だったと僕は思う。
俳句モダニストたちの写生蔑視の中には誓子のこんな句は計算外だった。平泳ぎでもクロールでもいい。水の表面を泳いでいる肢がある地点で地につく。その瞬間から歩行が始まる。水中を縦割りにして泳者を横から見ている視点がある。水面は上辺。
遠浅の海底が底辺。底辺は陸に向かって斜めに上がりやがて上辺と交わる。そこが陸である。肢は、二辺が作る鋭角の中を上辺に沿って移動し、ある時点で底辺に触れる。こんな「写生」をそれまでに誰が試みたろうか。ここにはまったく新しい現代の情緒が生み出されている。『青銅』(1962)所収。(今井 聖)
蓮の花 餌さに集まる 鯉の群れ
コスモスや 朝の涼しさ 花が咲く
泥んこの 日に焼けた顔 さかな網
昨日、近くの公園で、こんな情景を見る。 子供達は、夏休み真っ最中である。八王子祭りは今日から始まる。東京江戸川区に住んでいる孫達が来ると言う。久し振りである。
私も、3日には、交通整理で、出かける。炎天下で半日で、熱中症にならないように気をつけないといけない。
今月8日には北京五輪開催される。福田首相も開会式に行くそうだ。日本の選手のメタル獲得数は幾つになるだろか、それにしても北京の空は公害で心配だ。
今年の8月は、「躍動する夏」となる。我々夫婦の誕生日月、月末は一族の一泊旅行に行く予定である。
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